うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【ネタバレ感想】幾原邦彦監督 「さらざんまい」は「私」には関係のない話だった。

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幾原邦彦監督「さらざんまい」を全皿、観終わった。

とりあえず通しで見た感想をあんまりごちゃごちゃ考えず、さらっと、書く。

他の人の感想や考察、製作者のインタビューなどは例によって見ていない。あくまで自分が初見で内容を見ただけの、ただの感想だ。

 

最後まで観て、この話は「男が男のために描いた物語」ではと思った。

 

自分が「さらざんまい」がおそらくこういう話だろうと思ったのは、とある増田を読んだからだ。

俺たちは女に救われたいんだ。

ていうか男は怖いから女に救ってもらうしかない。

女叩きをしていた奴らも、男から冷遇されなかったわけじゃないはずだ。男同士の関係が築けていたなら、多分女なんてどうでもよくなる。

でも男に刃向かうのは怖いから、女を叩くしかないんだよ。

女叩いてる時間、そのコミュニティだけは同性の強い肉体を持つ仲間がいるんだ。

(引用元:はてな匿名ダイアリー「おっさんはおっさんが大嫌いだし弱い男はもっと嫌い」太字は引用者)

 

「自分が強者の側にいるために、自分より弱い誰かが必要」という言い分はだいぶ情けないし、女性が怒るのは尤もだ。

ただ「こういう自分」を認められるだけ、この増田はだいぶマシではと思う。

「さらざんまい」は、こういうある種の男が持つ「男の弱さ」の心理を承知したうえで作られているように感じた。

 

①「俺自身」と向き合わせるためには、「女」という「男よりも弱くなりうる(と男が感じる)他者」がいてはならない。

②「強さ」というのは相対的なものなので、「俺より弱い存在」がいるうちは、「強い俺」という像を手放すことができず、「俺の弱さ」を見ることも語ることも、ましてや認めることもできない。

 

「さらざんまい」は恐らくこの二つの直観に基づいて、「女性が排除されている話」として作られ、性差という対立軸を意図的になくしているのではないか、と思っている。

主人公三人は男だし、彼らが「つながりたい」と望む相手も全員男だ。敵のボスであるカワウソは概念(自分の思考が生み出したもの)だし、カワウソの手先になる真武と玲央も男だ。

主人公たちを河童にするけっぴも男だし、カパゾンビも全員元は男だ。

もちろんわき役としては、燕太の姉や祖母、一稀の育ての母親、実の母親、サラなどは出てくる。

しかし彼女たちは物語内では、ほとんど機能を持たない。燕太の姉は「燕太を撃ったのは警官たちだ」という一稀の言葉にまったく耳を貸さず、一稀の実の母親は一稀を円の外へ連れ出そうとして失敗する。

彼女たちは物語には、ほとんど働きかけていないし関与していないと言っていい。

 

自分は最初、この「女性キャラの排除のされ方」がかなり不満だった。いわゆる腐女子向けのアニメなのだろうと思っていた。

しかし見ているうちに、どんどん違和感が大きくなっていった。

一番違和感を覚えたのは、「やけに陳腐な描写が多いな」ということだ。

最もそれを感じたのは、カワウソが蘇った真武を生き続けさせる条件として「玲央のことは好きじゃない、と言え」と言い、真武のその言葉を聞いた玲央が傷つく描写だ。

 

正直、何だこりゃ、と思った。

こんな描写は少女漫画だといくらでも出てくる。恋愛ではないが、「君に届け」に似たようなシーンがある。(爽子が千鶴とあやねのことを聞かれて、「友達じゃない」と言うのを二人が偶然聞いて思い悩むエピソードがある。)

多くの女性向けの創作の中で何十回と見てきた描写だ。なんでこんなベタな描写……と困惑したが、ふと気づいた。

 

男向けならばどうだろう? 

少年漫画や青年漫画で、こういった描写はあるだろうか?

社会の中で疎外されたという描写ではなく、自分が大切なたった一人の誰かの言葉に深く傷つき、でもその傷を認めたくなくて直接問いただすこともできず、相手にひどい態度をとってしまったり、八つ当たりをしたり、そういう関係の描写が延々と続く、それがテーマとなる、そんな話があるだろうか。

 

「さらざんまい」はこの時の玲央と真武の描写に限らず、話の筋もエピソードもベタで、ありてい言えば「王道の当たり前のこと」を描いている。

描写は斬新でも、「大切な相手とのつながり」というごく当たり前のことが直球で描かれている。そのひねりのなさは、見ていて若干気恥ずかしくなるほどだ。

 

しかしそういう、置いていかれる寂しさや、一緒にいたいと思う願いや、誰かを失いたくないという切実な気持ちや、好きな人に拒絶されたら深く傷つくことがストレートに描かれていることを、「当たり前」「何十回も見たことがある」「王道」と思うのは、自分が女性向けの創作をたくさん見てきたからではないだろうか。

 

槇村さとるの漫画「イマジン」で、主人公の恋人の田中が自分自身の内面を語るシーンがある。

僕は自分の感情なんて大したことない、いくらでもコントロールできると思っていた。

感情なんていう女々しいものを表面に出すなんて男らしくないって。男らしさを懸命に演じて、鎧を着て生きていた。

有羽は…もしかしたら、こういう僕の弱い部分も込みでつきあいたかったんじゃないかって思った。(略)

こんな人間だなんて信じられなかった。苦しかった。

有羽と付き合わなかったら知ることがなかった、本当の自分にはじめて気付いたよ。

  (引用元:「イマジン」11巻 槇村さとる 集英社 太字は引用者)

 

田中は一見穏やかで優しい男に見えて、「男性性原理に支配され、抑圧されている男」として描かれている。

田中が「感情なんて大したことない」「いくらでもコントロールできる」「女々しいものを表面に出すなんて男らしくない」と抑圧してきたものこそ、「さらざんまい」で描かれているものではないだろうか。

「さらざんまい」では、置いていかれる寂しさを訴えるのも、気持ちが伝わらない辛さを伝えるのも、誰かを失いたくない一緒にいたいと願うのも、深く傷つくのもすべて男だ。そして訴えられるのも、伝えられるのも、願われるのも、傷つけることで自分もまた傷つくのもすべて男だ。

 

彼らは「自分と相手、どちらが強いか、優れているか」争うことはない。

真武と玲央は自分から見ても、いかにも女性に受けそうなキャラだ。しかし「女性がいない世界」では、彼らを観測するのもまた男だ。

つまり「俺」だ。

女がいない世界で、「女受けしそうな奴ら」「女にモテそうな奴ら」という評価は成り立たない。

「俺」が、彼らをどう思うかだ。「美形だ、カッコいい」と思うのか。それとも「キモイ奴ら」と思うのか。「あんなに思いあえて羨ましい」と思うのか。

「俺」しかいない世界で、「俺」が彼らを「キモイ」と思うのならば、カパゾンビになった人間たちよりも彼らこそ「キモイ」存在になる。

 

「女性を含む他者」が消えた世界では、「俺」の評価軸のみが残る。

「俺」が三人の主人公をどう思うのか。「俺」が真武と玲央をどう思うのか。「俺」がカパゾンビたちをどう思うのか。「俺」が「さらざんまい」に描かれている、彼らの「つながり」を切実に求める姿をどう思うのか。

「さらざんまい」の世界には、「俺」しかいない。

三人の主人公はかつてのあるいはこれからの「俺」であり、真武と玲央は誰か一人と真剣につながりたいと願うときの「俺」であり、カパゾンビは欲望に負けてしまった「俺」であり、カワウソは「俺」を惑わす「俺」なのだ。

だから「俺につながるもの」しか見ることができない。

「俺」がキモイと思うものは「キモイ俺」であり、「俺」が辛いと思うものが「俺の痛み」であり、「俺」が悲しいと思うことが「俺の辛さ」なのだ。

「さらざんまい」は、様々な「俺」を万華鏡のように見るように話が作られている。

何を感じるのか何も感じないのか、目をそらしたくなるのか、バカにしたくなるのか、感動するのか、訳がわからないのか、それはなぜなのか。

 

「さらざんまい」は、現代の社会に生きていると、どうしても感情を抑圧しがちな(特に女々しいと言われがちな感情)それを抑圧しなければ生きられない男のために、今は「キモくて弱いおっさん」になったと感じている上記の増田のような、これから「男」として生きることを強いられるかもしれない男子たちのために、男が作った物語だと自分は感じた。

 

そう感じた一番の理由は、終わり方だ。

今までさんざん抽象的な表現を多用してきた「さらざんまい」が、エンディングの悠の刑務所生活だけはやたらリアルに描いている。エンターテイメントとしての楽しさや受けだけを追求しているならば、こういう風に描く必要がない。

むしろ、今までの描写と余りにアンバランスで、見ているほうは戸惑いすら感じる。

これは「男の生きづらさ」で人生が行き詰まってしまっても、やり直すことができるというメッセージではないかと自分は感じた。

刑務所を出た悠を迎えにくる人は誰もおらず、悠は親戚が営んでいる蕎麦屋に入ることができない。

社会とのつながりが断たれてしまっても、家族との断絶があったとしても、他につながりを持てる人がいる。

リアルの世界で生きる男性たちと接続する(つながる)ために、他の場面と落差のあるリアルな描写を入れたのではと思っている。

 

「さらざんまい」はとても面白いアニメだった。

しかし女性視点でこの話を見ると、物語内ではどこにも自分の立ち位置のようなものが見つからない。せいぜい外側から眺めて、「三人とも健気でいいなあ」「けっぴ、かわいい」「カワウソもかわいいな、ウッソー」くらいの割としょうもない感想しか出てこない。(もちろん、そうではない人もいるだろうが)

 

この話はここまで生きてきた、これから生きていく男のために、男が願いを込めて作った物語だ、と感じた。

男が男の幸せを願った物語だ。

 

こんな話が出てくるのは、もっとずっと先だと思っていた。

でもこの先の時代では、「男が男とつながって、その幸せを願うなんて普通の話では」と言われるようになるかもしれない。

 

そう「私」も願う。さらっと。