*本記事には、性行為や性被害についての内容が含まれます。そういった話が苦手な方はご注意ください。
kindleやネットの漫画コンテンツで「ちさ×ポン」の一巻、二巻が無料試し読みの対象になっていたので、久しぶりに全5卷を購入して読んでみた。
この漫画は、読んだ人の感想がそうとう分かれると思う。
初めて読んだとき、そもそもどう受け取ればいいか、どういう角度で読めばいいか分からなかった。描いていることは、どれひとつをとっても正面から受け取るには重すぎる。
この漫画の恐ろしいところは、描いていることを一切受け取らず、「可愛い女の子のエロい姿をただ楽しむだけ」という読み方も簡単にできてしまうところだ。
ヒロインの千砂は文句なくエロくて可愛い。主人公のポンタは同性からも異性からもすんなり受け入れられそうなキャラクターだ。
二人のエロくてちぐはぐな恋愛漫画というだけでも、十分以上に面白い。
「ちさ×ポン」は「普通のエロい恋愛漫画」のような始まり方をしている。
主人公のポンタはごく普通の男子高校生で、童貞を捨てることで頭がいっぱいだ。
友達の紹介で、ちょっと抜けているが可愛い千砂と出会う。
男友達と海に行くのに制服、スク水でくる、顔は清楚で童顔、性格は天然なのに胸は大きい、というヒロインを見ただけで「あー、はいはい」と言いたくなる。
二人はめでたく付き合いだす。
いよいよ本格的にエロくなるのか、ニヤニヤと思いきや、ここから物語は不穏な方向に進み出す。
千砂と早く性的な関係になりたいポンタと、ポンタのことは好きだが深い関係になるのは怖い千砂の温度差。
最初の性交渉がまったくうまくいかず、そのことに「自分の身体はどこか欠陥があるのではないか」と傷つく千砂。
なぜ好きなのに上手くいかないのか、自分の自信のなさから千砂の弱みにつけこむように行為をエスカレートさせていくポンタ。
そんなポンタとの関係に嫌だと思いつつも、はっきりと断れない千砂。
キスがしたいから人気のない木陰に誘ったのに、「人気のないところに誘ったということは、性行為をして欲しいんだ」と勘違いするポンタ、それをはっきりと拒めないまま、涙を流してその行為を受け入れる千砂のシーンなど、もうそれだけでお腹いっぱいだ、やめてくれと言いたくなる。
それでも彼にしがみついていた。彼を許そうとしている自分に絶望しながら。
余りに重いシーンだが、こういうことはありがちなのではと推測する。
特に若い男女にありがちな、性への意識の違いや自信のなさからくるコミュニケーションの断絶、好き合っているはずなのに分かり合えない虚しさやそこからくる絶望感をここまで詳細に描かれるのはキツイ。
なぜ、ポンタと同じ年くらい、もしくはそれよりもやや上の年齢層をターゲットにしている青年漫画で、女性の性に対する意識の複雑さや苦しみをここまで丹念に描くのか。
こんなに重い内容をその年齢層の異性に理解してくれ、というのも期待しすぎではないかと思ってしまう。マトモに読み取ってもらえず、エロさだけに注目されれば、それは作品の中のポンタと千砂の関係をなぞることになり、虚しさや絶望をますます増幅させるだけではないか。
そんな不安をよそに、物語は坂道を転がり落ちるようにどんどん恐ろしい方向へ進んでいく。
ポンタへの不信感から千砂は悪い噂がある滝川の誘いにのり、レイプされてしまう。
その描写もここまでやるか、というくらい生々しい。
千砂は公園の水道で、淡々と友達のルミに事の経緯を説明しながら股間の出血をぬぐう。血をぬぐったハンカチを洗うシーンで、突然タガが外れたように必死でハンカチを洗い出す。
「ちさ×ポン」ではこの手の重い描写に、作者が演出でインパクトを与えることがほとんどない。
他の出来事と同じように淡々と描かれているので、読んでいるほうも気をつけていないと「それがどれほどの意味を持つか」ということをつい見落としてしまう。
千砂はレイプされたあと、何度も何度も風呂に入るようになる。ボディソープのボトルが一週間で空になってしまう。そして知らない男の誘うままにカラオケについていき、言われるがままに上着をまくりあげ胸を触らせる。
「きっ、気持ち悪! この人の手、アブラでベトベトだ!」
このシーンも、何故か若干コメディタッチになっている。
自分はボディソープの下りや、カラオケのシーンをまったく覚えていなかった。
しかしこれはちゃんと読めば、どう考えても恐ろしいシーンだ。どれほど千砂が深く傷ついたか、強く伝わってくるシーンだからだ。
千砂は恋人のポンタとは痛みで性交渉がまったくできなかったのに、レイプされたときは感じてしまったことに強い罪悪感を持ち、深く傷つく。
「自分はとてつもなく不純でふしだらな汚い女なんだ。感じたんだからあれはレイプじゃないんだ。そもそもデートに応じた自分が悪いんだ」
とまで考える。
女なら誰だって自分は清純だって思っていたいよ。それが美徳だと刷り込まれて育つんだから!
なのに現実はレイプされて感じる女だった。
千砂ちゃんの受けたショックがどれほどのものか、男のアンタに想像しろってのも無理だけれど。(略)
単に処女を奪われて傷ついているんじゃない。女性としての尊厳まで奪われているとしたら、その傷のほうが遥かに深いよ。
家庭教師の桃子は、「千砂はレイプされて感じるような女じゃない」とあくまで信じたがるポンタにそう突きつける。
桃子は高校時代、友達の彼氏とささやかな復讐心から寝てしまい、「公衆便所」と揶揄されるようになる。
確かに友達の彼氏とそういう関係になった桃子は間違っており、ルール違反を犯した。(そのことは後で、ちゃんと他の友人によって諭される。)
しかし「性的に奔放である女性」に対する、周りの人間の蔑み、貶め方、そしてそういう女性の尊厳を傷つけることに対しての抵抗感のなさというのは、見ていて恐ろしいほどだ。
その友達の彼氏も同罪であろうに、彼が仮に咎められることはあっても(漫画ではその描写すらなかったが)「便所」と人間の尊厳を傷つける言葉で罵られることはない。
桃子はそのあと、そのことをネタに脅され、アルバイト先の先輩に性行為を強要されるようになる。
桃子は「やらなければならないなら、その行為を楽しまなくては損」と考える。
そして恋人に自分が学校で「誰とでも寝る女」呼ばわりされていることを打ち明けるよりは、相手の脅しに屈して身体を差し出した自分を、「こいつ(脅した相手)と似合いの汚い女だ」と責める。
桃子も割りきるまでは、「性的に奔放であること=脅迫と同じくらい汚いこと」と考えている。
番外編である「そんな桃子の青い春」は、「ちさ×ポン」本編と構図がかぶっており、語られていることは同じくらい重い。
「女は清純であることが美徳だ」という風潮の中で、女性は自分の性的欲求や欲望とどう向き合えばいいのか。
男性は恋愛と性欲は別と割り切れるのに、なぜ女性は割り切れないのか、割り切ることを許されないのか。許されないとは、誰が許さないのか。
それは「千砂ちゃんは、レイプされて感じるような女じゃない」という、決して悪意ではないポンタの考えの中にも潜んでいるのではないか。
感じようが感じまいが、レイプはレイプだ。なぜ、そう言えないのか。
そういう風にどんどん思考が、自分が今までさほど感じていなかった性的なことに対する疑問につながっていく。
自分自身の性との向き合いかた、自分とは感覚が違う異性との向き合いかた、そして自分とは違う感覚を持つ同性との向き合いかたまで問われてくる。
普通の高校生のエロい恋愛漫画を楽しんでいただけのはずが、いつの間にかとんでもない深みに連れ込まれている。
加害者である滝川をできうる限り傷つけようとして、千砂は考え得る限り最も残酷な言葉を吐く。
これも「それをヒロインに言わせるか」と、目まいを起こしそうな言葉だ。
そしてその後の千砂の「何でも言うことを聞くというなら、今すぐここから飛び降りて死んでくれ」という言葉を聞いて、何のためらいもなく滝川は死のうとする。
本当に飛び降りた滝川を助けようとする千砂とポンタの描写も、かなりコメディタッチだ。
パンツ丸出しで半べそをかきながら「ポンタくん…助けてえ」という千砂がめちゃ可愛い。それまでの重い描写とかなりギャップのある描写だ。
余りにシームレスに話が続いているので、気にとめていないとコメディ描写も重い描写も同じように読み流してしまう。
そもそも滝川は小六のときから継母と性的関係を持っている、法律的には「性的虐待の被害者」という背景がある。
滝川が継母を本当に慕っていたのか、慕っていたとしても彼も同じように「自分の尊厳を傷つけられた」と感じていたのか、だからどこか壊れて女性をモノのように扱うようになったのか。
この辺りの滝川の話も掘り下げられることはない。
こういう重い話が背景としてポンポン出てくるが、読者が立ち止まって考えない限りは、それが背景以上の意味を持つことはない。
滝川はこの後は、物語的に狂言回しや道化のようなキャラとして使われることが多くなる。その構成も余り考えなければ笑いながら読んでいられるけれど、よくよく考えるとどこか怖い。
愛する彼女がレイプされ、抵抗できず感じたことに「あれはレイプではなかった」と言うほど罪悪感を抱き、深く傷ついているときに、自分はどうすればいいのか。
ポンタは必死に考え、千砂を支えるでも救うでも寄り添うでもなく、ただ傷ついた彼女を愛することに全力を尽くす。
どれほど愛していたとしても、高校生にこれをやれ、というのはかなり酷だし無理だろう。
高校生どころか大人でさえ難しい。
相手を愛すれば愛するほど、相手の傷の深さを目の当たりすれば感情的になって自分や誰かを責めてしまったり、何かをせずにいられなくなる。
現実では千砂のような立場になった女性が、こんな風に短期間で立ち直るのは難しいように思う。立ち直ったように見えても、心の奥深いところは傷ついたままで、それが様々な形で現れる、ということも多いのではないか。
専門家に任せつつ、自分は側で見守り続けるしかない。しかし「ただ見守る」「ただ愛する」ということが大人でも出来るかどうか。
家族であれば何年でも回復を待ち続けることができるかもしれないが、高校生がそれを愛ゆえにしてくれるというのは、超美形の大金持ちの俺様男子が平凡なヒロインと恋に落ちる、などという話以上に夢物語に聞こえる。
そういう意味では、ポンタは一見平凡なただの高校生に見えて「少女漫画の王子様キャラ」以上に夢のような存在だ。色々と過ちも犯すけれど、それでもあきらめずに千砂を愛し続けるポンタは、現実離れした強さとカッコよさを持っている。
誰かを好きなことが愛なのか、その人に何かをしてあげることが愛なのか、その人の立場になって怒ったり喜んだりすることが愛なのか。
自分がその人を好きなのはわかる。自分のこの気持ちは愛なのかもしれない。でも「愛する気持ち」から出てくる「愛するという行為」は、どういう行為なんだろう?
「ちさ×ポン」は最終的には、そこに行きつく。
男性や女性、大人や高校生、恋愛やそうではない愛情ということを関係なしに、「自分の大切な人をどう愛すればいいのだろう?」「人を本当に愛するとはどういうことなんだろう?」という話なのだ。
「ちさ×ポン」は「誰かを愛する」という重みから逃げずに、この物語なりの答えを出している。
その答えを目の当たりにして、「一体、自分はどうなのか?」ということまで、今までの過去のことまで振り返って考えさせられる。
そういうところに引きずり込まれる、恐ろしいほどの重さをもっている。
「ちさ×ポン」は、とても重いことを含んでいながら、そのことに対する押しつけがましさがない稀有な漫画だ。
とてつもなく重いことを語りながら「それを受け取ってもらわなくてもOK」「ただの恋愛漫画、エロ漫画として楽しんでもらってもOK」という、作者のある種のおおらかさを感じる。
そういう作者の読み手への愛を感じるから、重く深い内容でも安心して読める。
そんな中で自分とは違う異性の気持ちや、自分とは感覚が違う人の気持ちを少しだけ考えたくなってくる、そこがこの漫画の一番すごいところかもしれない。
ここまで書いておいてなんだけれど、作品としては「ヘタコイ」のほうがずっと好きだ。「ちさ×ポン」のほうがすごい漫画だとは思うんだけれど、ただ楽しむにはちょっと重すぎる。読むのに気合がいる。
余談:同じテーマなら吉田秋生「ラヴァーズ・キス」もおススメ。
個人的に「ちさ×ポン」と同じテーマが語られているのでは、と思うのは吉田秋生の「ラヴァーズ・キス」の里伽子編だ。
「ラヴァーズ・キス」の主人公の一人である里伽子は、子供のときに先生から性的な悪戯をされていて、そのことが深い傷になって男と遊び歩くようになる。
「女性としての尊厳を傷つけられて、その尊厳を自ら貶めるような行為に走る」というのは、千砂と同じ構図だ。
「言うことを聞かないと嫌いになっちゃうよ、と言われたから。私、先生に嫌われたくなかった」
という里伽子は、ポンタの性行為を拒めず泣きながら受け入れた千砂に重なる。
「ちさ×ポン」では千砂を愛するためにポンタはかなり試行錯誤するが、「ラヴァーズ・キス」では里伽子の傷を、同じ傷を持っているがゆえに藤井がすぐに悟る。
里伽子は自分と同じように「性的に悪い噂がある」藤井と、「むしゃくしゃしていたから」付き合おうと誘い寝る。里伽子のその行為に対して、藤井は「男だってモノ扱いされれば気分が悪い」と言って切れる。
結果の重大さに落差があるけれど、里伽子が藤井にやったことと、滝川が千砂にやったことは根っこのところで同じだと思う。自分を貶めるために、他の誰かを傷つけ自分と同じ地点に引きずり落とそうとする。相手を自分を貶めるための道具にしている。
藤井は実の母親から関係を迫られ続け、追いつめられて家から逃げ出している。この辺りは「ちさ×ポン」の滝川と継母の関係にかぶる。
滝川は、話のニュアンスから関係を持った当初は継母と愛し合っていたように描かれているけれど、「無防備な状態で心に深い傷を負わされた」という意味では千砂や里伽子、藤井と同じだ。
「ちさ×ポン」は性描写が多すぎてキツイ、という人で、「ラヴァーズ・キス」を読んでいない人がいればおススメしたい。名作です。