東村アキコ「東京タラレバ娘」を読んだ
今期TVドラマ化もされる、東村アキコの漫画「東京タラレバ娘」を読んだ。
昨今、よく見かけるアラサーの女性が結婚や恋愛に悩む姿を描いた漫画だ。
自分としては、ある程度共感して読めるのではないか、と考えたのだが、結果的にはまったく共感できなかった。
というよりも言葉を飾らずに言えば、かなり苛立ちを覚えた。
年代や立場は違えど、ほぼまったく同じ作りである安野モヨコの「ハッピーマニア」は、自分の中では女性漫画の中で一、二を争う名作であるにも関わらずである。
読んだ時点での自分の状況が違うからだろうか??
もし、「東京タラレバ娘」の登場人物たちと同じ状況のときに読んだとしたら、共感しながら読んだであろうか??
たぶん、違うと思う。
彼女たちのときと同じ立場のときに読んだら、「東京タラレバ娘」はそれなりに面白く読めただろう。
「うんうん、そうだよねえ」
「あはは、こういう人いる」
楽しく読み終えて、そしてそのあと、何も心に残らなかったと思う。
「ハッピーマニア」を同じ状況で読んだら、恐らく余りに痛くて読み進めるのが怖くなったと思う。
凍りつくようなひきつった笑いを浮かべながら、それでも自分の心をのぞき込むように、それでも繰り返し読んだと思う。
恐らく「面白い」という感想は吐けなかった。
「痛い」としか言いようがない。
そして今、「ハッピーマニア」を読み返すと、そのときに自分が感じていた「物理的な」(としか言いようがない)痛みを懐かしく思い出す。
両方とも「女性の幸せとは何なのか」ということを、恋愛・結婚を軸に語っていながら、この二者はまったく似て非なるものである。
「東京タラレバ娘」は、自分の不幸がすべて「結婚できないこと」に集約されている。
「東京タラレバ娘」の三人の主要登場人物たちの「不幸」は、「結婚できないこと」にすべて集約される。
「結婚したいけれど、相手がいない」
「結婚したいけれど、未だに元彼のセカンドに甘んじている」
「結婚したいけれど、相手は既婚で不倫をしている」
十年前の23歳の自分に、タイムマシーンで戻って言いたい。
「妥協して、その男にしておきなさい」と。
(引用元:「東京タラレバ娘」 東村アキコ 講談社)
十年後の43歳の自分が、タイムマシーンに乗ってやってきたら、たぶんこう言う。
「少しくらいのことは我慢して、その男と結婚しなさい。みんな妥協したから、幸せになったのだ」と。
このエピソードを、作者は「妥協」という言葉を軸にして話を進めている。
「妥協して、そこそこの男と結婚をして幸せになった女性たち」と
「でも、その妥協がどうしてもできない主人公たち」を対比させている。
しかし、自分はこのことに強烈な違和感を覚える。
「妥協しないで心の底から愛した人と結婚さえすれば」、女性は幸福なのだろうか?
「パートナーが不誠実だから、既婚者だから、いいパートナーが見つからないから、自分は不幸なのだ」
つまり裏を返せば、
「自分が妥協していないパートナーが見つかって結婚さえすれば、幸福になれるばずだ」
「愛し愛された人と結婚さえすれば、女性は幸福である」
自分が「東京タラレバ娘」に感じた、一番の違和感は、この幻想を非常に無邪気に何の疑いもなく信じている点にある。
自分の幸福は自分で追求し続けるしかない
対して、「ハッピーマニア」はどうか。
「ハッピーマニア」は、一種の地獄めぐりの物語だ。
「いい男に出会いたい」
「専業主婦をして楽に暮らしたい」
「働きたくないから、フリーターとして適当に生きている」
「アルバイトすら、面倒くさくなるとすっぽかす」
そんなどこでもいる二十代半ばのダメ女、重田カヨコが、ありとあらゆる男を相手に、ありとあらゆるダメな恋愛をし続ける。
不倫もするし、元彼の都合のいい女にもなったし、うまくいったと思ったら、相手が突然海外に行ったり、相思相愛になったら相手がマレにみるダメ男だったり、プロポーズされても何か違うと思ったり。
人生のどこかで聞いたような話が繰り広げられ、人生のどこかで言ったことがあり言われたことがある言葉が延々と書き連ねられている。
「一体、自分は何が欲しいんだろう」
そう考えたときに、重田はこう呟く。
「震えるほどの幸福が欲しい」
「幸せって、しびれるようで、くるくるまわって、甘くて苦しくて目頭がアツくなるようで、なんかわかんないけれどそんなかんじなんだよ」
「わかるのは今のコレは、幸せじゃないってことだけ」
(引用元:「ハッピーマニア」安野モヨコ 祥伝社)
誰かが愛してくれるのは幸せ。
誰かを愛することも幸せ。
結婚しようと言ってくれるのも幸せ。
結婚するのも幸せ。
でも、本当にそれが自分が追い求めている
「しびれるようで、くるくるまわって、甘くて苦しくて目頭がアツくなるようで、なんかわかんないけれどそんなかんじの」「震えるほどの幸福」なのか。
重田は恐ろしくいい加減な女であるが、この一点においてはまったく妥協しない。
自分が考える「震えるほどの幸福」を追い求めて、人を傷つけ、傷つけられ、他人の愛情を踏みつけ、自分の愛情も何度も何度も踏みつけられながら、それでもまだ見ぬ「自分だけの幸福」を追い求めて恋愛し続ける。
「ハッピーマニア」は物語の最後、重田のことをずっと好きだった高橋と結婚するシーンで終わる。
でも重田は、この後に及んで、結婚式の直前に何回も逃げ出す。
そして、最後に叫ぶ。
「あーーーーー、彼氏欲しい!!」
「彼氏欲しい」は、物語の始めから重田が叫び続ける、お決まりのフレーズである。
このころになると、読者はもう気付いている。
これは文字通りの「彼氏が欲しい」という意味ではない。
「自分自身で、自分だけの震えるほどの幸福を、もっと追求したい」
恐らくそういう意味だと思う。
自分の幸福は、自分にしか分からない。だから自分で追求し続けるしかない。
世間は「結婚が女の幸福」という。
だから「妥協してでも、結婚すればいい」という。
でも、「愛し愛されて結婚するのが一番の幸福だよね」という。(「東京タラレバ娘」はこの段階の話である。)
でも、本当にそうなのか?
愛し愛されることは確かに幸福である。
でも、それだけで自分の幸福はできているのか。
それさえ叶えば、自分は永遠に幸福なのか。
世間で「これが幸福だから」というから、「これが幸福なのか」
「自分が愛し、自分を愛してくれるパートナーを見つける」ただそれだけさえ叶えば、自分は幸福になれるのか。
自分にとっての本当の幸福とはなんなのか?
そういう疑問を持っているから、重田は結婚式直前の最終回になっても「彼氏、欲しい」と叫ぶのである。
たとえ、どれほど傷つけられても、どれほど相手を傷つけても、「自分にしか分からない、自分だけの幸福を自分自身で」妥協なくひたすら追求するからこそ、「ハッピーマニア」はこれほどの痛みを感じさせる物語なのだと思う。
外殻のストーリーラインは、恋愛や結婚を巡る物語でありながら、これは女性の…というよりも、人生の命題の物語なのだと思っている。
「東京タラレバ娘」の三人はそれなりに働いている設定であるが、内面を見るとまったく自立していない。
「東京タラレバ娘」の三人が「何か誤ったこと」をやったときに、軌道修正するのは、常に本人たちではなく男である鍵谷である。
彼女たちは男である鍵谷に、自分の人生や恋愛に対する姿勢の甘さを指摘され、彼に指摘されるままにその姿勢の甘さを修正する。
六巻で香が元彼との関係を、鍵谷に言われたことによって、断ち切るシーンが象徴的である。
(引用元:「東京タラレバ娘」 東村アキコ 講談社)
残念ながら、「(作内の流れにおける)彼女たちの誤った行動」を指摘したり正したりするのは、常に男である鍵谷である。
自分自身で正すことはおろか、女性同士で指摘したり正す力すらない。
それに対して、重田はどんな行動も最終的には自分自身で決める。
そしてそんな重田の状況に正確で鋭い突っ込みを入れ行動を厳しく叱責するのも、女友達であるフクちゃんである。
重田のすごいところは、周りにどれほど厳しいことを言われ、どれほど強く止められても、本当に「自分がこうしたい」と思ったら一切躊躇しない点である。
そしてその行動によって、後でどれほど傷つき、どれほど周りから馬鹿にされても、それを一切他人のせいにはしない。
自分で選び、自分で行動し、その傷も痛みもすべて自分で引き受けている重田は、どれほど外面的には馬鹿でいい加減な女性に見えても、自立した強い人間である。
誰かの強い指図がなければ、自分の行動すら決められない人間とは違う。
「東京タラレバ娘」では、「妥協」という言葉が繰り返し使われる。
「パートナー選びに妥協した女性は、いま幸せだ」
「自分も妥協しておけば」
「世の中には妥協できる女と妥協できない女がいる」
妥協したければ、妥協するのもいいと思う。
ただその際、「妥協した」ということが、自分が自分の意思で選んだ最良の選択であったと言い切る気概が欲しい。
「妥協した、ということが、妥協しない選択だったのだ」
そう思えない人間は、「妥協」という言葉を、責任を逃れたり、言い訳するための道具として使う。
そして、そういう人間だからこそ、自分ではない誰かに(「東京タラレバ娘」であれば、男である鍵谷に)人生を指示してもらわなければ生きられないのだ。
「妥協した」という言葉を言い訳のように口にして、人生を自分の意思で主体的に生きていない人間が、「なぜ幸福になれないのか」と言われても、それはそうだろうとしか言いようがない。
自分が「東京タラレバ娘」を読んだ感想は、最終的にはこの一点だけだ。
他人は自分の人生の幸福を考えてはくれない。
自分の幸福は、自分にしかわからず、だから自分自身で追求するしかない。
例え、それがどれほど辛く痛みを伴うものでも。
今の時代に、特に社会的に問題になりやすい、「女性の主体性と依存」という課題を乗り越えられていない、その課題が見えてすらいない物語が描かれていることが、個人的には非常に残念だった。
ただ「東京タラレバ娘」は、まだ物語が続いているので、今後どういう道筋を辿りどういう結末になるか見守りたいと思う。
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