うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」感想 「事実」や「現実」に迫るために必要なのは、「解釈しないこと」に耐えることではないか。

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*批判的な内容です。

 

「事実に迫る」うえで必要な要件。

自分が考える「事実に迫るノンフィクション」に必要なことは、第三者が検証が可能なこと、それが難しいのであれば検証可能なように常に配慮することだ。

人は同じ出来事を体験してさえ、物の見方、覚えていること、認識のしかたは千差万別だ。

だから「事実を知りたい」と思うときは、「こうだろう」という先入観は排して、自分自身や検証する他人の思考を誘導しないように、まず事実のみを組み立てる。

「一般的に考えればこうだろう」と思うことでも、調べたりデータを取ったりして、客観的に共有できる事実を積み上げていく

そこで初めて物事の認識のしかたがまったく違う多勢の他者が、その事象がどういうものだったかを同じ目線で検証することが可能になり、多角的な視点で事象や人物を考察することが出来る。

 

自分はこの本を「栗城史多はどういう人物か」を知りたくてその一端が分かるのではと思い手に取った。だがこの本には、そういう自分の目的にそぐわなかった。

なぜそう思ったかを書きたい。

 

推論と根拠となる事実の転倒

この本で、幾人かの人が指摘する栗城さんについて語っていることは自分がこの本に対して感じた問題点とまったく同じだ。

1993年、このルートで冬季登頂を果たした日本隊(群馬岳連隊)である、その隊長だった八木原國明さんは、栗原さんの南西壁挑戦をどう見たのか?(略)

「ボクたちは二十年、三十年ヒマラヤのことだけを考えて活躍した。実績を積み上げて、それなりの体制を作って何とか成功できた。

彼の場合は順番が逆だよね。努力と経験の延長線上に南西壁があるならわかるけど、さほどの実績もなくて、ただ南西壁に行くっていう妄想だけが先にある(後略)」

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P251/太字は引用者)

 

本来「事実(実人物)についての考察」は、

①なるべく先入観を排した事実の羅列

②ひとつひとつの事実が事実であるか検証

③検証された事実の組み立て

④組み立てた細部についてもう一度洗い直し

⑤第三者にも検証可能かどうか全体像を俯瞰

⑥自分の視点で考察や解釈を行う。

こういう組み立てかたによって行われる。

 

事実のみの羅列→事実であるか否かの検証→全体像を組み立て→第三者が検証可能かどうか俯瞰→考察

この順番が、「事実に迫る」ことだ。

 

人物像に迫る時も同じだ。

その人物に対して、誰がどこでどういう状況でどういう発言をしたのか、をなるべく自分の視点を排除して並べてみる。(話してもらえないならば、「話してもらえない」事実のみを書く

しかしこの本は、すべての事象に対してその都度、著者の解釈が入る。しかも解釈と事実を分けておらず、混同して並べている。

 

特に気になった箇所を例として挙げる。

私は小林さんと面識がない。(略)

小林さんには母性を感じる。母親には誰にも勝てない。

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P150)

 

「面識はない」が「母性を感じる」*1

何を以て「母性」を感じ、そこから「母親には誰も勝てない」という結論を導き出したのか?

メールからだろうか? 「栗城さんの排泄介助をしていた」という情報からだろうか? 上げられていない*2のでわからない。 

本書と同じように自分の視点で語ってよいならば

「母親には誰も勝てない」と結論づけるために、「母性を感じる」という根拠(にならない会ったことがない人に対する印象論)を出す。

それがあたかも事実かのように頭の中で定着してしまい、その「事実」の上に物事を積み上げて行く。こういう風に見える。

 

他には、

ブログのコメント欄を覗いてみた。ところが批判はわずかだった。削除されたのではない。関心を持つ人がそもそも少なかったのだ。

前回はコメント数が多い日が六百近くもあったが、六回目のこの遠征では七十八が最多、ファン離れは明らかだった。

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P224)

 

何気なく読むと「コメント数が減ったからファンが離れているのだろう」と納得してしまいそうになるが、ここで書かれた「前回」の時は

もちろん好意的なコメントもある。

……だが、それは全体の一割か二割程度で、批判的なコメントが圧倒している。

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P214/太字は引用者)

 

「六百近いコメント」のうち一割か二割が「好意的」なら、60~120になる。それならば「七十八のコメント数」は「ファン離れ」の根拠にはならない。

少なくとも「今回の七十八のコメントのうち、批判と好意的な(ファンの)コメント」の割合を出さなければ、「ファン離れ」は証明できない。

むしろ「批判はわずかだった。削除されたのではない」(P224)なら、「七十八のコメントの多くは『好意的な(ファンの)コメント』だったのでは」という推測のほうが成り立つ。

ということは、「……だが、それは全体の一割か二割程度で、批判的なコメントが圧倒している」(P214)のは、「コメント数が多い日が六百近く」(P224)あった「前回」とは別なのか? 

話を整理するために、時系列を書いてみた。

 

2015年三月 三年ぶり五回目のエベレスト挑戦を宣言する(P213)

八月二十二日にカトマンズに入った栗城さん(後略)(P213)

九月十六日、栗城さんはBCを出発した。(P213)

九月二十七日(略)『下山を決断しました』とブログに発表される。(P215)

(前略)発表して瞬時にコメントが飛び込んでくる。(略)もちろん好意的なコメントもある。(略)……だが、それは全体の一割か二割程度で、批判的なコメントが圧倒している。(P217)

下山を発表した八時間後(略)「仕切り直して再び上がって行こうと思います」と栗城さんは宣言した。(P217)

十月八日、日本時間の午前二時過ぎ、栗城さんがサウスコルに到着したと、ブログで発表される。(P219)

ブログにアタック時の動画が公開された。(P220)

公開された後、栗城さんのブログは更に炎上する。(P221)

コメントを削除された人たちが怒りの声を上げていた。(P221)

 

翌2016年もエベレスト行きを宣言。(P222)

六回目のエベレスト挑戦だった。(P223)

ネット民はどう受け取ったのか、ブログのコメント欄を覗いてみた。ところが*3批判はわずかだった。削除されたのではない。関心を持つ人がそもそも少なかったのだ。

前回はコメント数が多い日は六百近くもあったが、六回目のこの遠征では七十八が最多、ファン離れは明らかだった。(P224)

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社/太字・括弧内は引用者)

 

やはり「コメント数が多い日が六百近く」「好意的なコメントもある。(略)……だが、それは全体の一割か二割程度で、批判的なコメントが圧倒している」のは五回目の挑戦で、「六回目のこの遠征では七十八が最多、ファン離れは明らか」と表現しているのが六回目だ。

「批判的なコメント」であっても、コメントを書いてくれるならばファンという解釈も成り立つが、自分には納得できない。「アンチが減って本当のファンが残った」という解釈も成り立つからだ。

「批判はわずかだった」ことを根拠にして、「ファン離れは明らか」という結論出すことには疑問を感じる。

「ファン」という言葉の定義の違いだろうか? 

自分とこの本は、「ファン」という言葉の定義のコンセンサスから取る必要がある。

 

「相手に誤解を与えないように注意を払うのが普通」その通りだと思う。

前半部分に著者が栗原さんが「単独無酸素での七大陸最高峰登頂」というフレーズは、誤解を生むものだから「視聴者に誤解を与えないように注意を払うのが普通」(P97)と思う箇所がある。

私は彼のある言葉を、「虚偽表示」や「誇大広告」の臭いを感じながらも、「まあ本人が言っているのだから」とある番組で垂れ流してきた。

彼が掲げる「単独無酸素での七大陸最高峰登頂」が、それだ。(略)

そもそも酸素ボンベを使って登るのは、八〇〇〇メートル峰だけなのだ。(略)「単独無酸素」と「七大陸」がセットになること自体、ひどく誤解を生む表現なのだ。(略)

そこに描かれる主人公なら「河野さん、勘違いしていますよ。ここ直してください」と、視聴者に誤解を与えないように注意を払うのが普通ではないだろうか。

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P97/太字・赤字は引用者)

 

自分もこの意見には賛成だ。

「事実に迫る」時は、「第三者が検証可能なように」「事実を根拠として」「誤解を生む表現」は避け「誤解を与えないように注意を払う」ほうが良いと思う。

 

それでも「事実に迫る」とは、とても難しい。

難しいからこそ「それが事実かどうか」を「他者と検証(共有)可能状態」にすることが大切だと思うのだ。

 

人はそれぞれ物事や人物に対しての認識の仕方が全く違う。

だからこそ「認識の仕方が全く違う」ということを前提として、第三者と共有(検証)可能な「事実」を積み上げて行く。

 

そうでなければ

栗城さんと決別した人の中には、彼のこうしたフェイクに疲れ果てたか、フェイクを本音と受け取った人もいたと思う。フェイクを振りまく人間との「共有」など不可能だ。

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P252/太字は引用者)

まさにこういうことになる。

 

この箇所も「彼のこうしたフェイクに疲れはてて、フェイクを本音と受け取った」という言葉を言っている人は出てこない。(ここに出てくる森聡先生は、「それが彼のネタ」という説明はしているが、「それに疲れ果てた」とは言っていない。誰が疲れ果てていたのか? こういう疑問が浮かぶたびに、前後の文章を確認しなければならない)

「私は栗城さんをそう思っていた。そして実際にそのことに疲れ果てていた」という第三者の言葉はない。

つまり「実際にそう思っていた人がいるという事実」ではなく、「そういう人がいるであろうという推測」を根拠に「フェイクを振りまく人間で共有など不可能だ」という結論を出している。

それは「考察」ではない。

 

「この本で描かれた栗城さんの人物像」がそのままこの本を読んだ印象、というマトリョーシカ構造

この本はこういった、「主観からの推測」を事実と混同してその上に推測を重ねる、という筋道の繰り返しで書かれている。

「この本で描かれた栗城さん」の思考の道筋と同じだ。

 

フィクションならば「n=1」から解釈を行い、考察し、全体像(物語)を作り上げ、そこから結論や教訓を引き出してもまったく構わないと思う。

起こった事象、人物の言動をひとつひとつ解釈するのは楽しい。その解釈から「わかった」と自分なりの結論を出すのは面白い。

地味でつまらない現実よりも、面白い解釈、物語のほうが人は惹きつけられる。

だが現実について(特に「事実に迫りたい」のであれば)この道筋で物事を考えるのは問題が大きいと感じる。

 

自分がこの本で一番印象に残ったのは、「栗城のことには絶対に関わりたくない」(P31)と共通の知人に語ったG先輩の著者の質問に対する回答だ。

『Q.栗城さんの著書に「先輩は、僕と二人でマッキンリーに登るのが夢だった」と書いてありますが事実でしょうか?』という問いには、「事実ではない」と回答している。

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P32/太字は引用者)

 

「事実ではない」

簡潔にして明瞭な言葉だ。

この本には、栗城さんがG先輩に対してのように、「相手が言ってもいないことを言ったかのように吹聴する」箇所が何か所か出てくる。

栗城さんはこの行動を、カトマンズ在住の山岳ジャーナリスト、エリザベス・ホーリー氏(1923~2018)に『褒められた』ともツイートしている。(略)

私は彼女が創設した非営利団体「ヒマラヤン・データベース」に、その英文メールが本人によるものか確認を求めた。「本人が送ったことを証明する術はもはやないが、書かれている内容は事実だと思われる」との回答だった。(略)

「私は栗城氏には一度も会ったことがない」(略)

「私はヒマラヤの登山史を記録するのが仕事で、誰も褒めることはない」

(引用元:「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P184/太字は引用者)

 

「著者以外の第三者が関わったこと」でこういうエピソードが出てくるので、栗城さんがある程度そういう人物だったことは事実なのだろう。

だが自分は、この本も「この本で描かれている栗城さん」と似た傾向があると思っているので、(ある一定の事実が含まれているとしても)記述を丸ごと「事実」だと信じることは出来ない。

 

自分の視点で見れば、この本で語られる栗城さんの人物像は、この本自体の写し絵だ。

自分も先入観のみで話していいのならば、G先輩が「栗城のことにはもう関わりたくないって……。絶対に会わないはずです」(P31)と語った理由と、小林幸子さんが著者にブログで栗城さんことを書いたことを「無断でブログに書いたのは不誠実」(P150)と怒り、「会うことはおろか、電話で話すことさえ出来なかった」(P149)理由は同じものではないか

と推測している。

 

フィクションならば盛大な叙述トリックだ、と思って感心するが、本書はフィクションではない(と思う。)

 

まとめ:「個々の事実をそのまま記すことによって検証を試みる」というとても地味でつまらないことが、「事実に迫る」こと。

自分がこの本を読んで感じたことは、

①栗城史多のことはほぼわからなかった。

②言葉の定義のズレ、何故その事象がその結論の根拠になるのかわからない、という自分にとっては信頼が担保されない記述だったため、自分が何を読んでいるのかよくわからなかった。

この二点だ。

 

2009年に起こったトムラウシ山遭難の原因を検証した「トムラウシ山遭難はなぜ起きたか」の後書きで、同じ遭難事故を経験し、生還した人でも事件の印象が違うという記述が出てくる。

言うまでもないことだが、この事故の事実はひとつではなく、事故に直面した人それぞれに事実がある。(略)

事件後の報道を見ていていちばん危惧したのは、残る十のうちのひとつかふたつの事実によって事故の全体像が語られてしまうことだった。(略)

可能なかぎり客観的に事故を俯瞰するには、ひとりでも多くの生存者に事故について語ってもらうことが必要になる。

もちろん個々の事実は必ずしも一致するものではなく、見方・とらえ方・感じ方などによっていかようにも変化する。(略)

それらの整合性を無理矢理つけようとするのではなく、個々の事実をそのまま記すことによって事故の検証を試みようとした。

(「トムラウシ遭難はなぜ起きたのか」あとがき 羽根田治 山と渓谷社P355より引用/太字は引用者

 

「物の見方は人それぞれだからこそ」、第三者が検証可能な「事実」を探る、他人と認識を共有しようとする姿勢が問われるのではないか、と自分は思う。

 

自分が知っている「事実」は、栗城史多さんが若くして遭難事故でエベレストで亡くなったことだけだ。

そのことについては、いたましい気持ちになる。

 

正直なことを言えば、気象図の説明や当日、どの場所でどのように天候が変化したか、という気象学の話や、歩幅によってどれくらいカロリーを消費するか、という運動生理学の話は、読んでいて面白いとは感じられない。

「事実」はえてして、とても地味でつまらなく、コツコツ積み上げても「新たな事実」で簡単に崩れ去る脆いものだ。

だからこそ「個々の事実をそのまま記すことによって事故の検証を試みよう」とするなど、「自分の面白い考察や推論を語るのではなく、本当に事実を知ろうとする人」は凄いと思う。

自分はそういう人が、なるべく多くの人が検証可能なように探り当ててくれた事実、そこからその人たちが導き出した考えを聞きたい。

そう改めて思った。

 

続き。

自分から絡んできたのに、「アクシアは反抗期」「母親には誰も勝てない」と言って人の話をマトモに受け取らない現象について。|うさる|note

 

 

*1:「アクシアは反抗期」に近いものを感じる

*2:2022.8.30追記:直前に書かれている「小林さんは(栗城さんの)細胞が壊死していく真っ黒な指を毎日処置し、彼が手術を受け入れた後は血だらけの切断面にも動揺することなく薬を塗り続けた」からそう思ったようなので、「上げられていない」は訂正。ただ上げられている箇所から「母性を感じる」→「母親には誰も勝てない」と結論づけるのは飛躍が過ぎるので、主旨は訂正なし。

*3:この「ところが」の使い方は違和感がある。「ところがコメントはわずかだった」ならわかるが。