「魔法少女まどか☆マギカ」のテレビ版についての話です。
男女の違いについての主語デカい系の話です。苦手なかたは、ブラウザバックをお願いします。
「魔法少女まどか☆マギカ」を見た。
今さらだ「魔法少女まどか☆マギカ」を見たが、巷で聞いていたとおりとても面白かった。
ただ、見ていて違和感も感じた。違和感の原因は、物語の展開ではなく、出てくるキャラクターにほとんどリアリティがない点だ。
「アニメキャラなんだから当たり前だろ」ということではなく、例えば少女漫画などを見ると「ああ、こういう子いるな」とそのキャラの行動や性格にどこかしら現実に紐づいている点がある。
ところが、まどマギに出てくるキャラは、そういう現実の女の子に紐づいた性格や行動がほとんど見られない。
「ケーキでお茶する」なども、「女の子だからケーキにお茶だろ」という表層的なアイテムにしか見えない。
この違和感は何なんだろうと考えたときに、思い至ったことがある。
「これは少女の姿を借りた、男の物語なんじゃないだろうか」
そう考えて見たとたん、違和感がなくなった。
「まどマギ」のキャラクターの多くは、行動原理や思考法などがほぼ男性だ。
物語の作りも女性が感情移入しやすい少女漫画よりも、少年漫画(青年漫画)の作りに近い。というよりは、まんま青年漫画だ。
個人的には物語の作りだけならば、「ベルセルク(黄金時代)」が一番近いと思った。
まどかとほむらの関係は、「ベルセルク」のガッツとグリフィスの関係にすごく似ている。行動の方向性が正か負かの違いだけで。
この話は話し出すと長くなりそうなので、今はとりあえずおいてこうと思う。また後で改めて書くかもしれない。
「まどマギ」について女性の感想を見たことがないのだが、何となく女性が見てもピンとこないのではないか、感情移入しづらいのではないかと思っている。
実際、「まどマギ」を女性視点のみで見ると、仕事や趣味などに没頭している男性を見るときの「置いてけぼり感」を感じてしまう。
男女の価値観、世界観の違い。
男性と女性の違いについては、第3話でマミさんがさやかに言った言葉が非常にわかりやすい。
「彼に夢をかなえて欲しいの? それとも彼の夢をかなえた恩人になりたいの?」
これは非常に難しい問題だと思うし、そもそも前者をできる人はなかなかいないのでは、と思う。個人的には男性というのは究極的には前者が可能だと考えている。
「彼に夢をかなえて欲しい。(自分には何の見返りがなくとも)」
これができなかったさやかは非常に女性的なキャラクターであり、「相手のために自分がどれほど犠牲を払っているか、相手が知らなくてもいい。むしろ、それすら相手の負担になるならば知られたくない」という生き方を貫いているほむらは、男性的なキャラクターだ。
ほむらのまどかへの愛情は、男の究極的な愛し方だと思っている。
あえて言うなら、「自分に紐づいているから献身的に愛せる」のが女性であり、「自分が献身すると決めた対象に勝手に紐づくことができる」のが男性だと考えている。
女性の愛情を体現したさやかの残酷な末路ひとつを見ても、この物語は女性からの共感を排除している。
この辺りは、少女漫画で相手を助けるために奔走するループものという造形をとっている「orange」と比べると非常に分かりやすい。
「orange」は仲間がそんな自分に協力してくれ(ここも「もう誰にも頼らない」というほむらとの大きな違い。)未来が変わった暁にはちゃんと自分の想いが報われるようにできている。
「未来が変わった暁には」どころか、ループものでいうバッドルートでさえ、自分のことを愛する男性と結ばれるようにできている。
どの結末でも自分は報われるようにできており、しかもそのふたつの平行世界が平行して成り立つような整合性まで神(作者)がとってくれる。
主人公にとって「失敗」ということはありえず、罪悪感を持つことなくそれぞれの世界で報われるようになっている。
前に少女漫画の究極の目的は
「主人公がその中心に居座る、主人公にとっての都合のいい世界でありながら、誰にも悪く思われず、誰にも攻撃されず、誰にも罪悪感を抱くことのない世界」
こういう世界を作ることであり、それは女性にとっての望ましい自己実現がこういう世界構造だからだ、という記事を書いたことがある。(女性向けの漫画の中にも、こういう自己実現方法に対するアンチテーゼの作品もたくさんあります。その辺りは下記記事で語りましたので、興味のある方は読んでみてください。)
それを踏まえると、「まどマギ」がいかに女性の共感装置とかけ離れた物語であるかが分かる。
ほむらもまどかも杏子も、他者からの評価による自己実現を求めていない。他者から疎まれても忘れ去られても、自分の価値観や望みのみを軸にして行動している。
マミさん風に言うと「彼に夢をかなえて欲しい」人間だ。
主人公のまどかは、終始一貫して「他者からの評価ではなく、自分で自分をどう評価するか」にこだわる人間だ。
「きっとこれから先、ずっと誰かの役に立たないまま、迷惑ばかりかけていくのかなって。それがイヤでしょうがなかったんです」
「こんな自分でも誰かの役に立てるんだって。胸をはって生きていけたら、それが一番の夢だから」
「ずっと誰かの役に立たないまま、迷惑ばかりかけていく」というのは、物語内では何ひとつ描写されていない。周りの人間は誰一人、まどかのことを役立たずとは思っておらず、むしろみんなから愛されている。
にも拘わらず、まどか本人のみが「自分は役に立たず、迷惑ばかりかけている存在だ」と自分に評価を下している。この自己評価は他人からの評価(対応)で、覆ることはない。
その自己評価を撤回できるのは「魔法少女になって賞賛されること」ではなく、「魔法少女になって、誰かの役に立つこと(自分自身が自分をそう評価できること)」のみなのだ。
良きにつけ悪しきにつけ他者からの評価をまったく受け付けないまどかは、気弱で可愛い女の子に見えて、内面は非常に男性的なキャラクターだ。
「異性の価値観」の排除。
「まどマギ」を見て最も違和感を覚えたのは、恭介と仁美の描写だ。
劇場版は見ていないのであくまでテレビ版のみの情報で語るが、この二人は生きた人間とは感じられない。さやかを追い詰めて魔女化するための「物語装置」としての存在でしかないことが、余りに露骨だ。
仁美が恭介を好きだ、と言い出した描写はかなり唐突に思える。
前から好きなのであれば、なぜ入院している間にお見舞いに行かなかったのだろうか?と疑問を感じる。(これは「行っているかもしれない」という話ではなく、物語の構造上、仁美が「お見舞いに行っていた」という描写は、仁美というキャラを描く上では必須ではないか、という話。)
恭介が治る前から、さやかが恭介のことを好きなことは知っていたのだろうから、なぜ治ったタイミングで告白を決意し、さやかに宣戦布告したのかがよくわからない。
これが少女漫画の文脈ならば「恭介が治らなかったら、そんなことを言い出さないでしょう。仁美は性格が悪い」となり、そんな性格の悪い仁美が何ひとつ罰を受けずに、報われる物語というのは少女漫画ではありえない。
しかしまどマギでは文脈上、仁美はむしろフェアなキャラのように描かれている。(「告白するのを一日待つ」という行為は、相手の体勢を整っていない時点で、自分のペースで勝負を始めているので、むしろ策士だなあ、と思う。)
友達と争うくらい好きなら、なぜ入院していたときは何もしなかったんだろう??など色々矛盾を感じる。
唯一、辻褄が合う説明が「仁美はさやかを魔女化するための物語装置としてのキャラなので、その役割を果たすために動いているだけ」というものだ。
こういう存在を「物語装置として合理的に割り切れる点」も、「まどマギ」が男性的な話だなと思う点だ。少女漫画では、他人に対して理不尽な行為をした同性というのは、何らかの形で罰を受ける。
「いい行為には報いがあり、悪い行為は罰せられる」という他者評価がある(自分ではない誰かに評価される)ということは、少女漫画の世界観では必須なのだ。
なぜ、「少女」である必要があるのか?
ということで、自分は「まどマギ」は「魔法少女」というモチーフを用いていながら、男性的な世界観、それもその世界観を究極まで突き詰めた青年漫画の骨格からなる物語ではないかと思った。
①他者評価に依存しない、自己評価が全ての世界。
②無価値感、無力感を最も悪としている。(「自分は何の役にも立たない」「自分の手で何としてでも運命を変える」)
③女性的価値観への共感や救済の排除。(女性的キャラであるさやかの運命の残酷さや現世では報われないことなど)
そう思うと、割と「なるほど」と思って見れた。
ただもうひとつ疑問に感じたのは、なぜそれをわざわざ「魔法少女」というモチーフで描いたのかということだ。
完全にただの推測だけど、究極的な男の美学のような生き方を貫くまどかやほむら、それを貫こうとしている過程で表れるマミさんのような弱さを、男性キャラに背負わせてしまうのは、見ていて余りにキツイのではないかと思った。
「ベルセルク」で作者が、「キャスカは女性キャラというよりは、自分の弱い部分を表した存在」と言っていたように、男性が男性キャラに「弱さ」や「脆さ」を背負わせるというのは、抵抗があることなのかもしれない、と推測している。
そして今の時代だと、「強さ」を背負うのも抵抗があるのかもしれない。
確かに世界のために自分は誰からも忘れ去られた上位概念になったまどかや、たった一人の人を救うために数えきれないほどループを繰り返すほむらは格好いい。
しかし「これが真にカッコよく、理想的な姿なのだよ」と言われるとキツイものがある。ほむらの場合、シュダゲの岡部のようにその後、相手が自分の側にいてくれるわけでもないし。(報われない。)
「彼の夢をかなえた恩人になる」のではなく、「彼に夢をかなえて欲しい」と思い行動し続けるのは、それが真に格好いいことだとしても辛いことだと思う。
今の世の中で背負うのが難しい「男らしさ」を、「少女」に仮託する物語の構造に、最初は違和感を感じた。
ただそれは「男らしさ」自体は肯定的に描くこと、だからといって「男であれば男らしくなくてはならない」という押しつけや決めつけをしないこと、この二つを同時に描くためのひとつの方法だとしたら、とても画期的なものだなと思った。
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キャラでは杏子が一番好き……だけれど、見直したらマミさんに傾いた。
一話と三話のマミさんの変身シーンは、何度見たか分からない。
続きを書きました。
余談:「orange」も好きだ。
今回は比較対象としてあげましたが、「orange」もとても面白い。
「バッドルート」もそれなりに幸せなために、「真エンド」と整合性をとると須和がものすごく悲惨な扱いになると思っていたが、この辺りの着地のさせ方が見事だった。
キャラクターを「単なる物語装置として扱わない点」に、作者の愛情とやさしさを感じた。
須和が主人公。ええ話~~。