最初「去人たち」を読んだ時に、よく意味がわからなかった。確か「Ⅱ」の途中で読むのを止めたと思う。
筒井康隆「虚人たち」のオマージュだと聞いたので、「虚人たち」を読めばわかるのかなと思っていた。
最近そのことを思い出して「虚人たち」を読みながら「去人たち」を読み始めたんだけど(ややこしい)、嘘みたいに面白い。
「虚人たち」は「物語」は「意味」によって支配されていることを、登場人物がメタ視点で理解しているという実験的な試みをしている。
・ある登場人物は、自分が物語の中で「ある事象を目撃すること」ということしか存在の意味を持たないことをわかっている。そのことに不満を持ち、自らの存在意義に反抗する。
・「モブ」でしかない登場人物が主人公の目の前で死ぬことで、物語に無理やり関係し、自分という存在に意味を付与しようとする。主人公はモブに存在意義を持たせてモブでなくしてしまうと、物語がややこしくなるからそれを拒否する。
・主人公は物語の特性は理解しているが、「虚人たち」という話がどういう展開になるかは知らない。そのため食事内容をいちいち詳細に記述して、そこから何か意味が生じるかどうかを試す。
・妻と娘が同時に別々にさらわれるが、主人公である自分の妻子がさらわれたのだからこの二つの事件は絶対関連があり、あるひとつの物事に収束するはずだ、そうでなければおかしい。そう思いながらも、もしそうでなかったらと不安を覚える。
・息子に対して、お前も母親と妹が同時にさらわれているんだから、主人公の息子として事件に関われ、さもないと本筋には関係ないお前の大学生活(におけるキャラ)も破綻するぞと脅す。
物語の構造に作内人物がいちいち入れるツッコミが面白い。
驚くのはこれをストーリーに組み込んでいて、さらに説明がまったく不自然ではないところだ。
面白くてスルスル読めてしまう。
「『去人たち』もこういう視点を入れている」ことを物語の仕組みとして頭に入れると、富絵が「自分が何者か(物語上の意味)」を主人公に会ったとたんに思い出したり、いちごみるくを手放す描写がないから、いちごみるくを持ったまま遺体を下ろすにはどうしたらいいんだと悩むシーンなどなるほどと思う。
只埜が突然、ストーリーにまったく関係ない(意味のない)「子供のときに溺れたエピソード」を話し出すのも、「物語においての意味にしかキャラの人間性を認めない」ストーリーへの反逆だ。
創作の読み方や解釈は自由だけれど、こういう話だとある一定の読み方をしないと、ルールを理解しないままスポーツを見ているようなものになってしまうんだなと思った。
「チェーホフの銃」の例えのように、物語は銃が描写され読者が認識したら「銃が描写された」という意味に支配されてしまう。
登場人物がこのことを理解している場合、意地でも銃を認識しなかったり、逆に話を先に進めたいのにまったく展開しない場合、「銃」に当たるものを物語に出現させるために周りのものを細かく認識したり描写する。
こう見ると、物語はつくづく「現実的ではない」。
ストーリーの展開が現実的か非現実的か以前に、ひとつの出来事や目にしたものややったことが、数秒先の展開を引き起こすこと、長期的に連続的な意味を持つことは現実ではほとんどない。
後から人の認識が特定の意味を付与して記憶を編集するだけだ。
「虚人たち」と「去人たち」を読むと「お話を現実的にすると、むしろありえないくらいおかしな、もしくは訳が分からない造りになってしまう」ということを再認識できる。
物語は「意味という神」に支配された現実とはまったく別の作りの世界なのだ。
だからこそ面白い。
「意味のみが、絶対的な力を持つ物語のありえなさ」を指摘しつつ、その指摘の意味を読んでいる人に「お話」として伝えられているところがこの二作の面白さだと思った。
「去人たち」はⅡがさらにシュール(非シュール?)になっていた記憶があるので、最後まで面白く読めるか、ちょっと不安。