今年も、秋の風物詩「村上春樹はノーベル文学賞をとれるのか」が終わりました。
受賞したのが、村上春樹も敬愛していて作品内にも出てくるボブ・ディランだったので本人も嬉しかったのではないでしょうか。
せっかくなのでこれを機に、村上春樹についてじっくりと語ってみたいと思います。
村上春樹は現存している日本の作家の中では、世界的に最も有名で作品が読まれている存在だと思います。
村上春樹の作品の大きな特徴
村上春樹の作品を表すもので、自分が最も適切な表現であると思っているのは「平易な文章で難解な内容を語る」というものです。
村上春樹の書く物語は、ほぼメタファーで出来上がっています。寓話に近いです。
インタビューやエッセイなどを読むと、恐らく本人も「それこそが優れた物語の特性であり、小説というものの目的である」と考えているのだと思います。
その表層だけをとらえて「ラノベみたい」という評もあります。
作者本人が「物語をどう解釈するかは、読み手の自由である」として一切、物語の解説をせずに作品の評価を読者の審判に委ねている姿勢を鑑みても、この評は自分は非常に残念に思います。
物語というものは解釈に多様性があり、その特性によって人々の心に様々な形で働きかけることができるものでなければならない。
だからこそどんな人間の深層にでも働きかけられるように文章自体は平易であり、読み手がどのような形にでも解釈できるような作りになっているのだと思っています。
村上春樹の作品が世界各国で広く読まれているのも、「解釈の多様性を持つことによって、国籍や文化を問わず、どんな人間の心にもある普遍的なものに働きかける力を持っているから」だと思います。
なぜ、作品の方向性が大きく変わったのか。
転換の契機となった一連のオウムの事件
村上春樹は前期と後期で、大きく作品の方向性が変わっています。
本人は「デタッチメントからコミットメントへ」という言葉で語っていたと思いますが、地下鉄サリン事件が大きな転機となって、「社会の中で、自分という存在をどう確立するか」という発想から、「多様な人間が存在する社会と、自分がどう関わり生きていくか」という方向性に変わったのだと思います。
それが最もよくわかるのが「ねじまき鳥クロニクル」です。
この物語は、さらに現代社会へと連なる歴史を動かした、今も社会の奥底を流れる「集合体としての人間の深層意識」について言及しています。
あの悲惨な戦争からオウムの事件などが起こる現代までの歴史を作り上げた「集合体としての人間の深層意識」とは何なのか。それを追求することによって、現代社会の問題を考えようとした物語である、と自分は解釈しています。
それほど、地下鉄サリン事件に代表されるオウムの一連の事件というのは、村上春樹にとって衝撃だったのだと思います。
「オウムという存在を生み出した、今の日本社会」
「その社会の一員である自分」
そういうことについて、考えざるえなくなったのだと思います。
「社会の中で生きながら、社会の価値観から離れた自己をどう確立するか」という、前期の作品で繰り返し取り上げていたテーマを大きく転換させたのは、この辺りが原因だと思っています。
「ねじまき鳥クロニクル」はそれほど好きな作品ではありませんが、この姿勢には深く共感しています。
村上春樹はユング心理学の第一人者だった河合隼雄と親しかったので、ユング心理学の考え方が作品にしょっちゅう出てきます。
歴史の底に流れる「人間の集合的無意識」もユングの考え方です。
井戸にもぐることによって、個人の無意識のさらに奥底にある「集団としての無意識」に触れる。それこそが、歴史上、数々の悲惨な事件を主導する「悪の存在(作品の中では綿谷ノボルに象徴されている)」を生み出し続けるものなのではないか。
自分が理解した限りでは、「ねじまき鳥クロニクル」はそういう造りになっています。
「他者(社会)に自我を預けずに自分自身で確立することと、その状態を維持しながら社会と共存する道を模索している」のが、村上春樹の作品に共通するテーマだと思っています。
前期の最高傑作である「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
前期の村上春樹の作品群は、「この社会において、自分というものをどう打ち立てるべきか。そもそも社会に確立しようとしている、自分とは何なのか」ということを共通のテーマとして持っていたと思います。
これは「旧来から培われている現代社会の価値観」と「様々な情報が入ってくるがゆえに、多様化した価値観」の狭間に立たされている現代に生きる人にとって、非常に重要なテーマだと思います。
(考えずに、旧来からの社会の価値観をそのまま受け入れ生きていく、という方法もありますが。)
この「自分と外界の関係性をどうすべきか。そもそも、その自分とは何なのか」というテーマを極限まで追求したのが、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だと思います。
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村上春樹はどの作品をとっても傑作ぞろいの作家ですが、仮に他の全ての作品が駄作だったとしても、この「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を書いたという一点で、後世に残る作家になっていたと思います。
「社会との関係性を切り離したとき、個としての自分とは何なのか」
そういう作品だと思います。
社会性と自我が完全に融合している人にとっては、「何だ??これ? 意味がわからない」と思うか、もしくは「SFもどきの変な話だな」と思うかもしれません。
村上春樹の作品の優れた点は、読む人によって作用の仕方が違うこと
自分はそこが村上春樹の作品の面白いところだと思います。
自分に関わりのないテーマについては、ほとんど物語として機能しないので、ある人にとっては非常に深い物語となり、ある人にとっては意味のないつまらない話にもなりえます。(どの創作物もそうだと言えますが、ただ村上春樹はそれこそが小説の役割であると考え、意識して創作をしていると思います。)
自分は、「海辺のカフカ」はあまり面白いと思いませんでした。
というよりは、「社会の中で生きる」ことを模索し出した後期の作品群については、正直それほど強い感銘を受けませんでした。(物語としては、面白いとは思いますが。)
「国境の南、太陽の西」や「スプートニクの恋人」は、初読から大きく評価が変わりました。
特に「国境の南、太陽の西」は最初読んだときは、「不倫小説かよ」と思って嫌悪しか感じませんでしたが、年月を重ねてから読むと「人はどれほど努力しても、誰かを取り返しがつかないほど傷つけてしまうことがある」という言葉の意味が分かるようになりました。
自分自身も、決して杓子定規に生きられず、人を傷つけたり傷つけられたりした経験をしたうえで読むと、「本当にその通りだな」と思う箇所がたくさんあります。
「正しく生きられない、醜さや弱さで誰かを傷つける人間でも、誰かと共に生きたいと望むことは許されるのか」
恐らく、そういうテーマの小説だったと思います。
いま読むと、島本さんもイズミも、主人公の心の中の何かの象徴として描かれるように感じます。
人の心に作用する「媒介」としての小説
これほど広く読まれている作家なので、巷で村上春樹の作品の批評が溢れていますが、自分に限っていえば、自分と同じような視点で村上春樹を語っている人を見たことがありません。
読む人によって多様な解釈ができる、「物語自体が何かを強烈に主張するのではなく、人の価値観を揺さぶる装置としての物語」である点が、村上春樹の作品の最も優れた点であると自分は考えています。
村上春樹は有名であるがゆえに食わず嫌いをしている人も多いと思いますが、巷にあふれている批評を聞いただけで敬遠するのは、非常にもったいないです。
それは鏡のような作用を持った物語であり、自分自身がその前に立ってみないと何を目にするかは分からないのです。
いつも通りの自分が映るだけで特に面白くないかもしれない。
自分ではない何かが映るかもしれない。
今まで知らなかった自分を発見するかもしれない。
ぜひ、他人が語る他人像を聞いて「そういうものか」と思わず、自分自身で鏡の前に立って何が映るのか確認して欲しいと思います。
ノーベル賞は、もうこういう感じでいいと思う。
もう、芥川賞みたいに「あげそこねた(>_<)。今さらあげられない」状態まで突き抜けて欲しい。
— うさる@厨二病 (@usaruzzz) 2016年10月13日
ノーベル賞がそんな状態になるって、どういう状態かはわからないけど。