「蟻の棲み家」は「分断する自分」への無頓着さが気になり、自分の中でかなり評価が低い。ただ感想記事でも紹介した
「安易な区分けは不当に誰かを貶める危険がある。そして不当に貶められた人たちは誇りを叩き壊されて、規範意識を持てなくなる」
「 文字は『自分と同じような人間の中で起きていること』という前提で書かれるべきであり、おれはそれを踏み外さない」
という言葉のように、細部にはハッとさせられる素晴らしい部分がある。
(こういうセリフが出てくるのに、なぜ「自分とは違う人間という安易な区分けをする」ストーリーになってしまったのかが不思議だ。)
これ以外にもいくつか印象に残ったシーンや言葉があるけれど、その中でもとりわけ心に残ったのがこの現象だ。
勉強をしていたら仲間に小突かれた。相手が自分と同じようにクズでないと気にいらないのがクズな人間の特徴なんだとその時に気がついた。だから母親は、末男が新聞配達をすると言ったら、ひどく荒れたのだ。
末男は盗めなかったと嘘をついて、十日間自転車を盗まなかった。すると母親の男が、スーパーの前まで末男を連れて行き、鰻を十パック万引きしてこいと言った。
(引用元:「蟻の棲み家」 望月諒子 新潮社 P10 太字は引用者)
愛されている女が憎いのは、愛されていない女の常よ。
森村由南と吉沢末男は母親が同じような仕事をしている。森村由南は、そういう家の女はそうなるものだと、自分の人生に彼女なりに見切りをつけていた。(略)
ところが芽衣はそうじゃない。(略)きちんと高校に通い、健全な友達がいる。森村由南はそれが我慢ならなかった。
(引用元:「蟻の棲み家」 望月諒子 新潮社 P232‐233 太字は引用者)
他の作品でもたまに出てくる「不遇で悲惨な環境にいる人間が、その環境から脱しようとする仲間の行く手を阻んだり、その環境にそぐわないことをしようとすると足を引っ張る」現象だ。
どの作品か忘れてしまったが、貧しい家庭に生まれた子供が家で勉強をしていたら、親に「俺をバカにしているのか」と勉強道具を捨てられたとか壊されたとかそんなエピソードを読んだ記憶がある。
キングの「ザ・ボディ」のクリスの家だったような気がするが、記憶が定かではない。
不幸で悲惨な貧困から子供たちが抜け出せないのは、周りの偏見や理解のなさもあるが、環境がそれを許さないなどの理由もある。
「真面目に勉強」しようとすれば仲間たちから揶揄されバカにされ、「どうせあの家の子供」という目で見る教師や大人たちがおり、親を含め家族も「まともなことをする」ことを励してくれるどころか、足を引っ張ろうとする。
クリスも「誰も俺のことや俺の家族のことを知らない土地に行きたい」みたいなことを言っていた。「その境遇にいる子供」という生まれたときからの烙印は、想像以上に重く、人を縛る。
「八月の光」は、そういった烙印からどう逃れるかという話だった。クリスマスにはその環から抜け出す方法が暴力くらいしか与えられなかった、というところが救いがない。(しかも逃れられない)
樹なつみの「パッション・パレード」の「アメリカン・ビート」は、この「相手に自分と同じクズでいて欲しい」現象の話だ。
「パッション・パレード」は面白い漫画だが、その中でも「アメリカン・ビート」は頭ひとつ抜けたエピソードだと思う。
最初読んだときは、ビーキーの気持ちがよくわからなかった。
「お前だけズルい」という嫉妬、とずっと思っていたが、ジョーカーに向かって「この街に生まれ黒人に生まれた運命なんだ。お前だけが好きなことをやって逃げ出すことなんか、絶対に許さない」と言ったときの静かな表情は、嫉妬のような激しい感情には見えない。
大人になってわかったけれど、あれは諦念なのだろう。このとき、ジョーカーもビーキーと同じ目をしている。
(引用元:「パッション・パレード」2巻 樹なつみ 白泉社)
「人は生まれたときに背負ったものから、逃れることは出来ない」
バスケ選手として圧倒的な才能を持つジョーカーでさえ、霖がいなければこの諦念に呑み込まれていたと思う。
高校の教師は運命と戦えと言うんです。俺はその教師と俺が、別の世界に住んでいることをまだ知らなかった。戦ったら、勝ち取ることができると思っていた。
戦って勝ち取れるところにいる奴らはご託を言う。俺は、そういう綺麗なご託が言える人間に裁かれる。そいつらはまるっきり俺の世界を知らない。
(引用元:「蟻の棲み家」 望月諒子 新潮社 P309 太字は引用者)
「蟻の棲み家」で末男が言っていることは、まさにその通りだと思う。
こういう境遇に生まれるとはどういうことかわからないと「境遇なんて関係ない。運命は自分次第で変えられる」とつい思ってしまう。そう思えること自体が恵まれた境遇にいるのだ、と気づかせてくれる。
ただ「蟻の棲み家」のストーリーはどこで切り分けるかこそ違え、この末男が言っていることをやっているので混乱してしまう。こんなに核心をつくことを言っているのに。
末男に万引きをさせた男はクズとしか言いようがないが、末男の口を借りて「クズ」と罵らせるだけの「蟻の棲み家」の描きかたこそ「そういう綺麗なご託が言える人間に裁かれる」ことではないのか。
クズなビーキーに「高校出たって職なんかどこにもねえ。(略)まともに暮らせって! 冗談じゃねえよッ。お前だけが、選ばれるのか! 大手ふって『外』へ行けるのかよ」と叫ばせる「パッション・パレード」はいいなと思う。
ビーキーも森村由南も同じだ。
彼らは自分がゴミタメに生まれ、いずれ「クズ」になると知っていた。戦っても戦っても無駄なことは知っていた。「八月の光」のクリスマスは、自分の運命と戦おうとしたが、結局その連環に引き戻され潰された。
才能に恵まれているジョーカーですら、運命から抜け出すには幸運が必要だった。
特に秀でた能力がない人間がその連環から逃れるのは不可能だ。
そう自分の人生に見切りをつけていた。そうすることで、かろうじて自分の人生を生きることができた。ジョーカーがいなければ、芽衣がいなければ、「クズ」である自分をなんとも思わなかっただろう。
ジョーカーはビーキーにとって、芽衣は森村由南にとって、「ありえたかもしれない、と思ってしまう可能性」だった。
しかしそれは「可能性」ではなく、夢物語だ。彼らはそれが「絶対にありえない夢」であることを知っている。
「引きずり落としたい」とか「あいつだけ狡い」とか、そういう感情ですらない気がする。
たぶん見たくないのだ。とにかく見たくない。その夢を。見れば期待してしまうから。その期待は決してかなえられない、裏切られることを知っているから。
「相手が自分と同じようにクズでないと気にいらないのがクズな人間の特徴なんだ」
この定義が本当なら、自分もたぶんクズだ。
自分がビーキーの立場ならジョーカーを積極的に陥れようとは思わなくとも、存在そのものを見たくない。たぶん、耐えられなくて(気に入らなくて)離れていく。
「蟻の棲み家」がうんざりするのは、自分もクズかもしれないという視点が一切なく、クズに対して(恵まれた境遇の長谷川翼も含まれる)ひたすら「クズ」と言い続ける話だからだ。
そんなこと誰よりも本人がわかっている、ということも描いている「パッション・パレード」のほうがずっと好きだ。
樹なつみは何作か読んでいるが、特徴として「大きな規模の話を、小さくまとめてしまう」印象がある。他の漫画は「ちょっと小さくたたみすぎでは」と思うことがあるけれど、「パッション・パレード」は、この特徴がいい方向に出ている。
人種や貧困の問題などがいい意味で重くなりすぎず、エンターテイメントに落とし込まれている。それでいながら、その中で生きていくことがどういうことなのか伝わってくる。
重いテーマが組み込まれていても、あくまで本筋は、主人公の青春や成長物語から外れないところがいい。
久しぶりに読んで絵は若干昔風かな、と思ったが、内容はまったく古びた感じがなく面白かった。
(引用元:「パッション・パレード」2巻 樹なつみ 白泉社)
ジョーカーとクリスは人種は違うが、境遇は似ている。
クリスも出来心で盗んだが返しにいった給食費を教師に横取りされたとき、「返したと言っても、チェンバース家の子供で、アイボールの弟の俺の言うことなんか誰も信じない」と言って涙を流す。
「パッション・パレード」では、白人の刑事のマシスンは、最初はジョーカーを偏見の目で見ており、彼の言うことをまったく信じない。
マシスンの中の偏見や差別意識は、もちろんいいことではない。しかし「八百万の死にざま」で出てくる刑事ジョー・ダーキンを見ると、その地に生きていない人間には、理解しがたい面もあるのかもしれないという気持ちになる。
霖が警察に行くように勧めたときの「無駄だ。警察のやり口はわかっている。奴らはおれを犯人に『決めた』んだ。そうしたいんだよ」というジョーカーの答えは、両者の深い断絶とすさまじい相互不信が伝わってきて重い気持ちになる。
「八百万の死にざま」で被害者となるキムは、居場所のない家から出て都会で性産業に取りこまれた「最貧困女子」だ、と今回気づいた。
彼女は容姿に恵まれていたため、「最貧困女子」で言及されている「恋愛成就型」のルートで、貧困状態から抜け出す一握りの人間のうちに入った。それが原因で殺されてしまう、という救いのない結末になってしまったが。
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