うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

村上春樹「国境の南、太陽の西」は、なぜあんなクソみたいな奴が主人公なのだろう。

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国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

 

「国境の南、太陽の西」を初めて読んだときの、なんとも言えない嫌悪と困惑を今でも覚えている。

ただのメロドラマ的な不倫小説としか思えなかったからだ。

 

創作に品行方正さを求めていないし、これまでの村上春樹作品の主人公も取り立てて「正しい人間」ではなかった。むしろ「世間的な正しさ」みたいなものを斜めに見ている人間のほうが多かった。

「国境の南、太陽の西」の主人公は他の村上作品の主人公とは違い、「世間並みの正しさをうまく生きられない」人物ではなく、むしろ「世間の中でうまく立ち回って成功し、自分の利益を追求している」ように見える。

 

主人公の一人称視点なので、彼がイズミや有紀子を裏切ったときの心の苦しさや理由は書かれている。誰にも心を開けなかった冷凍された十年間の歳月があったなど、彼なりの苦しさがあることも読者にはわかる。

しかし主人公の人生を皮相的に見ると、相手の傷心につけこんで裕福な会社社長の婿に収まり、その金で成功したのにも関わらず、恋人に裏切られて自殺未遂をしたことがある妻を、自分の欲望のために再度裏切るというクソみたいな人間である。

主人公が心の底から有紀子を愛して結婚を申し込んだ、彼も彼なりに苦しかったという内面がわからなければ、金持ちの娘にうまく近づき、世間の潮流に乗っかって義父の引き立てで金儲けをし、うまい汁を吸うとんでもない俗物に見える。

しかも裏で不倫をし、自分の意にそぐわない株の売買のことで妻にいきなり切れるという(初めて読んだときドン引きした)とんでもなくひどい人物だ。

 

一人称小説なので何となくこれまでの村上春樹作品と同じ色合いの主人公のように思えるが、よくよく考えると「国境の南、太陽の西」はこれまでの作品では嫌悪されそうなタイプの人物が主人公なのだ。

「ノルウェイの森」の主人公ワタナベが「おい、キズキ、ここはひどい世界だよ。(略)こういう奴がきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ」と言っていた、「こういう奴」が社会に出た姿だ。

 

最初読んだときは、「国境の南、太陽の西」に何ひとつ共感も肯定もできなかった。

主人公がイズミを裏切ったアホみたいな言い訳も、そんなことをしておいて大学に入って寂しくなったら「イズミに会いたい」と思う調子の良さも、その後に付き合った女の子への冷たさも、何年後かに「彼女は僕を許してくれているだろうか」という自意識過剰ぶりも(とっくに忘れているだろう)も、有紀子に対する裏切りも、有紀子に八つ当たりする神経も、社会のある部分に加担にして成功しながらそれを嫌悪するようなことを言う都合の良さも、主人公に何ひとつ罰を与えず許す有紀子も、何故かすべてが元通り丸く収まる結末も、ただ都合がよい話のようにしか見えず、訳が分からず呆れた。

しかしなぜかそのまま「くだらない」と放り出さず、村上作品の中でもかなりの頻度で読み返している。

 

自分はこの作品のストーリーにはまったく共感していないし、ほとんど興味も持てない。たがこの話が言わんとしていることは、深く共感しているのだと思う。

僕という人間が究極的には悪をなしうる人間であるという事実だった。

僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうあれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。

僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手でさえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。

 (引用元:「国境の南、太陽の西」 村上春樹 P66 講談社)

 

最初読んだときは言い訳や開き直りにしか聞こえなかった。

この年頃のときは、「正しさ」は自分の意思で追求できるもので、それができないのはただ意思の弱さだけが理由だと思っていた。

年がいけばいくほど、「正しくいる」ことがいかに難しいか、そもそも「正しさは意思で追求できるはずだ」という思考で人を見ることも、ある種のクソさではないかと思うようになる。

 

正しくなくても不完全でもクソさを持っていても、それでも誰かと生きていきたい、時に誰かを身勝手に裏切ってしまっても裏切られたとしても、誰かを信じて許しあいたい。

そう思ったから、有紀子は主人公を許してこれからも一緒に生きていくことを選んだのだろう。 

 

「この主人公、クソだな」と思ったあのころの自分も十分「クソさ」を持っており、それが今の自分の一部になっている。

それを誰かに許してもらって生きているんだなあ、と思えるこの本は、やっぱりいい話だと思うのだ。