うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

佐藤究のマッカーシーの作品の解説にいいねを百連打したい&「ブラッド・メリディアン」の感想続き。

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「それな!」という感想しかなく(失礼)いいねを百個くらい押したい。

 特に文章に言及した箇所には共感しかない。

 

どのページを開いてもおわかりのように、コーマック・マッカーシーは会話にカギ括弧を使わず、地の文に読点をほとんど打たない。

だからといって、書き手の感情にまかせた饒舌に陥ることはなく、行為と事物が淡々と描かれる。

神なき時代の叙事詩的文体とも呼べる。

言うまでもないが、たんに文章からカギ括弧や読点を排除するだけでは、マッカーシーのような文体にはならない。

それは事実への冷徹な観察眼から生まれたもの(後略)

(引用元「コーマック・マッカーシーが教えてくれた『書くことの本質』」 佐藤究/太字は引用者)

専門家ではない自分の適当な印象を話すと、アメリカの現代文学はハードボイルドの影響が強いのか「叙情を徹底的に排除する」文体の人(特に男の作家)が多い。

ヘミングウェイ、フォークナー、ハードボイルド御三家、トマス・ピンチョン辺りは、読んでいてそう感じる。

暴力や人の残酷さに関する話は感情を表に出したら読んでいるのがキツイ内容が多いので、「語り」にマッチした文体なのだと思う。

 

「ブラッド・メリディアン」は、残酷な内容であることを差し引いても、一読すると作内で意味が書かれていない描写が多い。何の意味付けもされていない描写の連続で話が出来上がっているため、「起こったことを加工もせず登場人物が何の判断もせず、ただ並べることに何の意味があるのか」という疑問がわく。

例えば主人公たち一行が立ち寄った鉱山の町の廃砦に、アパッチ族に襲われた旅人三人が立てこもっている。

主人公たちは、この旅人たちと砦で一夜を過ごす。

しばらくして主人公たちは、砦の中に旅人たちの他に子供が一人いることに気付く。

この子供は何も話さず、隅のほうで隠れるようにジッとしていて、ただ主人公たちを見ている。

夜中に凄い雷雨になる。

朝になって雨が上がると、子供は首の骨が折れて死んでいる。

主人公たちはそのまま旅人三人に別れを告げて、砦を去る。

子供がなぜ死んだのか、そもそもこの子が誰なのか、旅人三人と何の関係があったのか。作内で一切説明がない。

このエピソード自体が、他の話の流れと「実際にあった出来事」以外の結びつきも意味もなく、ただ「それがあった」という事実だけを残して終わる。

 

「ブラッド・メリディアン」がどういう話かを唯一語っているように見えるのは、判事が唐突に話し始める馬具職人の話だ。(P214)

言葉にしてしまうと陳腐なのだけれど、「悪」というのは個人という一個の生命に収まりきれるものではなく、もっと遠く長く深いところから連綿と続いているもので、人間はその部品に過ぎないのではないか。

そう思わせる。

「ブラッド・メリディアン」の判事が恐ろしいのは、「個人の範疇、個人の形で表現できる悪」ではなく、人が「個を失って」その一部に容易くなってしまうもの、「個」という概念は幻想にすぎず、人間は元々その大きくて黒いものの一部にすぎないのではないかと思わせるものを体現しているからだ。

マッカーシーが「感情」という個人的なものを排した文体を用いているのは、これを表現したいからではないか、というのが自分の考えだ。

 

「『自分』が消失して何か大きくて黒いものの一部になってしまう」

という感覚なり視点は、「ネットの世論や炎上」のように、何か大きなものの一部になること、それでいながら「個人」という概念が信奉されるゆえにそのことに気付きにくい時代では、凄く重要だと思う。

「個人」という枠組みは、本人が意識的に維持しなければたやすく崩れるものだというのが自分の昔から変わらない考えだ。

 

そういう内容的な部分とは別に、単純に「ギミック好き」の人はマッカーシーの作品は読んでいて楽しいだろうなと思う。

さらにマスターの隣にいた奥さんによれば、いかにも私が好きそうな武器が出てくるという話だった。(略)

そんな会話を真夜中にしていたときには、いずれ私自身がシガーの道具に匹敵するアイテムを考案しようと苦心するはめになる──などとは考えてもみなかった。

(引用元「コーマック・マッカーシーが教えてくれた『書くことの本質』」 佐藤究)

*凄く楽しそうで羨ましい。

銃やナイフの道具の描写もそうだし、「ブラッド・メリディアン」で出てきた判事が硝石と硫黄と尿を混ぜて弾丸を作る描写など、作業的な描写が無駄に細かい。

そんなに長々と説明するか?という気持ちになる。好きな人には堪らない描写なのかもしれないが。

訳者の黒原敏行が作内に出てくる飛びナイフについて質問したら、凄く細かい図が返ってきたという話をしているので、本人がこういう道具や作業が好きだったのだと思う。

 

自分が、佐藤究の文章で一番共感していいなと思ったのはこの箇所だ。

マッカーシーは饒舌を拒否する。

この世は謎めいた沈黙に支えられている──そんな信念こそが、彼の磨き上げられた文体に宿る眼差しではないだろうか。

読めば読むほど、私たちは世界の沈黙の深さを思い知らされる。

(引用元「コーマック・マッカーシーが教えてくれた『書くことの本質』」 佐藤究/太字は引用者)

自分もマッカーシーの真髄はここにあると思う。

「ブラッド・メリディアン」も話の基盤に、

「世界は人間に何ひとつ語りかけてなどいない。意味を提供することもない」

という冷徹な哲学が貫かれている。

そこがとても好きなのだ。