急に「エルデンリング」がプレイしたくなったので、キャラを作り直して二周目をやっている。一周目は世界観についていくのが精一杯だったけれど、二周目はじっくり世界を味わえるので、初見とは違った楽しさがある。
エルデンリング カテゴリーの記事一覧 - うさるの厨二病な読書日記
世界観やキャラについてさんざん考えたけれど、思いついたことがあるので雑談したい。
「混沌(源流)から黄金の輪(律)を取り出す」過程を描いた物語
「エルデンリング」は、
黄金律は本来、トライ&エラーを繰り返し、永遠に連環し続けることが可能なシステム「完全律」を目指すものだ。
その中のエラー(ゲーム内で起こるイベント)の数々を視認する「視座の揺らぎ」を無くした場合にあらわになる、「効率化を目指す無味乾燥な作業」こそがこの話の本筋では、と思う。
【「エルデンリング」ストーリー考察】「陰謀の夜」と「巨人の火の釜」のエピソードの類似性から、世界の全体像を探る。 - うさるの厨二病な読書日記
「完全律」というシステム(世界)が完成するまでの過程を描いた話だ。
宇宙の始まりである「源流」は、境い目が存在しない「混沌-深淵-暗黒ー無」であり、混然一体とした「力」そのものだ。
この混沌とした源流に、様々なルール(律)によって境い目ができ区切られたものが弾かれ、それを繰り返すことで「自律して永遠に連環し続ける完全律を目指す」
大まかにはこういう話だと思う。
「エルデンリング」の世界では「結合すること(混じり合うこと)」は、力を得る方法だ。
ゴドリックは「接ぎ木」をし、ライカードは蛇と合体し、また英雄の亡骸を合わせて作る「冒涜の剣」を作り、ゴッドフレイがセローシュと合わさっている。
坩堝や混種、古竜族は「混じり合っているために大きな力を持つ」。
魔術師たちは「合わさることで力を持つ」源流を目指していた。(源流に近づくと結晶化したり魔術師塊になるのはそのためだと思う)
「ラダゴンがレナラと別れてマリカと結婚した」という神話は「源流を目指す魔術師を切り離した」ことを表している。
「黄金律」は、そうした混じり合った雑然としたものを弾くことで進化していく。
混沌とした暗黒(深淵)から黄金の完成された輪を取り出す過程の話。
これが「エルデンリング」の物語である。*1
「モーゴットとモーグはお互いをどう思っていたか」についての妄想
自分はモーゴットとモーグはお互いを知らないのでは、と思う。
モーゴットが「まつろわぬ裏切者ども」の中にモーグを入れていないのは、モーグの存在を知らないからではないか。
モーゴットとモーグがお互いを知らないのは、この二人は別々の世界に生きているからだ。この二人は、別々の世界に生きる同一人物ではないかと思っている。
追憶などのテキストを読むと「忌み水子が生まれた」ということは書かれているが、「双子が生まれた」ということが書かれたテキストがない*2モーゴットとモーグは対象的な造形をしている、お互いを一切言及しない、というのが薄弱だが根拠だ。
もしお互いを知っていたとしたら、
モーゴット→モーグ すげえ嫌いだけど、頑張って無視して興味がないフリをしている。内心どこかでけつまずいて〇ねと思っている。
モーグ→モーゴット 興味なし。存在を忘れている。
ではないか。(希望)
「まつろわぬ裏切者ども」「身に過ぎた野心」などを見ても、モーゴットは一緒にいたらことあるごとに説教してきそうという偏見がある。
モーグはそんなモーゴットの説教をひと言も聞かず、「見える、見えるぞ」とひたすら言っているので仲が悪いという関係を妄想している。
ミケラは何者なのか。
「世界」は「律」によって生成される。
モーゴットは「黄金律」が生成している世界に生き黄金樹を守っている。
モーグは、モーグウィン王朝という黄金律に拠らない世界を作るためにミケラをさらった。
©フロムソフトウェア
マリカがラダゴンであるように、ミケラは男でも女でもある。
「トリーナは謎めいている。儚い少女であるといい、少年であるといい、忽然と現れ、忽然と消えていくという」(トリーナの剣)
トリーナがミケラの女性版だと思う。
スイレンがミケラにとってもトリーナにとっても信仰花であるのはそのためではないか。
「男でも女でもあるもの」は自ら「律」となり、世界を生成することが出来る。
ミケラが「もっとも恐ろしい神人」なのは、マリカ=ラダゴンと同じように「律」となり世界を生成できるからだ。
ミケラは「黄金律がマレニアの宿痾に対して無力」なために黄金律を捨てたが、それは朱い腐敗が外なる神由来で生まれたもの(黄金律とは別の律によるもの)だからだ。
黄金律が完全律を目指す過程で、宿痾そのものであるマレニアも弾かれるだろうということがわかったから、ミケラは黄金律を捨てた。
別の言い方をすれば、生まれつき宿痾に犯され黄金律の世界にいることができないマレニアがいることが出来る世界を具現化したものが、ミケラという兄だった。マレニアは自らが生きる世界を守るために「ミケラの刃」でなければならなかった、という考え方もできる。
具体的な視点で見ればミケラは、ラダゴンとマリカの息子でありマレニアの兄、モーグにさらわれた神人になれる可能性を秘めた幼きデミゴットだ。
抽象的な視点でみれば、ミケラは黄金律とは別の律で世界を生成できる可能性そのものであり、そのために余分なものを弾くことで完成されていく世界では生きていくことが出来ない、マレニアやモーグの居場所となっている。
マレニアがいる「ミケラの聖樹」とモーグがいるモーグウィン王朝は別世界(別の可能性)なので、マレニアはモーグを追う必要がない→取り合う必要がない。
「エルデンリング」は、具体的な事象で抽象的な世界観を表すことと抽象的な事柄を具体的な人物やストーリーに当てはめることを同時にやっているので、どちらの見方でも物語が楽しめる。
世界から弾かれたマレニアの悲哀や世界に抵抗するモーグに共感することも出来るし、マレニアとモーグがミケラを巡って争う三角関係とみて楽しむことも出来る。
どちらの見方もできるところが凄い、と改めて思った。
「蛇になっても好き」なのではない。「蛇になったから好き」なのだ。
かつて、異国の踊り子であったタニスはライカードに見初められ、側妃となった。
そして、彼が冒涜の大蛇となった時、人として唯一人、その元に残った。タニスはあの時初めてライカードに惹かれたのだ。
「側妃の仮面」のテキストを見てから、タニスが凄く好きになった。
今まで「あの姿になっても好きなのか、恋は恐ろしいのう」と思っていたけど、「あの姿になったから好き」なのか。
恐ろしいのは恋ではなくタニスだった。