うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

follow us in feedly

「ハイスペックで礼儀正しい若者」は、デマサイトを作る前に「スタンド・バイ・ミー」のクリスのような人を見つけたほうがいいよ。

【スポンサーリンク】

 

ハイスペックで、礼儀正しい若者がデマサイトを作る 就活の失敗からそれは始まった

 

上の記事を読んで思ったこと。怒りを通り越して、怖さを感じた。

ここまで極端な例は珍しいしどこまで本当か分からないけれど、こういう類の話は確実に増えているし、これからも増え続けると思う。

こういう人間を制するためには、社会で「真っ当さ」を守って育てていくしかない、という話を以前書いた。

 

「面白さ史上主義」に対抗する「真っ当さ」の物語。ゆうきまさみ「機動警察パトレイバー」

 

人のアイデンティティを自分の利益のみのために意図的に攻撃し傷つけて、「それの何がいけないのか」という発想には心底戦慄する。

倫理観がどうこう以前に、自分自身や自分の周囲の人を守るためにこういうことにはNOと言っていきたい。

 

ただ元記事を読んでいて、「結果が見えない状況に耐えられなくて、才能や能力があるのに変な方向に走り出す」という事例を何回か見ているな、ということをふと思った。

 

昔はたぶん「結果というのはすぐに見えなくて当たり前」のものだったし、「運よくすぐに結果を出せている人」がいたとしても、それはほとんど観測できなかった。

だから焦る必要もなかった。焦って変な方向に走りだそうにも、変な方向に走る方法もなかった。

 

ところがネットが出現して、そこで目立って目に入ってくる人は「結果を出せている人」ばかりだ。見知らぬ赤の他人である自分の目に入る場所にいる、ということ自体が、既に何等かの結果であるからだ。

 

ネットというのは良くも悪くも反応が早い。反応も数値化されているなど可視化しやすいし、比較もしやすい。

そういう世界に慣れてしまうと、「二、三年は結果が出ないかもしれないけれど、腰を据えてじっくりと」ということが難しくなり、「結果の出ない現状」が自分の評価の全てになってしまう。

 

その結果に焦ったときに、「変な方向に走る方法」もネットで簡単に見つかる。

元記事のようにデマサイトを作ったり、どんな方法でもどんな結果でもいいから「目に見える結果」を「すぐに」出そうとする。

 

個人的には、能力や才能と人格というのは、まったく別モノだと思っている。

だから能力や才能があるのに、人格が未熟で使いこなせなかったり、自分でそれを信じきれなくて投げ銭のようにバラまいてしまったり、本来は「人生のこのポイントで発揮できるもの」を変な方向に走って台無しにしてしまったりすることが往々にしてあるんじゃないかと思う。

「それも含めて能力や才能だ」

「そういうことをしても、世に出てくるのが真の才能だ」

と言われれば、それはその通りだとは思う。

ただ、ネット社会である現代は、そういうものを昔よりダメにしてしまいやすいんじゃないかとふと思った。

 

有名な映画「スタンド・バイ・ミー」の原作になった、スティーヴン・キングの短編「ザ・ボディ」の中に、これに関連したシーンがある。

主人公のゴーディが、友達三人に自分が作った短編小説の話をする。

友達のうち二人は、その話の何が面白いのかまったく分からない。

がっかりするゴーディに親友のクリスが

「お前はいつか絶対に有名な小説家になる。そうしたら、俺たちのことを書けよ」

「俺がお前の親父だったら、その才能がなくならないように、励まして大事に守ってやるんだけれど」

と言う。

ゴーディの両親は、優秀だったゴーディの兄が死んで以来、抜け殻のようになってしまい、ゴーディにまったく関心を持たない。

クリスはそのことをゴーディのために憤り、自分だけはお前の才能が分かるし信じている、と伝える。

「ザ・ボディ」はキングの半自伝的小説なので、ゴーディも成長して小説家になる。

「この話のすぐあとに、友達二人ともクリスとも自然に縁が切れた」という残酷なリアルさと、その時その瞬間だけの美しさが並列で淡々と書かれているところが、この小説のいいところだと思う。

 

キングに本当にこういう友達がいたのか、それともこういう風に言って欲しかっただけなのかは分からない。ただキングのような人*1でも、自分の可能性を自分だけで信じ続けるって難しいことなんだな、とこのシーンを読んで思った。

 

世間や他人の無理解や無関心に比べて、才能を支える人格は余りにか細いと思うときがある。

スポーツでも早々と芽が出たのにちょっとしたことでうまくいかなくなる人もいるし、組織運営とか人を育てる能力のように、ある程度年がいってある位置につかないと才能が発揮しようがない分野で、そこまでたどり着けない人もいる。

 

ゴーディも他の二人の反応だけを見ていたら、もしかしたら「もう何かを書いて他人に見せよう、なんて思うのはやめよう」と思ったかもしれない。

今の時代だったら長編小説を書くのをやめて、それこそデマサイトならすぐに反応があって、小銭も稼げてそっちのほうがいいじゃないか、と思ったかもしれない。

「シャイニング」も「IT」も「ミスト」も「ミザリー」も「グリーンマイル」も、何より「スタンド・バイ・ミー」が生まれなかったかもしれない。

 

どれだけもったいない、と思って歯噛みをして頭にきても、結局はその人の才能を生かすかどうかはその人の自由でしかない。外野はせいぜい「がんばってくれ」と無責任に応援するしかない。

他人は残酷だから追い風にあるときは誉めてくれるけれど、うまくいかなくなると途端に見向きもしてくれなくなる。

 

だから「人格と才能のバランス」を考えたときに、どれだけ自分を知らない他人から才能だけを「すごいすごい」と認められても、結果を出し続けなければ不安になる部分があるのかもしれない。

 

どんな時も自分の可能性を自分一人で信じ続ける、というのは本当に難しいことだと思う。

実際、可能性がない可能性のほうが多いし、「何でもいいから、とにかく目に見える結果が欲しい」という気持ちは分かる。焦る気持ちもすごく分かる。

才能を支える「自分」というものも含めて、「お前のことを信じているよ」と言ってくれるクリスのような人を見つけると、結果が見えなくて自分で自分を信じ切れなくなったときも、変な方向に行かなくて済むんじゃないかな。

ある一時期だけでも、誰かが無条件に自分の可能性と力を信じてくれた、ということはいつまでも心の支えになる。

 

まあ、そういう人を見つけることが一番難しいことなのかもしれないけれど。

 

 

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

 

 

*1:モダンホラーという一ジャンルを確立して、60、70歳になっても面白い小説を書き続け、書く本書く本すべて映画化するような人