うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【最終的な感想】今まで本当にごめん。「アスペル・カノジョ」は「生きづらさ」との和解を目指した素晴らしい漫画だった。

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*漫画「アスペル・カノジョ」の結末までのネタバレが含まれます。未読のかたはご注意下さい。

 

 

これまでのあらすじ。

漫画「アスペル・カノジョ」は、横井→恵の一方通行の話なのにそれを隠していることにうんざりし、6巻で読むのを止める。

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気を取り直して最終巻まで読む。

結局、横井は「この話は自分が主体を負うべき、自分の物語である」と認めることはなく終わったことにうんざりし、横井に対する不満を長々と述べる。

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と読み終わったあともまだ色々と文句を言っていたが、ふと思いついたことから、読み方が変わった。

その途端「アスペル・カノジョ」はこういう話だったのか、とやっと自分の中でしっくりくる解答が見つかった。

 

「アスペル・カノジョ」は、主人公が「物語世界」にいない。

「『アスペル・カノジョ』は横井が主人公として背負うべき、横井ただ一人のための物語だ。それなのに、横井は主人公としてこの話を背負おうとしていない」

自分はこれまで、この一点だけにひたすら文句を言ってきた。

「ただ一人の主人公」の役目を負っているかどうかはともかく、横井は物語の中でずっと出てきている。

それなのになぜ、そのことにこんなに文句を言い続けるのか。

 

自分は「アスペル・カノジョ」の主人公は

(引用元:「アスペル・カノジョ」8巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

こいつだ、と思っているからだ。

 

これは誰か? 主人公の横井だ。

しかし、この人は物語の本筋に絡んではいない。

それ以前に物語世界にほとんどいない。

たまに物語世界に行ったと思うと、

(引用元:「アスペル・カノジョ」8巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

と言って引き返してくる。

大変な気持ちはわかるが、君の代わりに君の彼女が物語世界で頑張っているようだが(十倍角)いかなくていいのか?

これは君の話だよな? と読んでいる間中、ずっと突っ込んでいた。

正確には突っ込めなくてイライラしていた。

 

このことは最後の最後で横井自身が言及している。

(引用元:「アスペル・カノジョ」12巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

はじき出されても仲間に入ろうと必死に努力した斉藤さんと違って、俺はあっさり輪を切り捨てて逃げ回ったからなぁ……。

(引用元:「アスペル・カノジョ」12巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

 

「なぜ、主人公のお前がここにいる?」という驚愕。

比喩的な話として。

物語世界を見るために、てくてくと近寄って行ったら、その世界を見るための場所に自分以外の誰かがいる。

「誰だ?」と思って顔を見たら、なんと横井なのだ。

舞台を見に行って、主演俳優が観客席に座っていたら驚くと思うが、自分の「アスペル・カノジョ」の読書体験はそんな感じだ。

当然、話の内容なんて頭に入ってこない。ずっと横井のことを見てしまう。

横井はたまに頑張って物語の中に行くが、すぐにまた戻って来る。

そうして最後まで、観客席にいて終わってしまった……と思った。

だから前回の「最後まで読んだ感想」では、横井の文句しか言っていないのだ。

あれは「物語世界の横井」ではなく、自分の隣の席に座っていた横井に対して文句を言っているのだ。

 

「アスペル・カノジョ」の真の主人公・メタ横井は、物語の外の世界にいる。

自分にとって「アスペル・カノジョ」の世界は、二層構造になっている。

第一層→「狭義の物語世界」(以下物語世界)恵など他の登場人物はここにいて、この世界のことしかわからない。

第二層→物語全体が俯瞰できる第一層の上位世界。通称「観客席」。

第一層の上位世界なので、横井は物語世界とこの世界を自由自在に行き来できる。

 

この話は、観客席にいる横井が物語世界に登場したと分かる時がある。

たまに話の流れに即して演出が変だな?と思う箇所があるが、その時に出てくるのが普段は観客席にいる横井だ。

前述した「それが斉藤さんが住む世界です」と言っているシーンは、急に画面が暗くなり目が黒く塗りつぶされた虚ろな感じになる。

また9巻で、パニックになった恵を宥める会話の途中でも出てくる。

(引用元:「アスペル・カノジョ」9巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

こいつ(言い方)が観客席にいる横井だ。

この時、ストーリーの流れ(物語世界)で話していることの主旨は横井の内面の話ではない。

横井が恵の対応を間違え、そのことに対して恵が混乱している状態であり、話の主眼は「恵の混乱を宥めること」だ。

それなのに、唐突に大ゴマで横井が内省する。

 

これは何故か?

この横井の内省こそが、「アスペル・カノジョ」の主題だからだ。

自分がこのシーンを見た時に「ようやく本題に入った」と感じたのはそのためだ。

そしてこの「自分の内面を見るような眼差し」をしている時の横井は、普段は観客席にいる横井、通称「メタ横井」だ。

「アスペル・カノジョ」の真の主役は、この「メタ横井」である。

たまに頑張って物語世界に戻った時に、こうして大ゴマで自らの内省や気持ち、問題点を語る。

ところが自分が戻れる時に唐突に戻るために、話の前後のつながりが若干おかしい。

そのため前回の記事で

あっという間に「横井の問題」をスルーされてガクッときた。

と書いたように、メタ横井の内省は話には組み込まれず流されてしまう。

 

「作内横井」と恵は、両方ともメタ横井の分身である。

「アスペル・カノジョ」は、基本的には主役が不在の物語だ。(たまに戻って来るが)

しかし、それではいくら何でも話が成り立たない。

そのために「代役」が用意されている。

(引用元:「アスペル・カノジョ」11巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

「高松さんが自分の分身を求めたことがない人だから」

「斉藤さんは求めたんですか?」

恵だ。

恵は現実で、「輪を切り捨てて逃げ回っている」横井の代わりに、「はじき出されても仲間に入ろうと必死に努力する」代役なのだ。

 

前回の記事で、自分は「分身である恵が、真の主役の横井の課題の大半と主体を背負う構図はアンフェアだ」と指摘した。

この話を「物語世界内でのみ」解釈したら、そうとしか解釈のしようがないからだ。

しかし「アスペル・カノジョ」は、「物語内世界」のみで完結している話ではない。

第二層内も含めた視点で、つまり真の主役であるメタ横井に対しての指摘としては、筋違いなのだ。

何故ならメタ横井にとっては、横井も恵も自分自身だからだ。

第一層がメタ横井の内面世界という意味ではない。横井と恵以外の登場人物は、メタ横井にとっては他人だ。

第一層はその中にいる登場人物たちにとっては「現実」だ。

だがメタ横井にとっては、その横にいる読み手である自分と同じように「物語世界」なのだ。

 

恵は「作内横井」の分身なのではなく、メタ横井の分身である

恵と作内横井は、物語の上位層にいるメタ横井の分身同士である。

「アスペル・カノジョ」は、こういう仕組みで出来ている物語なのだ。

 

そういう視点で見ると、初めて登場人物たちが何を喋っているのかわかる箇所がそこかしこにある。

例えば、横井が病室で抱きつかれて「恵は自分の分身である」と言ったあとの会話だ。

「斉藤さんは求めたんですか?」

「じゃないと俺を見つけられないはずですから。自分を見ないと俺のことも見えなかったはずです」

(引用元:「アスペル・カノジョ」11巻 萩本創八/森田蓮次 講談社/太字は引用者)

前回の記事では、

横井は「自分が恵を求めた(分身を必要としている)」とは認めない。

「恵が自分のことを見つけて」

「恵が俺のことを見る」

常に主体を恵に背負わせる。

と言った。

しかし、これは違う。

このシーンで横井は、

「メタ横井が自分自身について考え始めた。だからメタ横井の分身である恵が、もう一人の分身である作内横井を見つけることが出来た」

と言っているのだ。

 

病室での高松との会話のシーンで、横井は「恵はメタ横井の分身である」とはっきり言っているが、この箇所以外にも二人が「メタ横井の分身同士」であることを示唆するシーンはいくつかある。

例えば9巻71話では、恵は月経、横井は血尿という形でストレスによって同時に出血している。

またその後の展開で、横井は自分の「脳内情報」が恵に伝わったと考えるシーンがある。

細かいことだが、「脳内情報」という語の選び方に引っかかりがある。

恵は障害を持つがゆえに「脳内情報が伝わったと思うくらい、人の気配に敏感である」という比喩的な意味、と捉えることも出来る。

だが作内横井と恵が分身同士だとすると、これは文字通り「横井の脳内情報が恵に漏れた」のだ。

「脳内の情報を共有できる」つまり二人は、メタ横井という第二層にいる人物の分身同士なのだ。

 

「作内横井と恵は分身同士である」という視点で見ると、この時の母親との車内の言い争いのシーンも別の見方が出来る。

障害に苦しみパニックになっている恵が、自分を叱る母親を憎しみに近い目つきで見ているのに対して、冷静な作内横井は「この人も血を吐いて生きてきたのだろう」と母親に理解を示している。

自分が苦しい時は自分を責める親に怒りと憎しみしか感じない。

だが距離や時間を置いて冷静に振り返ると、親の立場や気持ちが理解できないこともない。

そういうことを表すシーンに見える。

 

恵は、二人の横井の「生きづらさ」そのもの。

9巻で横井は、職場の先輩である相馬に

斉藤さんが投げ捨てたい程抱えている苦しみの記憶が、俺には貴重なんです。

と言う。

これも恵が作内横井の分身だと考えると、「自分が忘れたいイジメにまつわる記憶を、すべて分身の恵に背負わせている」と感じる。

だが二人ともメタ横井の分身であると考えると、「いじめに纏わる記憶は全て恵が持っているため、作内横井は同級生のいじめ自殺に関する記憶も感情もほとんど持っていない」という風に役割分担をしているのだと分かる。

「斉藤さんの苦しみの記憶が俺には貴重」なのは、それが横井自身の苦しみの記憶だからだ。

 

対人恐怖症である横井が、多少葛藤したとはいえ、ストーカーじみたやり方で自分の家を突きとめた恵をあっさり受け入れるのは、物語世界だけで見るとご都合主義でツッコミどころ満載だ。

だが、第二層まで通して見れば当たり前なのだ。

メタ横井が自分自身の生きづらさについて考え出し、「自分にとって都合が悪い自分」を受け入れようという態勢が出来たから、作内横井と恵はお互いを可視化できるようになったのだ。

 

メタ横井は作内横井として現実で生き延びるために、「生きるために都合が悪い要素や記憶=恵」を切り捨てたのだ。

だが本来自分自身のものである記憶を、切り捨てることなど不可能だ。だから作内横井は、その作品に紐づくオリジナル作品を書き続けた。

恵が横井の作品を読んで「私みたいな人間がこの中にいる。私がいる」と言ったのは当然なのだ。横井が切り捨てた世界を託されたのが恵なのだから。

横井は比喩的な意味でも何でもなく、事実として「恵がいる世界」を描いているのだ。

 

そういう視点で見た場合、二人の分身とメタ横井の関係は、結局はどうなったのか。

第一層「物語世界」だけの話で言えば、作内横井と恵は「メタ横井の分身同士」から「分離した他者」になったのでは、と思っている。

 

それを象徴するシーンがこれだ。

(引用元:「アスペル・カノジョ」10巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

一見、「恵が横井の下から自立すること」を示唆するシーンに見える。

だがその解釈には少し違和感がある。

何故なら恵は作内横井の下を去らず、最終的には二人は結ばれるからだ。

 

このシーンは、自分は「恵が横井にとって『生きづらさ』を意味するものではなくなったことを表している」と思う。

作内横井にとってもメタ横井にとっても恵にとっても、生きづらさが消滅することは決してない。

しかし少なくとも、恵という分身にそれを押し付けて、切り捨てることでしか生きることが出来ないほどの生きづらさはなくなった。

困難を抱えながらも、社会で生きていくことが出来る。

そういうことを表しているシーンだと思う。

この瞬間に作内横井と恵は、分身同士ではなく他人同士になった。

そのために自〇*1を手伝うのではなく性交渉が持てるようになった、こういうことではないか。

 

メタ横井は、自分と「自分の生きづらさ」が出会い共に生きる「アスペル・カノジョ」を描いた。

(自分の中でだけ)悪名高かった結末間際のシーンも、まったく別の意味を帯びる。

私にとっての横井さんが、横井さんにはいなかったんですね。横井さん、可哀想。

これも「私にとっての(作内)横井さんが、(メタ)横井さんにはいなかったんですね。(メタ)横井さん、可哀想」と考えると、なるほどと思える。

 

メタ横井は作内横井を生き延びさせるために、恵を切り離し封じ込めた。

そうやって辛い記憶をほとんど忘れさせて作内横井は生きることが出来ても、メタ横井は恵も自分自身として抱えていくしかない。

作内横井が切り離された「恵が生きる世界」を描き続けたように、メタ横井は自分の分身である「かろうじて生き延びた自分」と「切り捨てざるえなかった生きづらさ」が同時に生きる「アスペル・カノジョ」を描いたのだ。

描くことが出来るようになったから、恵は作内横井を見つけることが出来たのだ。

「斉藤さんは求めたんですか?」

「じゃないと俺を見つけられないはずですから。自分を見ないと俺のことも見えなかったはずです」

 

まとめ:観客席でずっと怒り続けていたから、自分も「参加した」という楽しさがある。

自分にとって「アスペル・カノジョ」は、読んでいる間中、ずっとメタ横井にイラつき続ける漫画だった。

主人公のくせに、生きづらさを恵に押し付けて自分は「輪の外」で眺めている。

その態度に対する苛立ちが凄く、こいつの首根っこを捕まえて物語世界にぶん投げてやりたい*2とずっと思っていた。

お前はいつあの中で生きるんだ。恵はあの中で、お前の代わりに必死で戦っているのに、恵に困難と生きづらさを押しつけて。

と横井が喋るたびにイライラしていた。

読み終わった後も、まだ腹を立てていた。

 

だが読んでいる間中ずっと感じていた「読み手である自分の横に本来主人公のはずの横井がいて、物語にほとんど参加していない」という感覚をもっと突き詰めることは出来ないか、と思い立った。

そうして初めて、物語外の横井と作内の横井は別の存在であり、作内横井と恵は両方とも自分の隣りにいたメタ横井の「分身」なのではないか、と思いついた。

その瞬間、「アスペル・カノジョ」はこういう話で、イマイチピンとこなかったシーンや横井の言葉はこういう意味なのではないか、と分かったような気がした。

 

そこまできて、やっとわかった。

メタ横井は物語の外で苦しみ、「恵という生きづらさ」を抱えたまま頑張っていたのだ。

決して作内横井と恵にすべてを押しつけて、観客席で画面を眺めていたわけではない。←これに腹を立てて、3000文字も文句を書いてしまった。

そう気づいた瞬間に、読んでいるあいだ、ずっと感じていた苛立ちが浄化された。

メタ横井の肩を叩いて「頑張った」と言いたい気持ちでいっぱいだ。

 

ずっと腹を立てていたが、終わってみれば何だかんだ楽しかった。

kindleを投げつけそうになったこともいい思い出のように感じられ、今は応援上映をしたあとのような爽快感だけが残っている。

作内横井と恵、そしてメタ横井の末永い幸せを祈っている。

 

余談1:赤川は、社会に出て二十年後の横井。

終盤に出てくる恵の会社の上司・赤川は、「二十年後の横井」を象徴した存在だと感じた。

赤川は「苦労してチケットを取る」など、口では何だかんだ言いながら、ただ普通に恵が好きなだけだ。

決定的なのは、

横井さんに捨てられたら私、死ぬと思うから、その時だったら死ぬ前にしてもいいですよ。

と言う恵に

例えば、彼氏に捨てられても死なない道はないのか?

と返していることだ。

 

体目当てなら、「死ぬ前にならしてもいい」と言っているのだから、「死なない道はないのか?」と気にする必要はない。

さらに体目当ての人間から見れば、恵は「死ぬ」など重く面倒臭いことこの上ないことを言っているのに、

急ぐのは止めた。時間をかけてじわじわとチャンスを待つか。

と、この先も口説く気満々である。しかも「時間をかけて」だ。

行動だけを見れば、「ただ単にすさまじく惚れこんでしまった」だけだ。

 

「体目当て」の気持ちがあるのは、横井も同じだ。

「最初に恵を受け入れたのはそういう気持ちもあったし、今でもある」と認めている。

(引用元:「アスペル・カノジョ」9巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

*メタ横井だ。

「一種類の感情だけじゃ保たない」「そこだけ突出しているわけじゃない」と言っている。

赤川の言動は、横井の言動の反転なのだ。

「体目当て」という表に出る言葉の奥には「そこだけ突出しているわけじゃない」色々な思いがあり、赤川と横井はそれを共有することで、同一性がある存在なのだ。

横井がこの先社会で生きていくと、こういう多少擦れて自分の本心を露悪的に誤魔化すが、本質的には一途で不器用なおっさんになるという未来に希望を感じる。

 

余談2

この漫画は元々は同じはてなブログを書いている、よしきさんからコメントで教えてもらった。

勧められたわけでもないのに、勝手に興味を持って勝手に読んで勝手に腹を立てているんだから世話はない。←我ながらひどい。

申し訳なさすぎてコールも出来ないが、教えてもらってほんと感謝にたえない。

 

そう言えば「アスペル・カノジョ」に似ているなあ、何だったかな?と考えたら、あの話だった。

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*1:Googleさまに怒られそうな文字

*2:読んでいる時の感想はほぼずっとこれだった。