うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】大人に見捨てられた少女たちが路上で生き抜く「路上のX」

【スポンサーリンク】

 

 

寝る前に読み始めたのは不正解だった。

途中で読むことがやめられず、結局一気読みしてしまった。

路上のX (朝日文庫)

路上のX (朝日文庫)

 

 

ネグレクトされた居場所のない少女たちが、自分たちを搾取しようとする大人たちの手をかいくぐりながら、連帯して生き抜こうとする。

という粗筋を読むと、「こういう話かな?」とぼんやりと頭の中に話が思い浮かぶが、その予想は裏切られる。そして裏切られない。

 

「路上のX」は、ネグレクト、JKビジネス、監禁事件、性的虐待、居場所のない少女たちの路上生活、貧困ビジネスと「それだけを主要テーマとして扱うだろう」と思うありとあらゆる要素を詰め込みながら、そのどれも描きかたがぼんやりとしている。

この話が描いているのはそれらのテーマではなく、路上で生きる少女たちだ。

二人の主人公、真由もリオナは二人とも大人からの性的被害を受けており、そのことによって深刻な傷を負っている。だが、その傷は彼女たちの一部分にすぎない。彼女たちはその傷を生きるだけの存在ではない

「その過酷な環境を生きるだけの存在」として彼女たち自身ではなく「過酷な環境や背景そのもの」を主体として見ることも、彼女たちにとっては一方的な決めつけなのだということが、彼女たちの目を通して世界を見続けることで浮かび上がってくる。

 

真由とリオナは、男たちが大人たちが、自分たちを一方的に品定めし判断し、「こういうものだ、こういう存在だ」と規定することに拙い言葉で怒り続ける。

男たちは、自分たちが選ぶ側で客だからと、女の子たちを下に見ている。その視線は圧倒的に一方的で、だからこそ、身形に無頓着でも許されると思っているのだった。

(引用元:「路上のX」 桐野夏生 朝日新聞社/太字は引用者)

 

「自分が評価する側である、判断する側である、選ぶ側である」ということが当たり前だと思っている「一方的な視線」は、人を不快にさせる。

「路上のX」の主人公たちが性を売っているからではなく、先日読んだ「後ハッピーマニア」でも同じセリフが出てくる。

遠目で見てイケソーな気がしてたけど、会ってみたら年相応だからってガッカリすんな! 失礼なんだよ。(略)

大体なんで一方的に値踏みされなきゃ(ならないんだ)

 (引用元:「後ハッピーマニア」 安野モヨコ 祥伝社/太字は引用者)

 

「自分のみが判断する側である」と考え「相手を一方的に評価すること」→「相手は自分との関係性における客体としてしか存在しえない」という言動は「失礼なこと」なのだ。

社会的には女性のほうがまだまだ「客体」を引き受けやすい。だからこういう「一方的な眼差し」は、性差においては女性が浴びやすい。「相手がわきまえているかどうかを自分が判断できると思って口にしてしまう」などはその典型だ。

 

「路上のX」では性差だけではなく、「大人から子供への視線」にも言及している。

「恥ずかしかっただけだよ。そのくせ、大人はみんな言うんだよ。子供だからわからないし、理解できないだろうって。ちげえよ、子供だってわかるんだよ。親のことなんだから受け入れるしかないじゃん。だから正直に話して、こっちにも理解させろっつの。まったく馬鹿にしているにもほどがあるよ」

「その通りだと思うよ」

桂が頷いた。

「そんなわかったような顔をしないでよ。失礼なんだよ」(略)

「それがわかったふりだって言うんだよ。みんなで、あたしをコケにしている。子供だっていうけど、何でもわかっているんだよ。あたしのこと、何だと思っているんだよ」

 (引用元:「路上のX」 桐野夏生 朝日新聞社/太字は引用者)

 

「『遊郭って何?』と子供に聞かれたらどう答えるか?」と聞かれたら、「その子(相手)による」と答える。

自分が上記の記事で書いたことは、真由の叫びと重なる。

この手の話題で思うのは、「子供も『相手(大人・親)がどういう人間か?』ということは判断しているという視点がない人はそこから考えたほうが良くないか? ということだ。

子供も子供なりに色々と考えているし、わかっていないように見えてわかっていることもたくさんある。

「この大人には、性格、考え方、日ごろの言動、知識その他もろもろから鑑みて、この問題は聞いてはいけない、触れると面倒くさいことになる」くらいのことは、自分は小学校上がる前でも何となく感じとっていた。

 

子供も「自分の親(や他の大人)がどういう人間か」ということは、言語化は出来ないにしてもだいたい肌感覚でわかっており、その感覚に基づいて判断している。

自分は子供のころ、そういう視点がないのに(特に内面に)干渉しようとしてくる大人が嫌いだった。

自分も大人になれば今よりは物がよく見えるようになり考え方が変わるのだろうか、と思ったが、「恥ずかしかっただけだよ。そのくせ、大人はみんな言うんだよ。子供だからわからないし、理解できないだろうって」という理屈が見えるようになっただけだった。

「大人でも無能で無力で無知で愚かなことはある」ということに正直になって子供に相対するようになりたい、と思っても出来ているかはわからない。

自分も「しょうもない大人の一員」になったのか、という無力さを感じることはある。

「親から家事の負担を押し付けられていて、色々と問題がある19歳の彼氏と付き合っている14歳の幼馴染が心配なんだけれど、自分に出来ることはないか?」と14歳の女の子に相談されたら、自分だったらどう答えるか。

 

「路上のX」のいいところは、真由やリオナたち「路上の少女たち」を無謬の存在として描いていないところだ。

「彼女たちもまた、一人の人として大人を見ていない。その感情や、時に過ちを犯してしまうことに関心を払っていない」という視点も入っている。

「大人が絶対的な存在ではなかったことに怒ること自体が、彼女たちが子供だということ」がわかる。

「路上の少女たち」は男たち大人たちに理不尽に傷つけられて生きているが、決して無垢な被害者でもなく理想的な存在でもない。

真由、リオナ、ミトの三人は寄り添いあって生きているが、感情の行き違いは頻繁にある。感情的になり、お互いの言動をあげつらったりもする。

物の見方も考え方も違う別の人間なのだ、ということが伝わってくる。

しかし、幼馴染みのミトが現れて、秀斗を監禁してからのリオナは、秀斗だけではなく、自分たちにも命令ばかりしている。(略)

「どうしたの、真由?」

リオナは鋭い。真由の少しの変化も見逃さない。

「どうもしないよ」

「そうかな。何かうざそうだよ」

(引用元:「路上のX」 桐野夏生 朝日新聞社)

 

同じように男から性的な被害を受けている二人だが、リオナは男である秀斗に対して、他の視点も持っている。

 「リオナは男嫌いだって言うけど、あんな秀斗みたいなヤツには優しいじゃん、どうして?」

「優しくなんてしてないよ」(略)

「秀斗は、あんな唾液だらけの沢庵が好きな自分が恥ずかしいと思っているんだよ。そういう自分に苛立っているのを感じるの。だから、時々、可哀相だなと思う時があるの」

 (引用元:「路上のX」 桐野夏生 朝日新聞社)

 

「じゃ、何なの」

「ちょっと待って」(略)

「真由は早く結果を求めるんだもん、苦しいよ」

  (引用元:「路上のX」 桐野夏生 朝日新聞社/太字は引用者)

大人たちや男たちにされていた「一方的なこと」を、真由もリオナにやってしまい指摘されたりする。

 

お互いのことが理解できないこともあり、時に疎ましく思ったり、些細なことですぐに離れていく。相手を何の気もなしに深く傷つけたり、同じ傷を負っているように見えても違うことに苛立ちを持つこともある。

「自分を捨てた母親に苛立ちながらも、自分に子供が生まれたら、母親と同じことをするかもしれない。それってリーインカーネーションだよね」と言って笑うミト。

自分を捨てた母親が大好きで許せずにいる真由にはミトのことが理解できず、リオナはミトの言うことがよく分かるがゆえに、自分はそうなるまいと決意する。三者三様だ。

 

三人の関係性は「理想的なもの」として固定されていない。不安定で生々しく、常に揺れ動く。その感情が、関係性がどこに行くか予測がつかない。

読み手が予想するテーマや重要性、期待する道徳や分別など関係なく、同情を安易に寄せ付けるほど可愛いだけの存在ではなく、ただありのままの彼女たちが切り取られ、理解できる部分もあり理解できない部分もある他人としてのみ動く。

この話の主役は、主体として生きるのは、テーマでも善悪でも読み手でもなく、「路上に生きる彼女たち」なのだ。

その姿勢を貫いたから、「彼女たち」は動かされるのではなく目の前に自然と浮かび上がってくる。凄いとしか言いようがない。

 

そうやって生きようとする彼女たちが出した答え「だから、一緒に生きようよ」は、感動的だ。

唐突に終わるのは、彼女たちがまだ路上で生きているからかなと思える。

 

「路上のX」の男版である「メタボラ」も好き。

メタボラ (文春文庫)

メタボラ (文春文庫)

  • 作者:桐野 夏生
  • 発売日: 2019/11/15
  • メディア: Kindle版