うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

映画「容疑者Xの献身」を通算五回は観ている人間の、超個人的物語解釈&泣きポイント。

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※本記事には映画「容疑者Xの献身」のネタバレがあります。ご注意下さい。

 

 

映画「容疑者Xの献身」*1を見るのは、通算五回目くらいだ。

この話の個人的な解釈を以前noteに書いたが、今回観て少し考えが変わった部分もあるのでもう一度考えを整理して書きたい。

 

映画「容疑者Xの献身」は、石神の信仰と殉教の物語。

原作「容疑者Xの献身」は、湯川と石神という二人の天才の才能がぶつかり合う、湯川が主人公のミステリーである。

映画「容疑者Xの献身」は、同じ筋だが描いていることはまったく違う。映画は石神を主人公とした信仰と殉教の物語である。

石神がルサンチマンに陥らなかったのは、元々の性格もあるだろうが、靖子という神に出会い信仰に目覚め救われたからだ。

石神が靖子に抱いた、自分も他人も犠牲にしその犠牲を全て自分が被るような献身的な恋(信仰)は、深い絶望からしか生まれない。

「容疑者Xの献身」がストーリーとして何の救いもなく(そして石神が無実の人間を殺した、という非があるにも関わらず)どうしようもなく美しいのは、石神の信仰のすさまじさによって彼がどれほど孤独だったかがわかるからだ。

 

「容疑者Xの献身」は、石神という巨大な才能を持ちながら誰にも理解されずに死んでいく、一人の人間の祈りの物語なのだ。

 

この話の中で、唯一引っかかるのは、石神が何の罪もないホームレスを殺害したところだ。

物語内でも湯川がこのことを厳しく非難するが、湯川の言葉は石神に響いている様子がない。湯川の石神に対する糾弾は、物語上まったく力を持っておらず機能していない。

今までは「この部分の非を指摘しておかないと主人公としての湯川のキャラが立たないし、視聴者から突っ込みが入ると思ったのだろう」と思っていた。

だが、今回見直して考えが変わった。

 

湯川は石神がホームレスを殺害した理由は、(トリックのため以外に)「本当の殺人者になることで、心が折れて真実を話してしまう危険を防ぐためだ」と指摘する。

重要なのは「なぜ、ホームレスを殺すと石神は『富樫を殺したのは自分ではない』という真実を話せなくなるか」だ。

現実的な文脈だけで見ると、湯川が指摘した通り「自分が殺人者になれば、殺人者ではないのに『殺人を犯した』という嘘をつく負担がなくなるから」という理由しか思いつかない。

しかし石神の人物像を見ると、この理由は納得しづらい。

湯川が持ってきた問題を六時間で解いたように、石神は「殺人者の汚名を被る」ということであっても、自分が決意したことに対しては心が挫ける人間ではないからだ。

ではなぜ、ホームレスを殺すと石神が真実を話す可能性がゼロになるのか。

 

石神が殺したホームレスは、石神自身である。

ホームレスは石神と同じ、社会から忘れられ見捨てられた存在だ。ある日、殺されいなくなっても誰も気づかない。

石神はホームレスを「彼らは時計の歯車のように正確だ」と言う。

ホームレスが「時計の歯車のように決まりきった動きをしている」と分かるのは、石神も「彼らと同じような時間に正確な(変わりばえのしない)生活を送っている」からだ。

 

この物語独自の文脈*2で見た時、

①社会から見捨てられ、ある日いなくなっても誰にも気づかれない存在

②時計の歯車のような生活をしている

この二つの要素によって、ホームレスと石神の存在は重なる。

石神は靖子と美里を救うために、自分自身を殺したのだ。

 

物語の最後で内海が「石神は花岡靖子によって生かされていた」と指摘した通り、石神は自ら命を断とうとしている時に、靖子(と美里)という神に出会い救われた。

そして自らが信じる神を救うために、自分自身を犠牲として殺したのだ。

「ホームレスという自分自身」を殺したことによって、石神は死んだ。だからどれほど追い詰められても真実を話すことはない。

 

この物語が成り立つのは、花岡靖子が「普通の女性」だから。

映画「容疑者Xの献身」が「殉教の物語」として成立するためには、以下の二つの要素が必要だと思う。

①石神は普通にしていても、不審な人物とみられやすい。(人から忌避されやすい)

②靖子は「聖なる被害者」*3ではなく、普通の女性である。

 

靖子は殺害の隠蔽を、顔馴染の隣り近所であるというだけの石神に何もかも任せる。いくら追い詰められた状況とはいえ、他人に殺人の後始末を任せる、しかも嘘をつき通すために、何も知らされないままでいる。

石神本人が言い出したことではあるものの、余りに他人を都合よく扱いすぎだ。

また仮に靖子が後に疑った通り、「石神が富樫に代わるだけ」の存在だった場合(普通に考えれば、この可能性が圧倒的に高い)どうするつもりだったのか。

富樫のことでさんざん苦労したにも関わらず、その富樫を殺してしまっていくらも経たないうちに風間のアプローチを受け入れている。親子仲がいい美里ですら、冷たい視線を向けている。

石神の真意にはまったく気づかず、ストーカーだと本気で信じて「石神が富樫に代わるだけ」と二人を同列に並べる。

石神が靖子に尽くしているにも関わらず、靖子がまったくなびかず、むしろ気持ち悪いとすら思っているところを見ても、石神は女性にとってとことん魅力がない男だと分かる。

 

もし靖子が石神の本質や才能を見抜き、その献身に報いるような女性だったら、「容疑者Xの献身」は自分にとって興味がわかない話だったろう。

何故なら、靖子が石神のことを理解できる女性だったら、この話はただの恋愛話だからだ。

靖子は石神のことがまったく理解できない。その本質も、真意も、本当の考えも、自分に向けられた気持ちも。

理解出来ないから、靖子は石神にとって神なのだ。

「罪悪感など抱かなくていい。何故なら、自分は自分の信仰のためにすべてを犠牲にして、既に死んでいるのだから」

靖子はこんなクッソ重い感情を受け取ることも出来ない。狡いところも弱いところもある、心優しい普通の女性だからだ。

ちょっと弱くてちょっと打算的。そんな普通の人間が普通に生きているだけで、人を救うことがある。そういう話なのだ。

 

泣きポイント

上記のように、この話を解釈している自分のこの話の泣きポイント。

だいたい後半はずっと泣いている。

五段階評価。★が一点で☆は0.5点。

 

「山小屋」のシーン。泣き度:☆

湯川「君が友達だからだ」

石神「僕に友達はいない」

初見では石神の決意と今後の二人の対峙を表すように見えた。

二度目の視聴以降は、後の二人の出会いのシーンにつながっていることがわかる。

石神がどういう気持ちでこう言ったかがわかるので、涙腺が緩む。

 

石神と靖子の電話での最後の会話。泣き度:★

「最後の通話になります」→「いしが……」→電話切れる。

石神の思いの強さ、それが靖子にまったく伝わらないことでの二人の温度差、そしてその温度差を望んでいる石神の気持ちを思ってもらい泣き。

電話を切ったあとの石神の表情がまた……。

 

研究室での湯川と内海の会話。泣き度:★★★

「驚いたよ。石神は外見を気にするような人間じゃなかった。それで僕は気づいた。彼は恋をしているのだと」

本作で一番好きなシーン。

石神に「君はいつも若々しくて羨ましい」と言われたことにあの湯川が驚き、驚いた瞬間に「石神は恋をしている」とわかる。

湯川は本当に石神のことを理解している。

 

石神の取り調べのシーン。泣き度:★☆

一から十まで嘘をついているのに、「いかにもそれらしい」不審者に見えてしまう。

「石神は普通にしていると、どこか不審な、薄気味悪い(キモイ)人間に見えてしまう」

このことは、ストーリーの中で繰り返し明示される。

堤慎一は演技でこれを見せているところが凄いが、やはりちょっと格好良すぎるというのが個人的な意見だ。

何はともあれ、石神のこれまでの人生の苦難と諦念を感じる。

 

拘置所の中で四色問題の解答を見る→湯川と石神による過去のシーン。泣き度:計測不能。

何度みても必ず泣く。色が天井に広がり始めた瞬間に既に泣いている。今も思い出し泣きしそうになっている。

石神は湯川とだけは、「四色問題の美しい解答」がどれほど尊いか、という感覚を共有出来た。このシーンで二人が交互に回想するのはそのためだ。「四色問題の美しい解答」が、石神と湯川の関係性では友情の暗喩になっている。

ではなぜ、石神は山小屋のシーンで「僕には友達はいない」と言ったのか。

石神の中で「四色問題の美しい解答」は、湯川との友情ではなく靖子と美里の幸福に切り替わったためだ。

「石神は友情よりも恋心を取った」のではない。

石神が捨てたのは全てだ。

石神は自分がこれまでの人生で最も美しいと思い、追い求めてきた「四色問題の美しい解答」を捨てたのだ。

そして捨てた瞬間に、「靖子と美里の未来と幸福」という「四色問題の美しい解答」が見えた。

自分がこれまでの人生で素晴らしい美しいと思うものを全て捨てた瞬間に、この世で最も美しく尊いと思ったものを可視化するという奇跡が石神に与えられた。

人生で石神にとっての「四色問題の美しい解答」が見られる人間が、どれほどいるだろう。

天井に広がった四色を見ている石神の恍惚とした表情もさもありなんである。

 

石神と湯川の最後の対峙のシーン。泣き度:☆

湯川「何故その才能をこんなことにしか使えなかったのか」

石神「そんなことを言ってくれるのは君だけだよ」

ここの石神の答えは余り好みではないが、前後が泣きシーンしかないので引き続き泣いている。

 

石神の靖子への手紙→靖子と美里との交流を回想。泣き度:個別表示

石神が自殺を決意したタイミングで、靖子と美里が訪ねてくるところ。(★)

石神がチラシを片手に弁当屋に入るかどうか悩むところ。石神を見つけて嬉しそうな靖子を見て、石神が照れるところ。(★★)

美里が石神を見つけて手を振るところ。(★★★★)

部屋で楽しそうにゲームをする靖子と美里の様子に石神が耳を澄ますところ。(★★★★★)

特に美里が石神に手を振るシーンは、心にくる。

このシーンで、石神は美里にほとんど反応していない。一般的な大人であれば、「お帰り、気を付けて」と言い笑顔で手を振るなどしそうだが、石神はひと言も喋らず、逃げるように背中を向ける。

そのため美里の友達は、石神のことを若干不審がっている。

石神は外見、言動から、ごく一部の人間を除いて非常に胡散臭く見える人物だということがここでも描かれている。

 

ラスト「靖子が石神に会いに来て、石神が支離滅裂になって号泣するところ」泣き度:(★★★☆)

湯川が認めるほどの才能を持ち、無表情で「論理的思考が」と言っていた石神が、ストーカーしていた設定の靖子に、「何の話だ」というほど混乱してしまうところに感動。

これは石神にとって絶望であると同時に、信じられない奇跡なのだ。

感動のもらい泣きが止まらない。

 

エンディング 美里が富樫を殴った壊れた置物が発見される。泣き度:★★☆

石神の献身と信仰の象徴。壊れて泥だらけになったが美しい。

 

毎度毎度こんな感じで、特に石神が自首する辺りからはずっと泣いている。

石神の献身(祈り)は、まったく実らなかったことを以て報われたのだ。

 

 

自分から見ると、おばみつは「容疑者Xの献身」とまったく同じ話だ。そう言えば甘露寺さんも「普通の女の子」*4だ。

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*1:原作既読。映画は原作の筋を借りて別のテーマを扱っていると思っている。後述

*2:物語内の現実の文脈とは別物

*3:造語。視聴者から見て無謬の存在であり、なおかつ加害者に抵抗できない無力な被害者のこと。女性を「聖なる被害者」にする物語は、それだけで自分の中で評価が下がる。理由はnoteに載せた「禁断の魔術」の感想に書いたので、良かったら読んでもらえると嬉しい。

*4:靖子とはまったく別の意味で、甘露寺さんは伊黒のことを理解できないと思う。そこがいい。