「100分de名著」で取り上げられて話題になったジーン・シャープ「独裁体制から民主主義へ ー権力に対抗するための教科書ー」を読んだ。
本書で上げられている独裁体制と戦う考え方の中で、自分は以下の三つが面白いと思った。
①体制側に軍事力を行使させない。→軍や警察、官僚も体制に完全に従順ではなく、非協力的になるような状態になるように働きかける。
②民衆が日常生活を送りながらでも抵抗運動に参加できる状態を作ることで、運動に広がりを持たせる。→日常生活が送れなくなれば、民衆は即座に運動から離れてしまう。
③現在の独裁体制の打倒ではなく、「独裁体制という構造」そのものの打倒を目指す→独裁体制崩壊後にどのような体制を作るかもビジョンを持たなければならない。
まず最初に「独裁体制は軍事力が最も強い部分なので、これに力で対抗しようとすれば必ず失敗する」と言い切っている。
暴力的な手段はどんなものであれ、明白なことがひとつある。
暴力的な方法に頼るのはまさに、抑圧者がほぼ優勢となるような闘いを選んでしまったということだ。
独裁者は、暴力を圧倒的なレベルで行使できる装備を備えている。(略)
従来の軍事的叛乱が非現実的であると悟ると、ゲリラ戦に走る反体制者たちもいる。しかし、ゲリラ戦が抑圧された民衆を助け出したり、民主主義へ誘ったりすることはほとんどない。(略)
民衆は統治政府によって強制退去させられることも多く、それがまた苦しみと社会的孤立をもたらす。
(引用元:「独裁体制から民主主義へ ー権力に対抗するための教科書ー」ジーン・シャープ/瀧口範子訳 ちくま文芸文庫 P20/太字は引用者)
暴力によって解決を目指す時点で、「体制側に最も有利な方法で戦いを挑んでいる」「民衆を巻き添えにする→日常生活が送れなくなる」「よしんば成功したとしても『力によって敵対者を排除して良い』という考え方は、独裁体制の構造そのものは否定していないため、同じ構造の中で中身がすげ代わるだけだ」ということが納得がいくように書かれている。
新しいグループは、地位を確固たるものにすると、前任者よりもさらに残酷で、さらに功名心に燃えた存在になることがある。その結果、新しいグループは(略)民主主義や人権に何ら配慮することなく、自分たちのやりたい放題するようになる。
独裁体制問題を解決する答えとして、これは失格だ。
(引用元:「独裁体制から民主主義へ ー権力に対抗するための教科書ー」ジーン・シャープ/瀧口範子訳 ちくま文芸文庫 P22/下線は引用者)
独裁体制の崩壊は、もちろん盛大に祝う理由になろう(略)
だが、不運なことに、これは警戒を緩めていい時ではない。
政治的抵抗によって、成功裏のうちに独裁体制が崩壊しても、旧体制倒壊後の混乱の中から別の抑圧的政権が立ち上がってくるのを防ぐために、十分な予防措置が必要である。(略)
独裁的な構造は解体させなければならない。
(引用元:「独裁体制から民主主義へ ー権力に対抗するための教科書ー」ジーン・シャープ/瀧口範子訳 ちくま文芸文庫 P127/下線は引用者)
ただ現独裁体制を倒すのではない。その後、どのような政治体制を作るか必ず考えなければいけない。
目指すのは今現在の体制の打倒ではなく、「独裁体制」という構造そのものを今後も出現させないことなのだ。
一般市民が体制に抵抗するにあたって、「体制に反対をしていても、その体制の内部で生活せざるえないこと」を前提としているところもいい。
地下に潜れだの、声を上げなければいけないなどとは書かれていない。
むしろいかに目立たないように、目をつけられないように、日常を送りながら(はっきり言えば)「体制に嫌がらせをするか」が書かれている。
公然と体制に立ち向かえる人はもちろん立派だが、様々な事情でなかなかそうはいかない、また性格的にそういうことが出来ない人もいる。
そういう人たちにいかに反対運動に参加してもらうか。
消極的であっても体制に反対してもらう、協力しないでもらうことが、むしろ公然と反対するよりも体制の力を削ることになる。
この部分を読んだ時、「八九六四ー『天安門事件から香港デモへ』ー」の中の、天安門事件の学生リーダーの一人だった王丹による「天安門事件の失敗の理由の分析」を思い出した。
「天安門事件の失敗の四つの要因」のひとつに「大衆的基礎の欠如」が挙げられていた。
学生と知識人だけが盛り上がり、一般国民(労働者や農民)への参加の呼びかけを怠った。また政府内に存在するはずの改革派と「暗黙の連合」を組む姿勢を取ることが出来なかった。
(引用元:「八九六四‐『天安門事件から香港デモへ』」安田峰敏 KADOKAWA P299/太字は引用者)
民衆の中のごく一部しか参加しておらず、また軍事介入を防ぐ方策を立てていなかったことが敗因だったと述べている。
「独裁体制から民主主義へ」で、
「警察、官僚、軍隊が独裁政権を完全に支持してその命令に従うのならば、独裁政権を倒すのは非常に難しいか、不可能であるということを、抵抗戦略の立案者たちは特に心しておかねばならない」(P113 )
と書かれているように、体制に軍事力を用いさせる理由を与えてしまうと、結局は運動そのものが瓦解してしまう。
また「八九六四」では香港の雨傘運動も「指揮系統や闘争方針が一本化されておらず、だらだらと市街地の占拠を何か月も引き延ばしたことで経済的影響を被った一般市民の反発を招き、空中分解した」(P300)ことを敗因に上げている。
自分も含めて一般に生きている市民のほとんどは、自分や家族の日常の生活が一番大切であり、よほど脅威が迫らない限りは、体制に逆らおうとは思えない。
でもそういう人たちを「体制に従順な人間」と言って切り離すのではなく、その人たちはその人たちで出来ることをやることが(体制に求められることをサボタージュしたりすることが)一見、強大に見える体制をじわじわと追い詰める。
一般市民が体制の中で生活せざる得ないということは、裏を返せばそういう人たちの生活(行動)が組み合わさったものが体制だからだ。(一般の人たちと体制の接続をいかに切り放すかがとても大切、と書かれている)
最近だと中国で起こった白紙運動や寝そべり族、ロシアのナワリヌイ氏の葬儀への参列などが話題になった。
またミャンマーでクーデター後、不服従運動などが広まった。
各国に起こる動きを見ても「独裁体制や強権体制に対しては、こういう方法で抵抗する」ということが既に定着しているのかなと思う。
今の世界の状況を見ると、日本でも強権的な体制による抑圧が起きないとは言いきれない。
だがそういうことを度外視したとしても、この本に書かれていることは「強大な構造の中で生きながら、いかにその構造に抵抗するか」という状況全てにおいて応用がきく。
そういうことを考えるために、とても面白い本だった。