「面白いよ」と紹介してもらった。
先日、何年かぶりに読んだ文藝賞受賞作「月の裏まで走っていけた」の記事を書いたとき、はてなではお馴染みのピピピピピさんからこんなブコメをいただいた。ありがとうございます!
社会の中で生きられない人間は、殺されて当然の虫なのか?? 雨森零「月の裏まで走っていけた」 - うさるの厨二病な読書・漫画日記
純文学だと、文藝賞から出てる作品はどれも好き。『世界泥棒』というのも面白かった。エンタメ作品で分かりにくいと読む気をなくすけれど、純文学ならば、メタファーだらけの難解さが逆に良いなと思うことが多々ある
2017/01/20 21:43
教えてもらった「世界泥棒」は、題名に心惹かれて読んでみることにした。
読んでいる間中あらゆる角度から胸が痛んで、かなり読むのがキツかった。
本の感想と合わせて、その個人的な思いについてお話ししたい。
あらすじにはそんなに意味がない
「世界泥棒」は小説なので、もちろんストーリーはある。
以下、ざっとしたあらすじだが、
主人公は戦争によって、国境が分断された国に住む、中学生の女の子「あや」。
あやが通う学校には不思議な風習があって、何かの意見が対立したときに、男子は銃の打ち合いによる決闘によって物事の真偽を決める。決闘は、必ずどちらかが死ぬまで続けられる。
あやはこの決闘のことを知らず、恋人である真山から聞かされた。
あやに決闘の話をした直後、真山は何もかによって殺され、バラバラ死体となって国境付近で発見される。
これが大まかなあらすじだ。
しかしこの話は、あらすじや物語の内容にはそれほど意味がないと考えている。
「世界泥棒」で最も意味があるのは、文章だと思う。
ものすごく癖がある文章だ。
例えば、登場人物の会話には鍵括弧がない。こんな風に、
サラダにキャベツのほうが必要だって言うやつが許せなかったんじゃないのかな、と百瀬くんは答えた。許せばいいのに。真山くん、それ、ほかのひとに言わないほうがいいと思うよ。どうして。だれかに他人を許すことを強制するのは傲慢なことだから、軽蔑されると思うよ。そんなたいしたものじゃないと思う、だってキャベツだよ、杉原はキャベツのために死んだんだ、ありえないよ、百瀬が言ったこと、そのとおりかもしれないけれど、そんなことより死なないことのほうがたいせつだろう。なんで真山くんにそれがわかるんだろう。どういうことだよ。だから、なんで真山くんは杉原くんじゃないんのにキャベツよりも生命のほうがたいせつだってわかるんだろう。あたりまえのことだからだよ。
(引用元:「世界泥棒」桜井晴也 河出書房新社)
ずっと地の文とつながっている。
地の文と会話文、会話文と会話文の境目がないので、最初のうちは読んでいて目が横すべりする。そのうち慣れるけれど。
句点の打ち方もおかしいし(少ない)、ひらがながやたら多く、どうしてこの文字が平仮名表記で、どうしてこの言葉が漢字なのかという法則性のようなものもまったく見えてこない。
「なんだ、この読みにくい下手な文章は」
そう思う人も多いと思う。選評にもそのようなことが書かれているし。
一体、著者はなぜ、こんな法則性や約束事を無視した文章を書いたのか読み進めていくとだんだん分かってくる。
自分という小世界
読んでいくうちに、この物語そのものが一人の人間の内面世界である、ということが何となく分かってくる。
上記の引用文では「サラダにレタスとキャベツ、どちらを入れるか」という問題で、決闘して「キャベツを入れる」と主張した杉原という男子が死ぬ。
これは人間の意識の中で、「サラダにレタスとキャベツどちらを入れるか」を悩んだときに、「レタスを入れようと思った自分の意識を抹消している」ということを表しているのだと思う。
そしてその「決闘」で決められた出来事は、決闘を見た人間の中で「真実」と認め続けなければならない。それが「自我」や「意識」が出来上がってくる過程なのだと思う。
「決闘」の主宰者であり「世界泥棒」でもある百瀬は、こうやって世界を、自己の内面の意識に意味を持たせ、世界に色を塗り、切り分け、形づくっていく。
「決定的な意思」もしくは「外部からの圧力」が具現化した存在である百瀬は、決闘を取り仕切ることによって、曖昧模糊としたものを全てなくし、意識という世界を限定していく。
言葉によって、意味によって。
しかしそんな百瀬に、あやの妹が世界を盗むのを待つように頼む。(世界を限定するのを待ってくれと言う。)
「私の姉だけは、この世界の中で本当に美しいものだから、そして姉を通してこの世界が美しいと分かると思うから、世界を盗まないでください」
百瀬はあやの妹の言葉を受け入れ、彼女が力を振り絞って世界を美しくする姿を見守ることになる。
言葉の無意味さ・暴力性
主人公であるあやは、感性豊かな人間の「感覚そのもの」と考えられる。
意味など考えず、言葉などで説明せず、ただ自分が感じとったありのままを感じる感性を表す存在だ。
だからあやが話す言葉は、常に混乱しており曖昧なものであり、何を言いたいのか分からないものが多い。
それが当たり前なのだ。
あやは言葉では決して表すことができない、というよりは言葉で表現しようとしたとたん、正確ではない別のものになってしまう、自分が感じたことそのままを表そうとしているからだ。
言葉を紡げば紡ぐほど、あやが本当に感じている気持ちや感覚からどんどん乖離していく。
真山くんのことは好きだよ、柊くん、まだっていう言いかたはおかしいよ、その人のことがまだ好きなのに、ただそのひとが死んじゃっただけでそのひとのことを好きだって思っていた気持ちが消えちゃうっていうことがわたしにはよくわからないよ、わたしと真山くんがいっしょにいたときのわたしの真山くんが好きっていう気持ちはいまそこにいる真山くんが好きだっていう気持ちがぜんぶっていうわけじゃないと思うんだよ、きっと、そのときの真山くんはわたしがかつて真山くんといっしょにいた過去をすべてひっくるめての真山くんなんだよ、その過去をひっくるめての真山くんをわたしは好きなんだよ、わたしはそういうありかたをしていたんだ、まえに真山くんといっしょに何かをして遊んだとか、真山くんがあのときこんなことを言ってくれたとか、それが鮮明だったりくっきりしなくてもいいんだけれど、そういうものがいまそこにいる真山くんに充当されていたんだ、だから、真山くんがいっしょにいてそのとき真山くんを好きだと感じていたとしても、きっとその好きだっていう感じは、真山くんとの過去が真山くんに充当された部分を好きっていう部分と、過去とは関係ないいまそこにいる瞬間的な真山くん自身を好きっていう部分にわかれていて、真山くんが死んじゃったのに、それでもまだ真山くんを好きっていうのはそうやって充当された部分だけをまだ好きだって思っているっていうことだと思うんだよ
(引用元:「世界泥棒」桜井晴也 河出書房新社)
本や文章というものは、基本的には書いている人間も読んでいる人間も「言葉の力」というものを信じている。
例え言葉がどれほど不完全で不自由なものでも、それが形にならないものを表したり、それを人に伝えることができるのだということを信じている。
だから言葉を書き、言葉を読むのだ。
しかし、この本はまったく逆だ。
読めば読むほど、「言葉の無力さ、意味のなさ」を痛感する。
どれほど言葉を語っても、どれほど言葉を書き連ねても、語りきれないものがある。それどころか、言葉で表現しようとすることによって、「あやが感じた思い」はどんどん限定され切り分けられ、本当に感じていることからどんどん変質していく。
「言葉が無力・無意味」どころか、それは「本当のこと」「感じたありのままのこと」を切り刻む暴力にしかならない。
「会話文には鍵カッコが必要」「文章には句読点をうて」「ここが漢字でここが平仮名なのはおかしい」
そういうルールによって世界を限定することは、「感じたありのままのこと」を変質させるものなのではないか。
「結局、あやは真山が好きだったのか好きじゃないのかどっちなんだ」
「訳の分からないことを喋っていないで、それだけ答えろ」
そうやって言葉で感情や意識を限定することこそ、決闘によって世界を切り刻む行為であり、世界を盗む「世界泥棒」なのだとこの物語では語られている。
「ありのままを感じる感性」にとって、いかに言葉というものが無意味であり、無意味であるどころか暴力的ですらあるのか、そういうことが描かれている。
言葉や文章を読むことも書くことも好きであり、(自分の文章の巧拙はおいておいて)言葉というものの力を信じ、愛してやまない自分にとっては衝撃的な作品だった。
「それって、結局は真山のことが好きっていうことなの?」
別に暴言でも何でもない、自分にとっては何ていうことのない言葉ですら、それを受け止めることで傷つき、世界が破壊されるように感じる人がいる。
そういう人間にとっては、内容は関係なく、そもそも言葉そのものが凶器なのだ。
感性優位の人間は、どのように生きればいいのか
言葉というものは、人に情報なり、自分の感情なり、色々な物事を的確に伝えるための素晴らしい道具であると信じている。
しかし、この世の中にはそうでない人間もいる。
何を喋っても的はずれな言葉しか出てこず、自分の感じていることを的確に表す言葉が見つけられず、それでいながら他人の言葉によって自分のぼんやりとした美しい世界を無残に踏みつけられ、そうした事実すら言葉でうまく表せない人間もこの世はいるのだ。
起こっている事象や感じていることを、言葉に変換せず、ただありのままに受け止めている人にとっては、おそらく今の時代というのは非常に生きにくいだろう。
言葉であらわされる情報や物事の客観性や論理性、そういったものばかりが重視される。
よほど才能があり、有名な芸術家にでもならなければ、言葉にできない主観的な感性などというものは一顧だにされない時代になってしまった。
「それって主観でしょ?」
「結局何が言いたいの?」
「それって証明できるの?」
そういう言葉を投げつけられて、口を閉ざしている人もたくさんいると思う。(冒頭で、あやが幽霊を見るシーンなどが象徴的だ。)
自分がむかし、そういう言葉を投げつける側の人間だった。
「自分の感じていることを、認識できないなんてそんなはずはない」
「認識できているものを、言葉にできないなんてそんなはずはない」
「言葉で他人に証明もできない、共有もできないものなんて、存在しないも同じだ」
ずっとそう思っていた。
そういう自分の考えがいかに傲慢だったかということを、教えてくれた人がいた。口にする言葉が常に的はずれのように感じていて、そのせいでほとんど何もしゃべらないような人だった。
「言葉にしないからって、何も感じていないわけじゃない。それは認識することすらできないものかもしれないし、言葉にできないものなのかもしれないけれど、確かに存在する」
そういう人たちから見ると世界がどういう風に見えるのか、「世界泥棒」はそういうことが書かれているのだと思う。
自分が感じていることをうまく表す言葉が見つからず、誰にも理解してもらえず、正確に言おうとすればするほど「鍵かっこを使え、句読点を打て」と言われる。
でも句読点を打ったら、「感じたままのこと」にならないのかもしれない。そう感じるのに、「それがルールだから」と言われ、言葉を鍵かっこでくくられる。
言葉はどんどん自分が感じたものとは違うものになっていき、空しくなり口を閉ざす。それは世界のルールに従えない自分が悪い、自分は上手く話せない、駄目な人間なんだろう、そう思っている人がたぶんたくさんいる。
わたしはこの世界が大好きなんです。この世界でただひとり美しくないわたしがこんなことを言うのはほんとうには許されることじゃないのかもしれないけれど、ほんとうに、ほんとうにそうなんです。
(引用元:「世界泥棒」桜井晴也 河出書房新社)
こう語るあやの妹に対して、百瀬は「この世界で唯一美しいのは、美しくもなんともないこの世界を、この世界に生きる人を守ろうとするあんただ」と感じる。
自分も同じように感じた。
この言語優位、客観性優位の時代に合わずにひっそりと片隅に追いやられ、「自分はおかしいんじゃないか」と感じているかもしれない人たちを思って、泣けて仕方がなかった。
この本の作者は、こんな風に言葉にできるだけまだマシだと思う。
意識を言葉にできない、どころか、おそらく意識を形にすらできず、感じたままの世界で生きている人、そしてそんな自分を他人が分かってくれないのは自分が悪いからだ、と感じている人が恐らく大勢いると思う。
そういう人たちにとって、こちらの吐く言葉ひと言ひと言が世界を限定して、この物語の「決闘」のような役目しか果たさないものだとしたら、一体、自分はどうすればいいのだろう。
自分の言葉は毒息のようなもので、吐くだけで、相手の世界の滅茶苦茶にしてしまうのならば、もう王蟲のように、腐海の片隅でひっそりと暮らすしかないのだろうか。
彼らが与えてくれたものに対して何かを返したいと思っても、何もしないことが一番いいのだろうか。そう思うと本当に悲しい。
そしてこういう風にこの物語に意味を見出して感想を言葉にすること自体、「ああ、やっぱりわかってもらえないのか」と諦めに似た感情を抱かせてしまうのではないかと思うと、読後もずっと胸の痛みが続くのだ。
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自分はピピピピピさんは青髪美少女で、中の人などいない、と固く信じているけれど。
「月の裏まで走っていけた」は、「自分のための物語だ」と感じさせられたけれど、「世界泥棒」は「自分とはまったくの対極にいる人の物語だ」、と感じた。「客観性が論理性が共通認識が~」と言っている人にこそ、ぜひ読んで欲しい。