戦後の左翼の歴史を追う池上彰と佐藤優対談本の三冊目。
1970年前後を境に学生運動を中心とした新左翼の活動は衰退していき、左翼の活動は労働運動に主戦場を移していく。
三冊目では、左派(の理念)がなぜここまで世間からの支持を失い衰退していったかを追っている。
自分が「左翼が衰退した一番の理由」と感じたのはここだ。
佐藤:(前略)現代のリベラル派は効率性や合理性を保守派以上にありがたがる傾向が強いので想像しにくいかもしれませんが、むかしの左翼や労働組合にとって作業の分業化や機械化によってもたらされる仕事の合理化は、人間から仕事を奪い、人間を本来あるべき労働から疎外させる絶対悪だったからです。(略)
現代では職場の効率性を高め、職員一人ひとりの生産性を高めることで労働者もその果実を受け取ろう、などということを経営側だけではなく大企業の労働組合までが当たり前のように主張する風潮がありますが、こちらのほうがむしろ異常です。
池上:たしかに、マルクスが分析した資本主義の基本的なメカニズムからすればそうなりますね。
(引用元:「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022」池上彰/佐藤優 講談社 P69-P71/太字は引用者)
左派の思想は、「仕事を合理化することや階級の固定化をすることで生産性を高める資本主義というシステムは、人間をあるべき姿から疎外する絶対悪だ」という発想から体系化されているのではないか。*1
「資本主義を仮想敵としてすべての思想が編まれている」ので、「多くの人が(そこから派生する問題には疑問を持っていても)根底にある資本主義というシステムには特に違和感を持っていない現代に即した思想」にするなら根底から見直さないといけない。
AIが誕生してその可能性を探っている現代で、「合理化は悪。番号を読み取って仕分けることを機械ではなく人間がやるべきだ」という発想を持つ人は、「リベラル」「左派」と自認している人でも余りいないのではないか。*2
「合理化」という発想自体が(いいものと悪いものがあるという問題ではなく)左翼の思想の中では本来的には「搾取する側の論理」だとすると、そのことについて今はどう考えているのか。
「色々な問題はあるにせよ、資本主義というシステムにはある種の理がある。少なくとも絶対悪ではない」という方向に土台を変えなければ、現代社会で生きる人にリーチする思想になるのは難しいのではないか。
「そうしている」という見方もあるかもしれないが、個人的にはそれを明示せずにうやむやにしたまま枝葉だけを現代に即しているように変えているために、端から見るとどこかちぐはぐな矛盾したもののように見えてしまう。
大事なのは「資本主義自体をどう思うか」ではなく、「自分たちの思想は資本主義を仮想敵として体系化されているがその根底をどう考えるか」という発想ではないかと思う。
「資本主義社会」や「新自由主義」と呼ばれる経済におけるリベラル*3は、「個人主義」と関係が深い。
多くの共産主義思想の国の現状や、活動員を「細胞」と呼ぶところ、日本共産党で残っている「民主集中制」という制度を見てもわかる通り、共産主義思想は「組織がひとつの生命体であり、そこに所属する人間は組織を構成するもの」とみなしている、と自分は思う。
「個人」という概念とかなり縁遠い思想だ。
資本主義は「個人差」によって格差を生み、共産主義思想は「個人」という格差を消失させることで平等を実現する。
現代は個人主義が、多くの人にとって賛否以前の「前提」になっている。
本書の中で創価学会が果たした役割が書かれている。読んだ瞬間に先日読んだ「ひろゆき論」とまったく同じ構図だなと感じた。
佐藤:左翼運動というのは基本的に組織された労働者と知識人の運動なので、本来ならば労働運動が組織すべき未組織労働者の中に左翼運動では救いきれない部分がどうしても出てくる。そうした層が創価学会に流れたわけです。
だから共産党と創価学会はマーケティング的には一番ぶつかるわけですよね。(略)
池上:(略)(松本)清張からすると、ともに社会の中の最も弱い層に支えられている二つの勢力がいがみ合っているのは、与党自民党に利するだけであり、日本の民衆にとって不幸なことであるという思いがあった。
(引用元:「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022」池上彰/佐藤優 講談社 P91-P92/太字は引用者)
創価学会が左翼運動では救済対象とならない人を取り込んだように、(「ひろゆき論」によれば)ひろゆきを支持するのは「リベラルが救済対象としてない人」だ。
(リベラル派の「弱者リスト」の構成員に含まれない)人々は、リベラル派のプログラムで救済されることはない。
(引用元:「ひろゆき論ーなぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのかー」伊藤昌亮 世界2023年3月号 P186/太字・括弧内は引用者)
「左翼運動の救済対象とならなかった層」が創価学会という新たな組織に吸収されたのに比べて、現代における「リベラルの救済対象とならない層」は「ひろゆきの言動」という茫漠とした概念に惹かれる。
彼らは今現在は自分たちは「弱者」である、と思っている。
その理由を「社会の仕組み(プログラム)を利用できる立場にない」ということに見出している。つまり既存の「弱者」のように「社会の構造を変革しよう」というのではなく(そこに関心はなく)「それを利用できるか、できないか」に関心がある。
それを知り、利用することが出来さえすれば、自分は(既存の社会でも)強者の側に立てる人間である。
そういう自己像を保証してくれる言動を、支持している。
根底にあるのは不遇感や不全感であり、やるべきことは団結することではなく、自分の能力を発揮する環境を与えてもらう、仕組み(プログラム)を教えてもらうことだ。
伊藤昌亮「ひろゆき論ーなぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのかー」を読んだ感想。 - うさるの厨二病な読書日記
「組織」ではなく「自己像(個人)」を保全するものに吸収されるところに、時代の変化を感じる。
例えば「親ガチャ」という言葉は、「親から自分が受ける影響」のみに焦点を当てた言葉であり、親のさらに親から続く「固定化された階級」という概念が含まれていない。
良いか悪いかはともかく「自分」を起点とした「個人史のみ」に焦点を当てた言葉であり、その周辺の社会事情や歴史的経緯が消失している。
「格差」は「自分個人にとっての損失だけの問題」であり、「社会の問題」や「歴史的問題」ではない。
そういう問題の捉え方になるのは、「個人主義」という土壌が多勢の中で前提となっているからだろうと思う。*4
個人ー自由ー資本主義ー保守ー右翼
組織ー平等ー共産主義ー革新ー左翼
単純にイコールで結べるものではないけれど、関連の深さで並べると恐らくこういう構図になる。
「個人」と「自由」を土壌としている現代の感覚で言うと、その土壌から「労働階級を『組織化』して平等を実現する」という考え方は根底から馴染まない。
だから「左翼運動から、リベラルの救済から零れ落ちた先」のセーフティネットとして機能するのが、今の時代は別の団体ではなく「自己(個人)の可能性を再定義するもの≒ポピュリズム」になったのではないか。
色々な左翼関連の話を聞くと「やり方自体を現代に即して変える」と言っても、「理念とやり方(運動)が一体化している」のでそれも難しそうだと思う。
だから先日の共産党の除名騒動のように、表向きは「時代に即した」ように見えながら端から見るとかなり違和感を持つようなことが起こる。
それは結局のところ、土壌そのものが現代社会の多数の価値観と異なっているのに、表向き見えるものだけを変えようとするからではないか。
その理念を信じるなら例え時代に即していない、支持が広がらないと思ってもそれを守るしかないし、そうでないなら根底の土壌から現代に即したものとなるよう、目に見える形で見直すべきなのでは、と今回三部作を読んで思った。
自分は特に左派に親和性はないし、何度か言っている通り共産主義思想にはかなり懐疑的だが、保守的な社会の主流から零れ落ちた人を掬い上げるものがポピュリズム(的な言動)しかない、というのはかなり困った状態だと思っている。
現代の主流の考えに対抗できるような何か(本書風に言うと、社会の主流に対抗できるような『大きな物語』)がないからポピュリズムや陰謀論に引き寄せられる人(そこに依拠するしかない人)が出てくるのでは、とは思った。
そういうものを何か残しておかなくてはいけないとは思うものの、今の左派政党の状態や歴史を見るとちょっと難しいかもしれないと思ってしまった。