*ネタバレ感想です。未読のかたはご注意ください。
「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」(以下「ノーカントリー」)は映画化もされてマッカーシーの作品の中でも特に有名だ。
「ブラッド・メリディアン」とも「国境三部作」とも「チャイルド・オブ・ゴッド」とも「ザ・ロード」とも違う、(基本的には)犯罪エンタメ小説である。
物語の外枠である、麻薬カルテルの金を横取りした男が、その金を取り返そうとする殺し屋に追われるというストーリー部分が滅茶苦茶面白い。
展開がスピーディで容赦がないので、ページをめくったらどうなるかが予想がつかない。
「ノーカントリー」を読んで気付いたが、余分な描写を極限まで削っているマッカーシーの文体はエンタメ小説と相性がいい。
コーマック・マッカーシーの文章を読むと、「物語において必要な情報への感覚」が変わる。|うさる
退屈する暇もなく、話がすいすい進んでいく。
「血塗られた歴史の部品にならないためにはどうすればいいか」を描いた物語
「ノーカントリー」の凄いところはエンタメとして極上の面白さを持つのに、語っていることはエンタメではないところだ。
自分が考えるところ、この話は「ブラッド・メリディアン」で語られた
「人間は最終的には『個』という枠組みを失い、連綿と続く血塗られた歴史の部品となる。この国はそういう成り立ちをしており、人の運命はその成り立ちの中に吞まれてしまう」
この事象にどう対抗するかが語られた話だ。
「個人を呑み込み、それを部品として生成されていく血塗られた歴史」に対抗する方法の解答が、呼吸するように人を殺す「殺し屋シガー」だ。
「血塗られた歴史の部品」にされてしまい、人生を失ったモスとベル
シガーという人物は、物語によく出てくる「殺人狂」「サイコパス*1」に一見見えるが、自分はまったく違うと思う。
ベルが「やつは頭がおかしいわけじゃないと思う」(P245)と言っているように、シガーは狂っていない。
「人を殺すことが狂っている」なら、戦争で人を数えきれないほど殺した、ベルもモスも狂っている。(モスに至っては、「ベトナムで赤ん坊を殺したこと」を示唆する描写もある)
「戦争だったから仕方がない。平時とは別」ということ自体が、「自分という個」を捨て「血塗られた歴史の一部になること」なのだ。モスとベルは「この国の血塗られた歴史の一部」として人を殺し、その事実に基づいた道(人生)を歩いてきた。
人が自分の人生を盗んでしまうことがあるものだとは知りませんでしたよ。盗んだ人生なんて要するに泥棒が盗んだ品物と同じだけの値打ちしかないってことを知らなかった。
おれは出来る限りよく生きてきたつもりですがそれでもそれは自分の人生じゃなかった。
自分の人生だったことは一度もなかったんです。
(引用元:「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P357/太字は引用者)
ベルが自分の人生についてこう語るのはそのためだ。
モスもベルも自分自身が人を殺したかったわけではない。それなのに国の命令によって戦場に行き、仲間を見捨てて人を殺すような人間になってしまった。
その傷を背負ったまま、平和な社会に戻り、今度はその論理に従って善良な一般市民となる。
だがどれほど時間を経ても、人生につけられてしまった重い傷痕から回復することが出来ない。この国を構成する「血塗られた歴史」の一部分に否応なしにされてしまったため、その「部品としての生」しか歩むことが出来なくなってしまっている。
一度「血塗られた歴史の一部」になってしまった彼らは、状況が変われば自分ではどうすることもできず、またその一部になる。
そのことを彼ら自身が誰よりも感じている。
人間は自分にはコントロール出来ないものに従い、その一部として生きるしかない。
だからシガーは自分と対峙した人間にコインの裏表を当てるように迫る時に「いや、賭けたんだ。お前は生まれたときから賭け続けてきたんだ。自分で知らなかっただけだ」(P71)と言うのだ。
シガーは「血塗られた歴史」を作る世界の一部にならないために、自分独自の世界を構築している。
どうすれば「血塗られた歴史の一部」にならずに「個人」として生き抜くことが出来るのか。
その解答がシガーの存在なのだ。
シガーはウェルズが「原理原則を持っているとすら言える。その原理原則は金や麻薬といったものを超越しているんだ」(P195)と言った通り、自己の外部の法則をすべて無視して生きている。
ただ「社会に反抗的」というのであれば、それは逆の意味で社会に縛られている。
「個」という概念を部品にして作られる歴史に対抗するには、それとはまったく異なる原理原則から編まれた世界観で対抗するしかない。
原理原則に従った生き方をすることで独自の世界を構築し、その世界を生きることで原理原則をさらに強固にしていく。
ベルやモスのように「人生を血塗られた歴史に盗まれないために」、シガーはそのような生き方をしている。
シガーがカーラ・ジーンに言う「おまえはおれに世界に対して口答えしてくれと頼んでいるんだ」(P332)の中に出てくる「世界」は、一般的な意味での「世界」ではない。
(流血の)歴史を生成し続ける世界に対抗するために、シガーがこれまでの人生をかけて原理原則を元に築きあげてきた「世界」のことだ。
シガーがモスとの約束を反故にして、カーラ・ジーンを助けることができないと言ったのは、原理原則を破れば「血塗られた歴史の一部」になってしまうからだ。
シガーはカーラ・ジーンを殺したくなかった。
シガーは殺し屋であり、やっていることは犯罪だ。
ただこの話は、ベルやモスのように平時は法を守る善良な人間も「(例えば戦争という)状況の支配」によっては暴力を振るい、人を殺すという前提がある。
その前提に立てば、シガーは他の人々と従う対象が異なるだけで感性のまともな人間だと思う。(ベルやモスがまともな人間であるのと同じ程度には)
シガーはカーラ・ジーンを殺しに行ったときに、10ページ程度にわたって「なせ自分がカーラ・ジーンを殺さなくてはいけないか」を説明している。
この会話のあいだに「気の毒に」と三回言い、カーラ・ジーンが悪いわけではない、運が悪かった、少しでも気を楽にしてやりたいという話を何度もしている。
何気なく読むと、犯罪小説やホラーでよく見られる「殺人狂の人間が狂った論理で犠牲者をからかったりいたぶったりしている描写」に見える。
だがこのシーンはそうではない。
シガーは心の底からカーラ・ジーンを労わり気の毒に思っている。
シガーという人物の面白さはここにある。
「歴史の部品にされないための自分の世界を保つために」カーラ・ジーンを殺さなくてはいけない。それはわかっている。
だが出来れば殺したくない。だからグズグズと話を引き延ばしている。
この時のシガーは、どうにかカーラ・ジーンを殺さずに済む方法はないか、喋りながら自分の世界の中を探し回っていたのだと思う。
「世界に口答え」をすれば、シガーはモスやベルと同じように自分の人生を盗まれ、自分でないもの=コイントスの結果だけに従い、生きるしかなくなる。
それはやがて彼の生き方を遥かに超え、この国の歴史となり、根本から世界全体を血塗られたものに変えてしまう。
だから自分はカーラ・ジーンを殺さなくてはいけない。
シガーは死を前にしたカーラ・ジーンをもてあそんでいるわけではなく、出来うる限り真摯に自分の状況を説明している。
「モスがカーラ・ジーンを殺したがった」とはどういう意味か。
「うちの人があたしを殺したがって言うの?」(P327)というカーラ・ジーンの問いに、シガーが「そうだ」と答えたように、カーラ・ジーンを死に至らしめたのはモスである。
俺がお前の人生に登場したときお前の人生は終わったんだ。それには始まりがあり中間があり終わりがある。今がその終わりだ。
もっと違ったふうになりえたということはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。
だがそんなことを言ってなんになる?
これはほかの道じゃない。これはこの道だ。
(引用元:「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P332/太字は引用者)
シガーはカーラ・ジーンに、カーラ・ジーンが彼に殺される結果を招いた道は、ずっと前から始まっていたと言う。
「これはこの道」の「この道」とは何なのか。
カーラ・ジーンがモスの求愛を受け入れて結婚したことだ。
モスが麻薬カルテルの金を持ち逃げしようとしたのは、「血塗られた歴史の部品であること」から脱け出し、盗まれた自分の人生を取り戻すためだ。
だが戦場に行き、一度その部品となってしまったモスは、どう頑張ってもそこから脱け出せない。
モスは、シガーのように「血塗られた歴史」に対抗するための原理原則を培ってこなかった。ベルのように諦めて頭を垂れることもしなかった。
そういう中途半端な状態でいながら、自分の戦い(人生)に年若いカーラ・ジーンを巻き込んだためにカーラ・ジーンまで死ぬ羽目になってしまった。
モスはカーラ・ジーン(=ヒッチハイクをする少女)を、「自分に関わらせない道」に送り出すことで守ろうとした。
モスが最後に行動を共にするヒッチハイクで拾った赤毛の少女は、物語の深層ではモスと結婚する前のカーラ・ジーンである。
モスは、自分がカーラ・ジーンを「この道」に引き込んでしまったために、彼女が死ななければならなくなったことに気付いた。
モスが、少女に誘われても関係を持つのを断ったのはカーラ・ジーンを守るためだ。
「もう一度出会った」カーラ・ジーンを守るために、今度は求愛せず(誘いも受け入れずに)カーラ・ジーンを「別の道」に送り出そうとした。
原理としてはループものと同じである。
しかし結局は、モスとの関わり自体がカーラ・ジーンにとっては死への「この道」だったために、ヒッチハイクをした少女はモスと共に殺されてしまう。
モスが少女を守るために銃を捨てたところを見ても、モスはカーラ・ジーンを愛していたし守ろうとしていた。しかしこの話において、個の人格や行動は何の力もないので二人とも殺されてしまう。血塗られた歴史は、一度部品にした人間は巻き込んだまま動き続けるのだ。
カーラ・ジーンが「モスは少女と関係を持たなかったと思う」というベルの言葉を信じないのは、「モスと結婚し、シガーと出会い死ぬ『この道』」をモスが覆すことが出来ないことがわかっているからだ。(カーラ・ジーンの「ママ」が、モスを嫌い、実家に避難してきたときに「こうなることはわかっていた」というのはこのためだ)
「既に死んでいる」カーラ・ジーンのためにコイントスをしたのは、最大級の同情と好意。
モスと一緒に殺されたヒッチハイクの少女がカーラ・ジーンなので、シガーが殺しに行ったときは、厳密にはカーラ・ジーンは既に死んでいる。
だからこの時点では死の運命は避けられない。既に起こってしまったことだからだ。
既に死んでいるカーラ・ジーンのためにシガーがコイントスを行ったのは(カーラ・ジーンには何の意味もないが)彼にとって最大級の好意であり同情である。
コイントスの結果は、シガーが強固な意思で守り、人生をかけて築いてきた世界の基盤となる原理原則を曲げうる唯一の例外だ。
シガーはシガーなりに、よく世の中のことがわからない十六歳の時に、他人の論理に巻き込まれて死んでしまったカーラ・ジーンに(というよりも、後にベルが言及しているように年若い身で否応なく、血塗られた歴史に巻き込まれる子供たちに)同情している。
カーラ・ジーンも最後にはそれがわかったので、「わかる、本当にわかるわ」とシガーの言葉に答えるのだ。
物語の構成が完璧で、工芸品のように美しい。
「ノーカントリー」は、「血塗られた歴史」によって生成されていく国(世界)というものの成り立ちの恐ろしさ、何もわからないままその歯車にされてしまい、そこから死ぬまでどころか死んでも逃れることが出来ない人間の無力さと絶望を描いた話だ。
しかし、最後にその残酷な歴史の成り立ちの一部にならないための希望を、ベルが父親の導きの中に見る。ベルを待つ父親が闇夜の中に灯す牛の角の月明かりが、どれほど温かいものかが読んでいるだけで伝わってくる。
この光景は流血と暴力しかない本編の対比のように、信じられないほど幻想的で美しい。
完璧に整えられた美しく閉じた輪のような話は、個人的には好みではない*2んだけど、そんな自分でもここまで全てが完璧に整えられたものを見ると感嘆しか出てこない。
工芸品のような美しさだ。
この一作だけでも十分傑作だが、「ブラッド・メリディアン」と二作続けて読むと、グルグル踊り続ける判事に対抗するものとして、最後のシーンがより際立つように感じた。