*本記事はネタバレ感想です。未視聴のかたはご注意ください。
遅らばせながら宮藤官九郎脚本「俺の家の話」全10話を見た。
「俺の家の話」は、介護される父親と介護をする息子の親子愛、そして家に住む兄弟たちの家族愛の話である。
ジャンル自体はありふれているし、自分は親子愛、家族愛の話には余り興味がない。
にも関わらず「俺の家の話」は毎回毎回必ず泣いた。最終回に至っては、これを書いている今も、思い出すと泣けてくるくらいだ。
一体なぜ、この話はこんなにも泣けるのか。
他の話に比べて、とりたてて感動を誘うような措置が過剰であるとも思えない(むしろ控えめだ)
序盤を観ていた時に感じた違和感や色々な登場人物の唐突に思える台詞を思い出して、思いついた。
この話は表層のストーリーと深層のストーリーで描かれていることがズレているのではないか。
自分の泣きのツボをこれほどまで刺激するのは、表層の話ではなく深層のストーリーなのではないか。
このドラマの深層のストーリーとは何か。
主人公・寿一の一方的な献身と自己犠牲の話だ。
寿一が二十五年ぶりに「家」に戻ったのは、家族に助けを求められたから。
最初に「うん?」と思ったのは、病院に駆け付けた寿一が妹の舞、弟の踊介と再会するシーンだ。
このシーンで舞と踊介は(多少は怒るが)二十五年音信不通だった寿一をあっさりと許し、受け入れる。寿限無に至っては(いくら芸養子だからとはいえ)「家を継ぐ」と言い出した寿一に何の葛藤も見せない。むしろ帰ってきたことを喜ぶ。
「今さら何をしに来た」という態度を取るのは、父親である寿三郎だけだ。
その寿三郎はサクラに惚れこみ、寿一だけではなく舞や踊介もないがしろにしている。そのため、二十五年も音信不通だった人間に対してであれば、一般的に考えれば寿三郎の態度のほうが普通である、という文脈がかなり薄れている。
しかし自分が舞や踊介、寿限無の立場であれば、寿一をこんな風にあっさり受け入れることは考えられない。
いくら何でもご都合主義過ぎないか。
そう思いながら見ていた。
だが最終回まで見て、このシーンで描かれていることは表層の文脈通りではないことに気づいた。
そもそも話が逆なのだ。
戻ってきた寿一を、舞や踊介、寿限無が受け入れたのではない。
兄弟たちが寿一に助けを求めたから、寿一は二十五年ぶりに戻ってきたのだ。
寿三郎が倒れたことにより、これまでの人生で寿三郎が父子家庭として必死に守ってきた「家(能と家族)」は壊れそうになった。寿三郎が死んだ後、宗家を寿限無が継いだとしても、舞や踊介は家に徐々に来なくなり「家」は無くなってしまう。
そのことがわかっていたために、舞、踊介、寿限無は寿一に助けを求めた。「家」を守ってもらうために。
「家」に戻ってきた寿一に対して舞や踊介、寿限無がほとんど何も聞かず、その後当たり前のように寿一が常に家族の中心で在り続けるのはそのためだ。
サクラやユカが言及するように、寿一はただひたすら人に何かを与え続け、相手が差し出すものは受け取ろうとしない、スカイツリーであり妖精のような存在なのだ。
寿一は父親にただひたすら、色々なことを「してあげたい」
寿一が「家」を守るために一方的な献身を続けるのは(兄弟たちのためもあるが)父親・寿三郎のためである。
「寿一は、能とプロレスのことしか頭の中にない」というサクラの台詞があったが、能もプロレスも寿一にとっては父親につながるものだ。
「自分は褒められたことがないのに褒められている」と息子の秀生にさえ嫉妬する。
サクラと関係を進めようとするときでさえ「まるでサクラさんとするために父親を施設に行かせたみたいで」と言ったように、寿一の頭の中には常に父親・寿三郎が存在する。
父親と話したい、褒めて欲しい、認められたい。
寿一は父親に対する思いをそう語る。
だが寿一の中で最も強い思いは言葉で語られる「褒められたい」ではなく、作内では語られない「父親に尽くし献身したい、そのことによって父親に対する感謝を表したい」という気持ちではないか。
寿一は父親に「何かして欲しい」のではない。「してあげたい」のだ。
父親の寿三郎は芸には優れていたが、人間としてはお世辞にも立派だとは言い難い。見栄っ張りで意地っ張りで我儘ですぐに拗ねる。どちらかと言えば欠点が多く扱いづらい。一度は能も家族も捨てて他の女性と結婚しようとした、という人間的な弱さもある。
だが寿三郎は人間的な弱さや多くの欠点を抱えながら、自分一人で、家族を能を、「家」を必死に守ってきた。
寿一はそんな寿三郎に、言葉では表せない巨大な感謝と愛情を抱いている。
だから感謝の言葉を口にしない父親に時に怒りを露わにしながらも、介護し続けるのだ。
なぜ寿三郎は、寿一に対して感謝の言葉を口にしないのか。
そんな寿一の献身に対して、寿三郎はなぜ感謝を口にしないのか。
寿三郎が寿一を理解せず、愛情がないためか。
これも逆である。寿三郎は寿一を誰よりも理解し、愛情があるからこそ感謝の言葉を口にしないのだ。
寿三郎は、自分の息子の寿一がどういう人間であるかをよくわかっている。寿三郎が感謝を口にすれば愛情を示せば、寿一は父親が守ってきた「家」を守り、父親に献身するために自分の全てを犠牲にしてしまう。
寿三郎は寿一のことを理解しているからこそ、死ぬ間際になっても弱音を吐かず、寿一を呼び戻さず、助けを求めず、戻って来たあとも感謝を口にせず、我がままを言い、冷たく突き放すのだ。
寿三郎は一見、芸のことばかりで子供のことなど何も見ていないように見えるが、他の誰よりも寿一を理解している。
なぜ、寿三郎は寿一を呼び戻そうとしなかったのか。
なぜ、戻って来てからも我儘で冷たい態度で振り回すのか。
なぜ、介護をしてくれる息子に感謝しないのか。
最終回で寿三郎が言った通り「褒めたら終わっちゃうから」だ。
兄弟たちの求めに応じて寿一が「家」に戻って来た時点で、寿一の気質から父親のために自己犠牲を払い、死んでしまう運命は決まっていた。
だが寿三郎は、この運命に何とか抗おうとした。
自分が感謝しなければ(愛情を示さなければ)寿一は父親のために自分を犠牲にすることを止めるのではないか。父親のために、我が身をすり減らして「家」を守るのも、大きな負担を背負うことも止めるのではないか。
「寿三郎の代わりに数の子を食べたから寿一は死んだ」という表面上のストーリーは、荒唐無稽な妄想に聞こえる(実際、作内現実においてはそうである)
だが深層下のストーリーでは、それが事実なのだ。
そして「寿一が寿三郎の身代わりとして死ぬことを選ぶこと」を、「家」の人間は全員わかっていた。寿一の死が突然のものだったにも関わらず、寿三郎以外の舞や踊介、寿限無、サクラ*1が取り乱さず、寿命が尽きた寿三郎を見送るかのような様子なのはそのためだ。
それまで抑制されていた父親と息子の愛情が、最終回で目の前に浮かび上がる造りが凄すぎる。
寿一は責任感が強く優しい人間だ。だが同時にひどく考えなしなところがあり、ユカやサクラにその点を何度も指摘される。
寿一が欠点だらけの父親を愛したように、寿三郎も寿一の欠点まで含めて理解して深く愛していた。
物語をすべて見終えて初めて、寿三郎がどれほど寿一を愛していたか、寿一ががどれほど父親を慕っていたか、兄弟たちがどれほど兄である寿一に対して強い信頼をいだいていたかが形あるものとして見えるようになる。
「役者の力で亡霊を客の前に浮かび上がらせる。それが能だ」と世阿弥が語った通りのドラマなのだ。(「隅田川」の舞台をやっている時に、スカイツリーである寿一の亡霊が戻って来る、というオチが天才すぎる)
寿一なら自分の身代わりとして死んでしまう、そして本人が言った通り、父親会いたさに出てくる。
寿三郎がどれほどこの運命を避けたいと思っていたか。それでも寿一が会いに来てくれて、自分の思いを伝えられて嬉しいと思っているか。
最終回まで抑えられてきた二人のお互いに対する愛情が伝わって来て、思い出すだけで涙がとまらなくなる。
長瀬智也は、暑苦しすぎてうざったい、優しいけれど考えなしすぎる、でも大きい男という寿一という役にピッタリハマっていた。
寿三郎役の西田敏行は言うまでもなく、戸田恵梨香も桐谷健太も江口のりこも永山絢斗もみんなよかった。ロバートの秋山は凄いな。本当に芸人なのか。
ドラマの造りが今の時代に合わせた作りになっており、テンポが良く展開が速い。伏線の張り方が細かい網の目みたいだし、小ネタを用いた遊び方もきっちりしている。
毎回笑って泣いて感動して忙がしかった。
救いようのない悲しい話のはずなのに終わったあと笑顔になれる。
そんな凄い話だった。
何かを思い出すな、と思ったらこれだった。
*1:サクラが寿一の死後、踊介と結婚したのは、サクラが既に「家」の一員だからである。「家」の一員になるために結婚したのではない。既に一員だから結婚したのだ。