*考え直した最終的な感想。
*6巻までの感想。
六巻までで読むのを止めたが、「せっかくだし最後まで読もうかな」と思い、全12巻を読んだ感想。
読むのを止めた理由は、
「なぜ横井がこの話は自分自身の問題と認めて、主体としてこの物語を語らないのか?」
ということが納得にいかなかったからだ。
最終巻まで読んで「まあ仕方ないのかもな」と思い直した。
ただ「なぜ、『アスペル・カノジョ』は本来、横井が語るべき物語だと思うのか」をせっかく書いたので話したい。
*タイトル通り、主人公・横井に対して批判的な内容です。
自分が前回の記事で書いた、「『アスペル・カノジョ』は、横井→恵の『信仰型恋愛』ではないか」ということは、最終巻まで読んで考え直した。
これは自分が考える「信仰型恋愛」ではない。
それ以外の
①横井のための物語である
②①を横井と恵の主客を転倒させることで隠蔽している
という結論は最終巻まで読んでも変わらなかった。
9巻で
斉藤さんは俺の自慢話を喜んで聞いてくれる人で、それは可愛いし側にして欲しいよ。俺の自己顕示欲を満足させてくれるんだから。
(引用元:「アスペル・カノジョ」9巻 萩本創八/森田蓮次 講談社/太字は引用者)
こう言った時は、横井をかなり見直した。
そうなのだ。
自分から見るとこの話は、そもそも最初から徹頭徹尾「横井の自慢話を聞いて、横井の自己顕示欲を満たす話」なのだ。
それなのに「自分がこんな俗物だと思わなかった」などと言うから、「え? 最初から俗物だろ?」といちいち突っ込みたくなるのだ。
やっと認めたか。(もう9巻だけどな、とは思ったものの)
ここからいよいよ「横井の話」になるのか。
こういう展開になるとは思わず、色々書いてしまって申し訳なかった。
と俄然テンションが上がった。
その途端、恵にあっという間に「横井の問題」をスルーされてガクッときた。
何なんだ、一体。
特に米子編が顕著だが、「アスペル・カノジョ」は基本的には「生きづらさ」という問題を抱えているのは恵であり、その恵を横井がサポートする。
恵が問題や困難を抱え、横井の助けや支えを借りながらそれを乗り越える。こういう関係性になっている。
自分はここがずっと引っかかっていた。
なぜ横井は主体となって駆けずりまわり、問題*1を解決しようとせず、物語において常に従属的な存在なのか?
そこが気になる。
何故ならこれは横井の話だからだ。
(引用元:「アスペル・カノジョ」9巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)
「斉藤さんが」と言っているが、表情を見ると横井も同じ世界に住んでいる。
(引用元:「アスペル・カノジョ」 萩本創八/森田蓮次 講談社)
高松さんが自分の分身を求めたことがない人だから。
斉藤さんは求めたんですか?
じゃないと俺を見つけられないはずですから。
自分のことを見ないと、俺のことも見えなかったはずです。
恵は横井の神ではなかった。
分身なのだ。
しかしここでひとつ問題がある。
横井は「自分が恵を求めた(分身を必要としている)」とは認めない。
「恵が自分のことを見つけて」
「恵が俺のことを見る」
と常に主体を恵に背負わせる。
決して「俺が」とは言わない。
この話は、横井の「斉藤さんは俺の自慢話を喜んで聞いてくれる人で、それは可愛いし側にして欲しいよ。俺の自己顕示欲を満足させてくれるんだから」こういう思いから始まっているし、実際に最初からずっとそういう話だった。
「これは横井の話だよな? なぜ、常に恵の問題の影に隠れているんだ?」とずっと不思議だった。
「信仰型恋愛」と思ったのもそのせいだ。
もし恵が一度でも、横井を真剣に批判したり嫌悪したり憎悪したら、話の流れが同じでも「横井が主体とならないこと」→「分身である恵が問題や主体を背負うこと」→「問題や主体を背負うために恵という分身が用意されていること」は特に気にしなかったと思う。
何故なら嫌悪や憎悪するということは、横井にとって恵は都合のいい分身でも神でもなく、「都合が悪い(批判的な)部分もある他者」だからだ。
そういう要素があって初めて、物語上、恵の問題は(横井の分身ではない)「恵という独立した個人の問題」になる。
①横井が自分の問題として上げた自己顕示欲を指摘する視点がない。
②分身として、横井の問題を代わりに背負う。(横井が記憶にほとんどないがこだわっているイジメという事象に、当事者として向き合い、記憶を持ち続けるなどが一例)
③②のように、横井の問題や苦しみを代わりに背負い、なお「これでは崇拝だ」などと恵の問題のように言われても(恵→横井の崇拝という主客の転倒を)受け入れる
④「横井さんには横井さんがいなかった。可哀想な横井さん」と結論づける
など、横井がこだわる問題を代わりに背負うという構図を受け入れ、言われずとも隠蔽してくれる恵は、自分から見ればだいぶ「横井にとって都合がいい存在」だ。
物語なので「都合の良さ」は構わない。
だが、この話は横井が主体にならなければ、この話が本来語りたい「自分(横井)がなぜ生きづらいのか」が語りえないのでは、と思う。(実際横井は、自分の問題を恵の問題に付随するもの、連想されるものとしてしか語れない)
それにも関わらず、恵との主客を転倒させて、従属的に、もしくは客観的に「自分が抱える生きづらさや苦悩」を語ろうとするため、結局は自分の問題を見ることが出来ずに終わっている。
「生きづらさ」を分析すること(客体として自慢話をすることでしか語れないこと)が問題であり、その問題を乗り越えて主体として自分の辛さを語ることに挑む。
この話は恵(自慢話を必要とし、問題を代わりに引き受ける存在)によって隠蔽されているだけで本来はそういう話では、と思った。
という上記全体が自分が考える「アスペル・カノジョ」の隠れた構図だが、これを横井が認めることはなかった。
横井自身が自分の問題を言っても、恵に横井の問題を見る視線がないため、恵がスルー、もしくは受容する→話進まずで終わってしまう。
物語上、まったく機能していないので「横井に問題があることを認めています」というただの言い訳に見えてしまう。
涙を流し血肉を削って挑む恵の問題との差は余りに大きい。
自分はこの物語が構造的に含む、このアンバランスさ、アンフェアさがどうしても気になる。
このアンフェアさこそが横井が「俺の苦しみ」を主体的に語れない原因であり、恵の問題に隠れている限りは横井はいつまでたっても「自分の問題」を語り出せないのでは?とずっと思っていた。
仮に自分自身で語れないとしても、自分の問題を「自分を必要とする女の子」に投影して語るのは、個人的な好みとして受けつけない。
「この構図を横井が認める気がなく、いつまでも恵に問題や主体を押し付けて、話が進んでいるように見せかけるだけの話ならちょっと付き合いきれない」
そう思い、一回読むのを止めた。
ただ冒頭で書いた箇所などは、横井も頑張っているし(前述したようにそれがストーリー上、まったく機能しておらず、言い訳にしかなっていないのはちょっとうんざりするが、それはそれとして)最後まで読んだら、まあ仕方ないのかなくらいには思えたので良かった。
ということが気にならなければ、いい話だった。
*1:いじめなどの具体的な問題ではなく、横井と恵が共通して抱えている、物語が構造上解決しようとしている問題。ひと言でまとめれば「生きづらさ」