「ザ・ロード」の興奮を引きずったまま、「越境」に引き続き、「ブラッド・メリディアン」を読んだ。
ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤 (ハヤカワepi文庫)
- 作者: コーマックマッカーシー,黒原敏行
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2018/08/21
- メディア: 文庫
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コーマック・マッカーシーの著書は今まで読んだ三冊どれもそうだったが、「読むもの」「説明するもの」ではなく「体感するもの」なのだと思う。
三冊ともあらすじに起伏がなく、エンターテイメント性は皆無だ。残虐な人間たちと「ただそこにあるだけの世界」の対比が延々と続く。
「ザ・ロード」は世界を歩いて歩いて歩きまくる。
「越境」は、旅をしながらただ色々なものを失っていく。
そして「ブラッド・メリディアン」は、ただひたすら殺して殺して殺して殺しまくる。
そこには著者の主張も感情も反映されていない。ただ理不尽で残虐な事象が羅列された世界そのものがあるだけだ。
「越境」で元司祭が語っていたように「この世界は石や花や血でできている物のように見えるけれど実は物ではなくひとつの物語だから」で、「それというのも継ぎ目はわれわれの目には見えないからだよ。合わせ目は見えない。世界がどんな風に成り立っているか見えない」
だからその「世界の継ぎ目」を読み手がそれぞれ見出し、「その継ぎ目の入れ方によって、独自の物語を見出すことができる」という風に基本的にはできている。
コーマック・マッカーシーの本において世界を創る神は、書き手ではなく読み手なのだ。
だから「起伏があり結論がある楽しい(もしくは負のものであれ刺激的な)物語」を、自分が差し出した手の平の上にただのせて欲しい、という気持ちで読むとまったく面白くない。面白いつまらない以前に訳が分からない。
世界と人間たちをポンと手渡され、「神よ、これが何かを説いてみろ、語ってみろ」と言われているからだ。
「ブラッド・メリディアン」の訳者の後書きを読んで驚いたが、この本には元になった体験記があるらしい。ほぼ事実なのだ。
つまり、よくある「人間は残虐だ」ということを主張したいがために、著者がこの事象の羅列を生み出したわけではない。
小説のホールデン判事は、驚くべきことに、チェンバレンの『わが告白』に記されている実在のホールデン判事をかなり忠実に反映している。実在の判事は(略)数か国語に堪能で、植物学、地質学、鉱物学に詳しく、荒野で団員たちに講義をしたりする。
そんな高度な知性と教養を持ちながら、何より血と女が好きで、十歳の少女をレイプして殺すなどのサディストぶりなのだ。
(引用元:「ブラッド・メリディアン」 コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P495 訳者あとがきより)
「ブラッド・メリディアン」の中のホールデン判事は、人間というよりは「人間の歴史の機能」「人間の文化における作用」「何かの概念」を表しているように見える。
あいつは何の判事なんだ?(P204)
判事は「現代」とは違うルールで動く、「ブラッド・メリディアン」の世界のルールブック(法則性そのもの)ではないかというのが自分の考えだ。
少年が最初のほうで出会う隠者が語る、人間が作った「放っておいても千年のあいだ勝手に動きつづける邪悪なもの」なのだ。
この「現代とは違うルール」とは何かと言うと、判事が語る「戦争は神だ」や「血こそは人間同士の絆を固める漆喰の練り具合を最適なものにする材料」ということそのものではない。
「ブラッド・メリディアン」は、人間の本性は残虐で流血こそが人間の真実の歴史、ということが言いたいのではない。この本は事実を基にしているのだから、そこは「現実とこの本の違い」ではない。
歴史を概念化してしまい、流血そのものは忘れることで、道徳や人権や倫理をフィクションとして創設している。
過去を都合よく選び取り、歴史という物語を作り、そこに幻想を打ち立てるという機能で現実はできている。
これが現代というものの成り立ちの法則性だとすると、判事は逆にすべてのものを記録する。この流血と残虐の出来事、殺戮の歴史をすべて忘れず改ざんもせずに、事象をそのまま記録し、そのさきにある世界を語っているのだ。
人間の記憶など不確かなもので実際にあった過去となかった過去にたいした違いはない。(P482)
証人はいるかね。お前が行った場所が今も存在しつづけていると報告してくれる人間はいるのかね。(P482)
私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間のなかに宿るしその宿られた人間もほかの人間のなかに宿るという具合に存在と証言の無限の複雑な連鎖ができてそれが世界の果てまで続くんだ。(P212)
訳者あとがきで、訳者の黒原敏行が
ホールデン判事の思想がすなわち作者の思想ではなく、この小説の『言わんとするところ』でもないだろう。
いったいこれは流血の賛美なのだろうか。
本書がアメリカ先住民虐殺に対して、これが人間のすることかというヒューマニスティックな怒りで告発していないことは明らかで
(引用元:「ブラッド・メリディアン」 コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P496-497 訳者あとがきより)
と書いているように、自分もこの小説には「現代社会の価値観の欺瞞を告発する」という、よくある凡庸な発想は皆無だと思う。
コーマック・マッカーシーの小説で常に驚くのは、作者という存在の希薄さだ。作者の感情も主張も思想も、ほとんど読み取れない。
「ブラッド・メリディアン」の判事、「越境」の元司祭、盲目の老人、「ザ・ロード」のイーライのように、自分の考えを長々と述べる人物は出てくるが、それは主張ではなく何かの法則を語っているだけのように見える。
前述した通り、彼らは物語の世界のガイドであり、ルールを説明する者に過ぎないように自分には感じられる。
「ブラッド・メリディアン」は、「過去を都合よく選び取り、歴史という物語を作り、そこに幻想を打ち立てるという機能で作られている現実」に対して、「ホールデン判事」という法則性が用いられた「流れた血の一滴一滴まで記録され」「すべての人間はほかの人間のなかに宿るしその宿られた人間もほかの人間のなかに宿るという具合に存在と証言の無限の複雑な連鎖ができてそれが世界の果てまで続く」というまったく別の機能でできている「もしかしたらこうだったかもしれない仮説的世界」を提示しているのではないか、と感じた。
「血の一滴一滴まで記録され、その血が世界の果てまで続く世界」では、当然、現代日本で生きる自分と19世紀に残虐な方法で殺され頭皮をはがされたアメリカの先住民たちや、彼らを殺戮し時には殺戮された人々はつながっている。
その事実が忘却の底に沈みこむことはなく、一滴一滴すべての血が記録や記憶として残され、つながりとしてはっきりと見える世界では、今日信じられている人間の善なるものは機能しているのか。
ホールデン判事の手によって残虐な事象が流された血の一滴一滴で刻まれた世界に、読み手は神として世界にどんな継ぎ目を入れるのか、どんな歴史を作り、どんな救いを語るのか、この物語にどんな意味を付与するのか、判事によってすべての事実が記された「ブラッド・メリディアン」の世界で、読み手はどんな物語を登場人物たちに手渡すのか、そういう物語だと思うのだ。
もう一人の神として君臨する判事の言葉をただ聞き、この世界を眺めるだけなのか。
「神はこの世界を創ったが誰にでも合うようには創らなかった」「神さまは俺のことをあんまり考えていなかったみたいだ」と書かれているように、何かに意味を付与し、相対的に無意味なもの考えないものを生み出すのか。
コーマック・マッカーシーの小説は、この「読み手に世界とルールブックが渡されて、『さあ、この世界に向けて何かを語ってみろ』」という発想で作られていると感じる。
まさに
バルトは「作者の死」(1968)において、「作者」は作品の意味を保証する絶対的な創造者=神であるという考え方を斥け、「読者」こそが多様な意味を絶えず再構築し続ける生産者であると説いた。(略)
「作品からテクストへ」(1971)においてバルトは、作者の意図が表明された、彼の所有物である「作品」とは異なり、「テクスト」は唯一絶対の意味=起源など持たない、他の様々な「テクスト」によって織り成された多層的・多元的な遊戯の場であり、読者はそこで戯れ、そのたびごとに異なる意味を産出していくのだと述べている。
(引用元:「現代批評理論のすべて」 大橋洋一編 新書館 P57 太字は引用者)
バルトのこの発想を、そうとう意識して書かれているのではないかと推測している。
ハマるはずだ。
とりわけ無味乾燥で理不尽で、無意味で残酷な世界に流れる一滴一滴の血を眺めるように歩かされる「ブラッド・メリディアン」はすごい。
語るべき言葉を持たない神、無力な神としての惨めさを存分に味合わされる。傑作。
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「ブラッド・メリディアン」→「越境」→「ザ・ロード」と執筆年代順に見ていくと、「少年」の扱いや物語の筋道など、ずいぶん親切になったなと思う。「ザ・ロード」はかなり読みやすいし、物語側で救いを用意してくれているので、神としての重圧を余り感じない。
少なくとも「ブラッド・メリディアン」を読んでいるときのような、「クソの役にも立たない神になった」感はない。
考え方が変わったのか、丸くなったのか。