うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」メモと感想。三島由紀夫というスターと尖がっている学生たちの舌戦が理屈抜きで面白かった。

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前から観たかった「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を見た。

最初にまとめ的な全体の感想を書き、次に個々のお題についての自分が興味を持った部分のメモと感想。

 

*各種話の内容や引いた思想の内容は、自分が理解した限りです。正確な内容は自分で見たり読んだりすることをおススメします。

*青字は引用箇所。読みやすいように、多少言葉に手を入れています。

*学生以外の登場人物は敬称略。

 

 

 

観終わった後の全体の感想

結論を突然聞いたら驚いたと思うけれど、話を聞いてるうちに「そうか」とすんなり納得出来た。

三島と全共闘の(というより学生運動をしている)学生たちは、方向性も発想も実は一致している。

学生側の論客だった芥氏が言うところの「あやふやで猥褻な日本国」が共通の敵であり、その敵と戦うための武器が違うだけなのだ。

内田樹の「全共闘運動は本質的には反米愛国のナショナリズム」という指摘は、的確だと思う。

 

まったく真逆だと思っていた二者が、実は多くの物を共有していて、根っこのところはひとつでさえある。だから共闘できる可能性があるし、自分(三島)は共闘できると思っている。

 

最初は三島を「近代ゴリラ」「(討論会の参加費を)飼育料」と揶揄し、対立する気満々でお祭り騒ぎをしようとしていただけだった学生たちが、反発するでもなく感動するでもなく、その点に納得したような雰囲気になったのがすごい。

司会を務めた木村氏が、後日三島に「楯の会」に誘われて明確に拒否できなかったように、この点は学生たちも「なるほど」と思ったのだと思う。

 

冒頭の三島の演説について平野啓一郎が「まったく違う立場の人たちの中で、言葉というものが(略)アクチュアルな機能を果たすのかどうか(略)自分の言葉が現実に触れるかどうか」という「言葉の有効性」を確かめたかったのではないか、と解説している。

そこまで「言葉の機能や有用さ」にこだわるところはさすがだ。

さらに驚いたことに「まったく反対の立場の人に、自分の言葉が通じた」ことで、見事その「言葉の機能性や有効性」を証明した。

 

三島と自分たち学生が「共通の敵」を持ち、方向性は一致しているのは分かった。その敵と戦う武器が違うだけなのも分かる。

しかし問題なのはその「武器」なのだ。

という対立軸を持ち込めたのは、芥氏だけだった。

 

芥氏が展開した論は、学生運動に参加していた多くの人間が共有していた論だ。

この時代の話を読むと、大てい芥氏がこの時展開したような論に基づく話が出てくる。

山本直樹「レッド」と「普通の人たち」が引き起こした連合赤軍事件について。

 

連合赤軍事件内部で話されている論は、荒唐無稽なアホらしいものにしか思えなかったけれど、芥氏の話は面白く聞けた。

ただこういう考えが基盤にあり発展して連合赤軍の総括の理論が出来たのかと思うと、無心に「へえ」という思いでは聞けない。

 

あの時代の学生たちがこの論を信じて実践した結末が連合赤軍事件に代表される「敗北」であり、その総括を聞きたかった。これは誰の話を聞いてもピンとこなかった。

木村氏の「自分自身で自分の人生、何をやっているんだろうみたいな思いはあった」という述解を聞くと、70歳を超えてもなおこれしか語りえないことが「総括」と見てもいいのかもしれない。

 

番組としての締めは「私たちに必要なのは熱と敬意と言葉だ」というナレーションだったが、綺麗なまとめが空疎に聞こえるくらいただひたらすら面白かった。今の時代にYouTubeやアメーバでライブ配信されたら夢中になって見ただろう。

 

三島由紀夫の作品は「金閣寺」「仮面の告白」「豊穣の海」という有名どころしか読んだことがない。正直、どれも自分にとってはいまいち面白くなかった。(「奔馬」は面白かった)

三島由紀夫本人に対しても、肉体の強さにこだわったマッチョ思想の作家くらいの印象しかなかったが、この番組で見方が変わった。

「自分の論で相手を論破してやろう」という感じではなく、「思想を含めた自分という人間を、いかに対立する思想を持つ相手に伝えきれるか」ということに主眼を置いて討論が白熱してもそこからブレなかったことに好感を持ったし、何より面白い人だったんだなと思った。

当時聞いていた学生たちも、こんな気持ちだったのか。

語られている内容は今の時代に通じることが多く、そういう面でも面白かった。

 

 

各部のメモと感想

第一章 七人の敵

(16:20)「無限定・無前提の暴力の否定」

「私は右だろうが左だろうが、暴力に反対したことなんか一度もない」

「現在、暴力というものの効果が、非常にアイロニカルな状態な構造を持っているから(その点が気にかかる)」

 

今の時代の感覚で聞くとギョッとするが、この時代は暴力革命を指向する集団がいるくらい暴力に満ち溢れていた時代だった。

三島も学生たちも「暴力」の是非や「暴力とは何ぞや」ということを、道徳的ではなく政治的に考えている。「国家権力」が強大な暴力装置と捉えている時代なので、暴力の是非を道徳的に捉えること時代が「ナンセンス」な時代だった。

自分も今の立場では、暴力は反対で嫌悪しているけれど、例えばミャンマーのような状態になって権力に対抗するときも絶対的に否定するのかと言われれば、そこまで強固な信念もない。

 三島はこの点で、「学生たちが暴力を用いることを自分は否定していない(自分も同じ立場である)」と語っている。

 

(20:32)「非合法の暴力を肯定」

「政敵の暗殺もいとわない」

前段階で三島は「自分が殺人を犯すときは非合法であり、それは『決闘の思想』においてである」ということを話しているので、「暗殺と決闘」は矛盾していないか? 思った。

後で説明が出てくるが、三島が「決闘」と言っているものは「一対一で正面から対峙する」ことではなく「他者との闘争」を意味している。

ここからまた「では他者とは何か?」という問題が提起されて、この辺りは脳が沸き立つくらい面白い。話としては。

 

(三島と全共闘の共通点)

「お前(三島)とは接点がある、というお話が(全共闘側から)あった」

「思想を通じ(略)肉体、肉体からさらに暴力というものを論理的につなげていること」

「肉体、暴力を思想を体現するための装置とみなし、思想の体現としての肉体(暴力)を追求する」「思想と肉体を一元化する」ということだと思う。

「肉体を始めとする『物』を、何故そのようにみなすのか」という話をこのあと、芥氏が展開する。

この芥氏の話も面白い。話としては。(二回目)

この時代の思想を持つ人間は、「暴力という方法」に違和感がない人が多くいたことが分かる。

 

(反知性主義)

「反知性主義というものが知性の極致から来るのか、あるいは反知性主義というものが一番低い知性からくるものであるのか、この辺りがまだよくわからない」

「反知性主義というものは、一体人間の精神のどういうところから出てきて、どういう人間が反知性主義というものの本当の資格者であるのか、これが私には久しい間、疑問でありました」

 

強固な主義主張は「そういうものを何故、自分が信奉するのか」という内省は重要だと思う。

こういう内省がないと「それを主張すること自体に目的を見出し、アイデンティファイしてしまう」という罠にハマる。

「SNSの問題はエコーチェンバーよりも、対立する意見の存在が自分のアイデンティティーの危機と感じてしまうところにあるのではないか」という話が面白かった。

 

三島はこの罠にハマっていなかったから、「自分と反対の立場の人間に話が通じるか、言葉が有用であるかどうか」を試すことが出来た。

「その主義主張をすべき、本当の資格者であるのか」

という疑問は他人に対して言うのはどうかと思うけど、自分の内面は定期的に点検すべきでは、と思うのでふむふむと聞いた。

 

(23:52)「司会・木村修の感想」

司会の木村氏はマイクを受け取って思わず「三島『先生』」と言ってしまう。

その理由を70歳を過ぎた現在の木村氏が、「三島氏が乱暴な言い方をしない、非常に丁寧な語り口であることに驚いた」ためと答えている。

自分も三島由紀夫と言えば、あの自決間際の自衛隊の演説くらいしか映像では見たことがなかったので、こんなに聞いている人のことを考えて話せる人なのか、ということに驚いた。

 

(28:20)「他者の存在とは」

三島の冒頭の演説を受けて、全共闘側から質問が出される。

「自己が最終形態において暴力に欠ける場合、他人というものはどういった存在に置かれるのか」

三島が肉体を鍛え、その肉体から暴力を思想として体現する、というのは分かるが、例えば体が不自由だったり男性に対しての女性だったりした場合、「思想(暴力)を体現しえない肉体(肉体的弱者)の場合は、他人に従えということか」ということは自分も聞きたかった。

この段階では、「健康的な肉体を持つ成人男性だから、そんなことが言えるのであって、弱者になる自分を想定していない」ということが鼻についていた。

 

これに対して三島は、「『自と他の関係に入っている』ということは、そこに常に対立があり、戦いがあることを意味すると考える」と答える。

三島はこの前段階で、「『他者は本来、自分にとって、どうにでも変形できるオブジェであること』が、人間の他者に対する根源的な欲求であり、それがエロティズムにつながっている」と述べている。「闘争や対立を仕掛けること自体が、『他者に主体性がある=他者が他者である』ことを認めていることだ」と話す。

 

三島の論の中では「対立が出来ること」が「『他者』の成立要件」なので、「他人と対立する必要はない」という話ではない。「対立しない他者=オブジェとしての他者」を人間は欲求しているが、他者は本来そういうものではない、という話だ。

明確な答えは述べていないが、「相手と対立し他者としての主体を認め闘争をしかければ、それがすなわち暴力であり肉体的強弱は関係ない」ということかな、と解釈した。

 

三島は創作活動の初期では、「オブジェとしての他者に対する自分の一方的な働きかけ=エロティズム」を追求していたが、「主体的な他者との関係が持ちたくなったため」、共産主義という敵を定めた。

 

自分も一時期「他者とは何なのか」「自分の全てを肯定する他者は自己との違いがなく、他者の機能(他者性)を持たないため他者ではない」という話を割りと熱心にしていた。

 

アガサ・クリスティ「春にして君を離れ」は「他者性をはく奪する罪深さ」を書いた傑作だ。

 

「気持ち悪い」を巡る話は、理解を(一方的に)求めないものがいい。

 

「他者は『自分にとって得体の知れない理解できない(気持ち悪い)もの』であることは当たり前なので、自分の特異性を主張するなら、その他者と殺し合うか自分から歩みよるかを選ばなければならないのでは?」という話を書いている。

自分も他者との関係は基本的には「お互いの差異の殺し合い」ではないか、と思っているけれど、それはあくまで創作などの観念上の話であって「現実で、自分が『他者』と関係するために敵を定め、闘争を仕掛ける」のは本末転倒にしか見えない。

 

例えばこの討論会でも他者性は機能していると思うし、後に芥氏に「作家なんだから、作品でやれば」と突っ込まれている。

三島は「行動を伴わない認識は意味がない」「外の世界の行動が、そのまま自己の認識であり内界を作る」、「思考即行動」ならぬ「行動即思考」という考えなのだろうけれど、この発想はほんとに厄介だなと思った。

 

 

第二章 対決

第二章は、全共闘の論客である芥氏との論戦がメイン。

 

(自然と人間の関係)

三島は学生の一人に「自然と人間の関係」を聞かれたときに、「学生たちは、大学の机をバリケードにすることで、机を作った人の『生産目的』から切り離されている。それが自然から離れているということではないか」という話をする。

それに対して芥氏は、「既存の社会システムの中で、『関係させられ』ては駄目であり、常に『目の前の対象が自分にとって何であるか』という『関係する主体』を構築しなければならない」という話をする。

 

「お前はどこにいる? と言われて、事物について行われる関係づけが使えない場合、答えようがないんじゃないか、っていうことね。もう、これ(講堂の机)を机と言うことすら言えない状態で問われるわけだから、ここが900番教室ということ自体がなくなってしまう。そうすると結局、一方的に関係づけられてしまう我々(略)その関係を逆転するっていうことだけは分かっているわけですよ。だからバリケードを作る、あらゆる関係づけを排除した空間を作る。それに対して、我々の側がバリケードよりも高みに立って、関係づけを行わなければならないわけでしょう」

「イメージを事物で乗り越えるとき、そこに空間が生まれるわけです」

 

「(関係)する、される」の主体と客体の話は、この時代の話(論?)を読むと頻繁に出てくる。

自分が理解した限りだと、人間は元々社会に産み落とされて「社会(権力)に『関係させられている』」。既存の認識自体が、権力によって支配コントロールされているという考えがあり、「机は机の使用途しかない」という考えが権力に支配されている。(関係させられている)

「机は机ではなく、解放区を作るためのバリケードになりうる」という認識こそ、「主体として事物を認識し、関係させられている客体から関係する主体への転換である」。

 

事物に歴史や時間(生産過程?)、生産者が期待する使用途を見ることは、客体として「関係させられている」ことであり、主体として「ただ目の前のものが自分にとって使えるか、使えないか」だけを考える。それだけでいい。

自分の肉体もそう見るべき対象だという発想で、「自分に体がある。それが使えるか、使えないかまで向かわなければならない」だから、それ以外の「関係させられた」背景(国籍など)は意味を持たない。

連合赤軍事件もこの「自分の肉体を主体として認識する」→「銃を持ち敵を殲滅する主体」を獲得するための方法論として、総括を用いた。

「主体の形成が認識を変え、内部の矛盾(資本主義社会の恩恵を受けてきた自分とか)を止揚し自己を変革しうる」とかたぶんそんな感じだったはず。

 

バリエーションは様々だが、「主体と客体」「関係させられる、する」の考え方はしょっちゅう出てくる。原型はマルクスの考えなのかな? 詳しくないので分からないけれど。

ハイデッガーも「現存在(人間)と他の存在の違いは、対象事物に可能性を見ること」と言っているので、実存主義の考え方が発展していったのかなとも思うけれど(サルトルの名前も出てきたので)これを現実に当てこむのはちょっと無理がある。

 

結局は、そんな「机上の論」通りにはいかなかった。

文字で書くだけでも、人間の色々な部分を無視していると戦慄する。特攻隊の発想に似ているところが不思議と言えば不思議だ。(肉体のモノ化というか)

それが全共闘の学生に三島が言われた「思想を通じ(略)肉体、肉体からさらに暴力というものを論理的につなげていること」この共通点なんだな、と納得した。

 

この後、他の学生が「関係を否定してもそれは観念論のお遊び」「そういうことを言っていると、東大全共闘の名が廃れる」と乱入してきて、この話はここで終わる。ですよね。

 

第三章 三島と天皇(1:08)

このお題は、自分は余り興味がわかなかったので言及する箇所がない。

ただ三島が天皇を本当に「象徴」として見ていて、昭和天皇の在り方にはもどかしさを感じていたというのは意外だった。

自分の思想の象徴として心酔しているのかと思っていた。

 

まとめ

各部の内容も面白かったが自分の中で一番印象に残ったのは、学生側の主要登場人物として参加して今は70代になった木村氏や芥氏が、目を輝かせて当時のことを楽しそうに語っているところだ。

「楯の会」の一期生と同じくらい感慨深げに見えたし、実際、木村氏は定年後「三島の死の謎の研究」をしている。

討論会があったことで、対立する思想の陣営の人間に縁が出来て、70代を過ぎた今もその人について懐かしそうに語る、という点に三島が証明しようとした、現実に接続しうる「言葉の有効性」があるんじゃないかな、と思った。

 

この世代より後の世代の自分から見ると、「十代で終戦を体験した三島」と「学生時代の自分たちの活動が『敗北』と言われた全共闘」は、同じように強烈な挫折を経験したことで今の地点でこそ多くの共通点があるのでは、と思う。

だからあんな感慨深げに、三島と討論会のことを語るのかなと思うのだ。