朝イチでコーマック・マッカーシーの訃報を目にした。
もう89歳だったんだな。
一時期Twitterで流行っていた「名刺代わりの小説10選」を作るとしたら、必ず入るのがマッカーシーの「ブラッド・メリディアン」だ。
こんな小説を自分も書けたらなあ……なんて思っている話なのだ。(声が小さい)
凄惨な暴力だけが何の感慨もなく延々と続く無味乾燥な世界、「悪」という概念を超越した異常さと不気味さを持つ異形の判事。
歴史は、個という概念を抜き取られた人間を部品にして生成され、その建造物として世界は続いていくのだ、という冷徹な世界観。
私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間のなかに宿るし宿られた人間もほかの人間のなかに宿るという具合に存在と証言の無限の複雑な連鎖ができてそれが世界の果てまで続くんだ。
(引用元:「ブラッド・メリディアン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P212)
判事のこのセリフは、いつ読んでもちびりそうなくらい怖い。
そうか、死んじゃったのかと思い、久しぶりに「ブラッド・メリディアン」を読み始めた。
小説の書き方の作法として、視点は固定させろとかズームは広域から狭い範囲に絞るなど一定の方向にしろとか色々言われている。(確か)
マッカーシーは視点の移動のさせかたが凄く上手い。
カメラワークが自由自在なのだ。
今ようやく少年はそれまでの自分のすべてを脱ぎ棄てる。
彼の来し方も最終的な運命も遠いものになりこの世界全体がいつまでも回りつづけようと二度とお目にかからないような荒々しい野蛮な領域が現れて被造物の意志のとおりに形作られるものなのかそれとも人間の心もただの土くれにすぎないのかが試されることになる。
船客はみな内気だ。眼を合わせずほかの客に旅の目的を尋ねたりもしない。
少年は巡礼のように他の客に混じって甲板で眠る。模糊とした暗い岸が上下に動くのを眺める。大きく口をあける灰色の海の鳥。海岸に沿って灰色のうねる海面のうえに飛ぶペリカンの群れ。
(引用元:「ブラッド・メリディアン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P11-12/彩色は引用者)
「俯瞰→客観→少年の主観」と移り変わっているのに不自然さや引っかかりがまったくない。
文章のカメラワークに自然とついていける。
読点と引用符なしの書き方も本来ならただただ読みにくいだけなはずなのに、不思議と歌を歌うか詩でも読むように読めてしまう。
内容は陰惨で残酷な歴史なのに、文章の作りから寓話か神話のような印象を読み手に与える。
物語の枠組みを変幻自在に変形させて、どの場所にも表れる神出鬼没な視点に読み手を自然に同化させて、流れるように物語を紡ぐ。
こんな文章が書けたらなあと思う。
思うが、おっかなくて試すことすら出来ない。
「憧れても真似するな、危険」な奴だ。
マッカーシーの文章の凄さが翻訳でも十分に伝わってくるのは、黒原敏行の訳の力が大きいと感じる。
最初に読んだときは面白さがまったくわからなかった「八月の光」を黒原訳で読んだら、面白く読めた。それ以来、黒原敏行の訳なら複雑で理解しづらい小説も、わかりやすく読めるという信頼感がある。
「翻訳ブックカフェⅡ」で話していた、「マッカーシーに作品の内容について質問すると、『読めばわかるだろ』みたいな返事しか返ってこない」というエピソードが無茶苦茶好きだった。
作品を読んだだけの勝手なイメージだったが、自分の中でもマッカーシーは
「必要なことはすべて書いてある。それ以上、作品について語ることは何もない」
こういう人だったから嬉しかったのだ。
亡くなったのは残念だし、本人はまだまだ書きたいものがあったのかもしれない。
ただ一読者である自分は「読むべきものはもう残してくれたから、後は繰り返し読むだけだ」という気持ちだ。
未訳のものも何作かあるけれど、このあと邦訳されるかな。