うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

北川悦吏子脚本ドラマ 「半分、青い」とは何だったのかをもう一度考えてみた。

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shinonomen.hatenablog.com

東雲長閑さんに、言及していただきました。ありがとうございます。

 

東雲さんの記事を読んで、「半分、青い」を前回とは違う角度から眺めてみたくなったのでそれを話したい。

東雲さんの記事から色々と考えるきっかけをいただいたけれど、その解釈なり解釈から導き出した結論はあくまで自分のみの考えなので、東雲さんご自身の考えや感想は引用記事を直接読んで下さるようお願いしたい。

「半分、青い」にまた新たな見方を与えてくれるような考え方だと思う。

 

主人公の鈴愛は、作者がモデルだという視点から考えてみた。

自分は「半分、青い」を見るにあたって、作者のインタビューやTwitterやテレビでの発言はほとんど読んでいない。

元々、作者と作品は別物だと考えているので、余り余計なノイズは入れずに「自分がこの作品をどう見るか」ということを考えたい気持ちが強い。特に北川悦吏子はTwitterでリアルタイムで作品について語っていたので、作者の声を意識的に遮断していた。

主人公は作者がモデルだ、というのは聞いたことがあったが、あくまで「言動や性格が」だと思っていた。作者の実体験を色濃く反映している「私小説的な物語だ」ということは、これまで知らなかった。

 

「半分、青い」は、「北川悦吏子の内的世界の物語だ」というのが自分の率直な感想だ。主要登場人物は、多かれ少なかれ作者の分身だと思っている。(前回も指摘した通り、この物語において「他者性」は排除されていると考えている)

ただ個人的に作者の内面に踏み込むことは余りやりたくないので、「これは北川悦吏子の内面の話だ」という軸で語ることは極力避けて書いたのが前回の感想だ。

しかし私小説的な物語であれば内面に踏み込まずに感想を書くのは難しいので、踏み込んで考えてみる。

 

鈴愛が見たくないものは何だったのか。

前回の感想は「半分、青い」は「自分の中に認めたくないものがある人が、そこからどうやって目をそらして生きていくかを模索した物語ではないか」というのが結論だった。

この「認めたくないものから目をそらした物語」という結論は変わっていない。自分は「半分、青い」は、そういう物語だと思っている。

 

前回と今回の感想は考え方は自体は変わっていないが、物語を見る視点を変えてみた。「鈴愛は概念(人間ではない)」という視点から、「鈴愛は作者だ」という視点に立ってみた。

主人公の鈴愛が作者の投影である、ということはこの物語は「鈴愛にとって」つまり作者にとって認めたくないものから目をそらした物語なのだ。

一体、作者は何から目をそらすためにこの物語を描いたのだろうか。

 

最初に「鈴愛は、作者がモデル」と聞いたときに、不思議に思ったことがある。

「なぜ、鈴愛は漫画家の道を諦めるのだろう?」

私小説的な話であれば、明らかにおかしい。

北川悦吏子は、今現在、朝ドラという歴史あるコンテンツで作品を書く有名であり実績もある脚本家だ。作品の好き嫌いはともかく、彼女に大きな実績があること、脚本家として成功していることは動かせない事実だ。

作者の人生を語るうえで外せない「創作者として才能を持っている」という属性を、なぜ鈴愛には与えなかったのだろう?

自分はこの点を、ずっと不思議に思っていた。ドラマを見る人が感情移入しやすいように、ありてい言えば「普通の」人生にしたのかと考えていた。

 

だが鈴愛が、離婚を切り出した涼次に「死んでくれ」という部分に言及した、下記の記事のこの部分を読んで突然気づいた。

離婚相談を数多く受けている経験上の実感としては、相手から離婚を切り出された時に言う台詞として「死んでくれ」は基本、ない。

圧倒的に多いのは「あなたと別れるなら私は死ぬーっ。死んでやるっ」である。「私を殺して」というのもある。つまりは「死んでくれ」とは真逆の言葉を発するのがほとんどだ(略)

「死んでくれ」は相手に対して自発的に自らを殺し、自己完結してくれ、と依頼することである。(略)

目の前の人に「死んで」と言える無神経さもさることながら、どれだけ傷つけられたとしても、それは「自分のために言ってはならぬ」台詞。 

「半分、青い。」痛々しすぎたのに最後まで見続けることができた理由(井戸 まさえ) | 現代ビジネス | 講談社(1/7) (太字は引用者)

なぜ鈴愛の涼次に対するセリフは「死んでやる」でなくて、「死んでくれ」だったのか。

そう、まさに「死んでくれ」は自己完結なのだ。何故なら「半分、青い」は、作者の内面世界であり、涼次も作者の分身だからだ。

鈴愛も「涼ちゃんは、あの時の私だ」と言っている。

つまりあのシーンは、作者が作者に死んでくれ、と言って自己完結しているシーンなのだ。

では、作者は自分の何に対して「死んでくれ」と言っているのか。これは作内にそのまま描かれている。

「才能のために創作のために、家族を、子供を、普通の人生を捨てようとしている自分」に死んでくれ、と言っているのだ。

秋風に対して言った「先生は漫画を描くために人の心を捨てたんだ! だから先生はいい年をして独り者で家庭もなくて友達もいないんだ!」も同じだ。

考えてみれば秋風の創作者としての名声や立場は、現実の北川悦吏子に最も近い。

 

鈴愛がドラマの中で罵声を浴びせるのは、「才能がある人間」だ。

「創作のために家族も友達も人の心さえ捨てようとする」そういう人間にことごとく罵声を浴びせる。

自分が本作の中で最も意味が分からなかった、裕子の捜索状況を知らせるボクテに対する「秋風塾だよ、ってなんだよ」というセリフもそうだ。

自分の娘がいじめを受けている、という実人生が大変なときに、創作の原点を思い出させるような……実人生から遊離しているようなことを言うボクテに苛立って思わず出た言葉だ、と考えると納得がいく。

 

「半分、青い」の展開で不思議に思ったことのひとつは、涼次が映画監督として成功したことだ。

涼次が別れを切り出したときの鈴愛の「涼ちゃんはあの時の私や」「ぜんぶ自分に返ってくる」は、一般的な物語であればフラグになる。涼次は鈴愛と同じように、才能の限界を知り、映画監督への道を諦めるフラグだ。

しかし涼次は映画監督として成功する。涼次は鈴愛とは違い才能があったからだ。

鈴愛には才能がない。そして律にもない。

律は「弱い面を持つ普通の人間」だ。

「映画監督になるために家族がいてはダメだ」と面と向かって鈴愛に言い放つ、冷酷なほどの強さを持つ涼次は、鈴愛が秋風を罵った通り「人の心がない」人間ではないものだ。

「才能という名の怪物」なのだ。

 

「半分、青い」は、人間として普通の人生を歩む物語

作者が「半分、青い」で描いたのは、自分の理想であり夢だ。

自分の理想の人生を、自分をモデルにした鈴愛に歩ませたのだ。自分がモデルのはずの鈴愛に「創作のための才能」を与えなかったのは、才能がある人間では作者の理想の人生を歩めないからだ。「半分、青い」の世界では「才能がある人間は人間の心がない」からだ。

才能がない自分が「才能=涼次や漫画」を捨て、「普通の人・律」を愛し守られ生きていく。

マザーの御披露目のシーンで、秋風=漫画、涼次=才能がいないのは当然だ。

「半分、青い」は才能に支配されない、「人間として」普通の人生を生きることを選ぶ物語だからだ。

 

この見方だと、自分が前回の記事で書いた、「なぜ、鈴愛が花野のためになされた、涼次からのプロポーズを即座に断ったのか」という疑問も解ける。

鈴愛は、「才能という怪物」から花野を守ったのだ。

「才能という怪物」は、普通の人間が考える「一度は妻子を捨てたとはいえ、元々、子供のことは愛しているし、今は花野が父親を求めているのだから」という、そういう理屈が通じない化け物なのだ。

宿っている本人はもちろん、家族や身近な人間の人生も食い荒らし犠牲にする。

だから「半分、青い」の世界には、「創作者は孤独でなくてはならない」というルールが設けられている。

鈴愛は、このルールを違反しようとした涼次(=才能)を拒絶したのだ。

 

「才能という怪物」と決別し、「普通の人・律」に愛し愛され守り守られ、「家族や友人に囲まれて」普通の人生を生きる。たぶん北川悦吏子にとっては、そういう「普通の人生」こそが美しい夢のようなものなのだろう。

作中で律=普通の人が、繰り返し「綺麗」と言われるのもそれを表しているのかもしれない。

 

 何の配慮もなく率直な意見を言わせてもらうと、この解釈が仮に正しければ「半分、青い」は「才能」という属性を外せば自分も「人間として」普通に生きられるはず、と思った「才能を持った怪物」が「人間のふりをする」物語なのだ。

この解釈のほうが、自分の中に残っていた「なぜ、作者は鈴愛に創作の才能を与えなかったのか?」と「鈴愛が涼次のプロポーズを即座に断ったのは、なぜなのか」という二つの疑問がすっきりする。

だがコチラの解釈は、物語としては破綻している。

鈴愛が人間であり、「普通の人生っていいよね」という話であれば「普通の人生」を描かなければ話にならない。

「普通の人生」は日々の生活費はどうしているのか、交通費はどれくらいかかるか、会社を作ったならば普段はどんな仕事をしているのか、そういう些細で時には退屈なことの積み重ねで成り立っているものだ。

そういうものの描写を省いて、「才能がある人生よりも普通の人と家庭を築く普通の人生がいい」では自分で物語のテーマを壊しているも同然だ。

「才能がある人間」が自分にはよく分からない「普通の人」の人生を、普通の人の視点を入れずに妄想で描いているのだ。自分が分からない「普通の部分」は、とんでもなく雑に(そういうつもりはないのだろうが)描かれている。

隣りの芝生は青い的な感覚で、他人の人生のうち自分が欲しいものだけを理想化して描きいらないものは省けば、苛立ったり反発する人が出てくることは理解できる。少なくとも自分は、こういうものをこういう描き方で受け入れてもらえる、と思ったところにがっくりくる。

ただ、そういう雑な手つきの雑な作品の中にも何か光るもの、人を惹きつけるものがあり、恐らくそれが作者が「死んでくれ」と思うまで苦しめられた才能なのだろう。

ここまで考えて「そういうことか」と自分の中で綺麗にまとまった。

 

鈴愛が秋風を罵るシーンはドラマで見たときはその唐突さ、リアリティのなさのみが際立ったが、改めて文字で見るとすさまじい苦悩が伝わってくる。鈴愛が涼次に言う「死んでくれ。そしたら許してあげるよ。別れてあげるよ」も、才能を持った人間のみが聞くことができる「死んだら、あなたの人格を解放してあげる」という才能からの残酷な宣言なのかもしれない。

ドラマ自体のできはともかく、この二つのセリフにこもったエネルギーはすさまじく、創作はここまで人を追い詰めるのかと慄然とさせられる。

北川悦吏子と同年代で「砦なき者」を書いて亡くなった野沢尚だったら、何と言っただろうとふと思った。

自分の中ではこの二人はどことなく似ている。よく言えば内的美学の強さ、悪くいえば自意識の強さが共通している気がする。

 

多くの人が「自分のための解釈」「自分のための物語」を見いだせ、その見いだした物語によって読み手に個別的に何かをもたらす(もたらされたと思わせる)力があること、が自分にとっては優れた物語の条件のひとつだ。

話自体はちょっと……という感じだったが、終わったあとに色々と考えたり、色々な感想を読んだりするのは楽しかった。

物語は自分にとっては世界をはかる手放せない物差しだ。

 

「半分、青い」は、長すぎて何をはかっていいかよくわからない物差しだった。

悪気なく見た人にぶつかって、時に見る人を苛立たせてしまう。謎の機能があるが説明書はない。恐ろしく使い勝手が悪いが、色々な人の心に色々な意味で届く。

伸縮機能をつけたほうがいいのでは、せめて説明書をつけては、と思うが、そういうものが一切ついていないところがこの話の魅力だったのかもしれない。

何だかんだ言ってこれだけああだこうだ語っているのだから、やっぱりすごい話だったのだろう、たぶん。

 

突然読みたくなった。