高山裕太くん、自殺事件の経緯
2005年12月6日に、長野県立丸子実業高校の一年生で、バレー部員だった高山裕太くんが自宅で自殺する。
裕太くんの母親のさおりは、自殺の原因はバレー部内でのいじめと校長、担任の発言、監督責任にあるとして、長野県、高校、いじめの加害者とされた生徒とその両親を相手どって訴訟を起こす。
また校長個人を、名誉棄損と殺人の罪で刑事告訴する。
ここまでの事実を聞くと、また強豪運動部内でのいじめとそれを隠蔽する学校によって、犠牲者が出たのかと思う事件だが、実はこの事件には驚くべき経緯があった。
裕太くんは学校内のいじめではなく、母親の長年にわたる虐待、「母親からのいじめ」とも言えるものが原因で自殺したのではないかという疑いが出てくる。
本書では、裕太くんが自殺する前から周囲を驚かせ悩ませていた、母さおりの姿が描かれている。
裁判の結果は、学校側のほぼ全面勝訴
この事件は民事も刑事も含めて、すべての裁判の結果が出ている。
継続的ないじめの存在は認められず、自殺の原因がいじめとは認められない。裕太くんにとって、学校生活が最大のストレスであったかは疑問。
校長や高校に対する訴えはすべて棄却され、逆に母親さおりによる高校や保護者側に対する執拗な嫌がらせが認められる。
母親さおりの依頼を受けて校長を殺人罪で告訴した弁護士は、校長に対する名誉棄損により東京弁護士会から懲戒処分された。
モンスターマザーの異常性
そもそも裕太くんが自殺する前から、学校は母親さおりの常軌を逸した態度に悩まされていた。
裕太くんは自殺する前に、二度家出をするのだが、そのときも「ビラをまくのを手伝え」「裕太が行方不明なのに、よくも家でのうのうとしていられる」「バレー部員、全員で、捜索を手伝え」などと連日暴言を吐き続ける。
一度目の家出の原因は「裕太くんが弟のお金をとった」と思い込んださおりが叱り飛ばしたことが原因であり、そのときに裕太くんに対して「死ね」と言ったと認めている。
にも関わらず、裁判では「一回目の家出も学校のいじめが原因」と語る。
このようにさおりの言っていることは矛盾だらけで無茶苦茶であり、自分の気に喰わないことがあると、大声で暴言を吐き続ける。
さおりがそういう人間であることを、実は周囲は気づいていた。
さおりの実兄は彼女を精神科に連れて行ったことがあり、裕太くんが死んだときも「お前が殺したようなものだ」と言って彼女を叩いている。そして、さおりは昔からああいう性格だった、と述懐している。
さおりの実母は「あの子はああいった子で」と言って、関わることを恐れている。
近所の親戚の男性は、小さいころから裕太くんがネグレクトされていたことを知っており、「何かあったら、うちに来な」と声をかけている。
さおりは三回結婚しているのだが、二番目の夫である小島はさおりから暴言・暴行のDVを受けており、何度も警察に相談に言っている。耐えかねて離婚しており、慰謝料も認められているが、さおりからは一銭も払われていない。
さおりの暴言も録音されているのだが、それでもさおりは自分こそDV被害者だと言い張っている。
三番目の夫だった上野も、わずか五か月で離婚している。着の身着のままでさおりの元から逃げ出したが、私物を返してもらえずすべて処分されたという。
裕太くんが小学生のころ所属していた少年バレー部の監督や保護者たちは、裕太くんが入浴をさせてもらえなかったり、ご飯を食べさせてもらえていないことに気づいていた。
監督は何回かさおりに子供の面倒を見るように注意し、見かねた保護者が裕太くんにおにぎりを渡したりしていたそうだ。
さおりに関わった人たちは、彼女の異常性に気づいている。
もし学校がイヤなのであれば、家出をするのではなく、不登校になると思う。裕太くんは、学校ではなく家から逃げ出したかったのだ。
裕太くんは明るくひょうきんで、クラスでも部活でも楽しそうだった。部活も一生懸命やっていた。
学校側がどれだけ調査しても、イジメと呼べるようなものは出てこなかった。
逆に親しい友人に対して、「母親が嫌だ」「母親が担任や学校を攻撃していて申し訳ない」という言葉をもらしていた。
友人が裕太くんを家に泊まりに来るように誘ったときは、さおりがついてきたという。
二度家出を試みていることからも分かるとおり、裕太くんも何とか母親から逃げようとしていたのだと思う。
でも、逃げ切れなかった。
裕太くんは、死にたかったわけではない。死なざるえなかったのだと思う。他に怪物のような母親から逃げる方法がなかったのだと思う。
周りの人たちは自分に出来る範囲で、裕太くんのことを助けようとしている。
それでも、助けることができなかった。
こういう異常な悪意の前には、ささやかな善意の積み重ねは無力なのか、と辛い気持ちになる。
自分の都合のいいように事実を捻じ曲げ、明らかな矛盾すら認めず、執拗に他人を攻撃し続ける、こういう人間が存在することに驚く。
さおりは自分の見たい世界しか見ず、他人は自分が信じる世界の構成要素くらいにしか思っていない。裁判で完全に敗訴したにも関わらず、未だに「自分は被害者だ」と信じている。
こういう強い主張をされると、それを信じてしまう人も出てくる。
だから小島も上野も「自分のほうこそDV被害者だ」というさおりを信じて結婚したし、彼女の主張に沿って校長を殺人罪で告訴までしてしまう弁護士も出てくるし、運動を支える人間も出てくる。
こういう悲惨な事件が起こらないようにするために、できることは
裕太くんが自殺した直後は、さおりが主張する物語に沿って、テレビもこの事件を報道していた。
少し調べれば、様々な疑問や矛盾点が出てくるにも関わらずだ。
「先に自分たちの作ったストーリーありき」という報道姿勢に憤りを感じる。
ただそれは、自分たち見る側の人間が事実ではなく「自分たちが飲み込みやすく、分かりやすいストーリーを求めているからではないか」と、反省する必要もあると思う。
ささやかな違和感を見過ごし、疑問を感じることもなく、何も考えることなくこの母親の語る物語をすんなり消化した時点で、自分たちも彼女に騙され加担した側になってしまう。
少しでもおかしいと思う点があったら、出された情報を鵜呑みにせず、納得がいくまで事実かどうかを疑い続ける必要があると思う。
難しいことではあるけれど。
校長や担任、バレー部の顧問、保護者たち生徒たち、この件に関わった全員が強い苦痛を受けて大変だったと思うが、ひとつどうしても見過ごせない点がある。
さおりによって「いじめの加害者」というレッテルを貼られてしまった、バレー部部員の山崎くんのことだ。
さおりはこの山崎くんが「裕太くんの物まねをし、ハンガーで叩いたことがイジメであり、それが原因で裕太くんが自殺した」として、山崎くんとその両親を訴えている。
ハンガーで叩いたのはもちろん、良くない。
しかし、これは一年生五人を注意したときに全員にやったことであり、しかもたったの一回である。どれくらいの強さかは分からないが、他の叩かれた部員たちは別に怪我も負っていないし、心が傷ついてもいない。
裕太くんの物まねをした、というが、後に「裕太くんと一緒にお笑い芸人の物まねを楽しんでいた」ということだったことが判明する。
恐らく裕太くんは母親に「いじめの事実を出せ」と迫られて、やむえずこの二つの事実をあげたのではないか、ということが推測されている。
しかし、学校側はさおりの訴えを真に受けて、「それでさおりの気持ちが収まり、裕太くんが学校にこれるから」「この謝罪文は、外部には出さないから」と言って山崎くんに謝罪文を書かせた。
山崎くんは、裕太くんが学校に来れるならばという思いで謝罪文を書いたのだが、裁判でこの謝罪文の存在が問題になってしまう。
事実と確認できない強い主張を前にして、「それで事が丸く収まるから」という理由で子供に事実ではない謝罪文を書かせる。
この事実にかなり唖然とした。
こういう事なかれ主義で物事を進める姿勢こそ、さおりのような人間に付け込まれるのではないか。
大人であれば、本人がそうしたいのならば好きにすればいいけれど、子供をそういうことに巻き込む、しかもそれが後々裁判で問題になる、とはどういうことだろう、と信じられない気持ちだ。
この事件では、教師たち保護者たち、それぞれが大変な苦しみを背負ったと思う。
でもやはり、一番の被害者は自殺した裕太くんを始めとする子供たちだ。
「裕太くんが事実を明らかにしてくれれば、もしかしたら母子分離もでき、学校への被害も防げたかもしれない」
そういう声も、本書の中であがっていた。
だが小さいころから自分を支配していた母親に逆らう、というのは、十五、六の身では不可能だと思う。
裕太くんは幼いころから、母親が激高し、暴言を吐く姿を見続け、その常軌を逸した激怒を受ける身だったのだ。
こんなに周りが異常性を認識しており、子供が被害に合っていることが分かっていて、何とかしようという思いがあっても、たった一人の怪物にここまで色々な人の生活がかき乱され、子供を救うこともできないのか。
そういう事実に、暗い気持ちになる。
被害に合っていることが分かっていてさえ、その異常な事態から人一人を救うことがいかに難しいか、自分が巻きこまれたときにそこから抜け出すのがいかに困難かということがまざまざと分かる。
違和感がある出来事は、事実を自分の目で確かめ、自分の頭で考えて結論を出す。
日々生活する中では、ひとつひとつの物事に対してそれをするのは大変なことではあるが、そういう小さな積み重ねをして社会を少しずつ変えていくしかない。
悲惨な境遇の人間を救う劇的な力にはなりえないかもしれないけれど、そういう一人一人の小さな行動の積み重ねが、こういった悲惨な事件を防げるような社会を作る力になる。
それが強い力も持たない自分たちが、裕太くんのように逃げることもできず、理不尽な暴力にさらされている子を救うためにできることなのだ、そう信じたい。
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