うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦」は、他人と読書をする楽しさを教えてくれる。

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本書は、世界の各地を旅行しているノンフィクション作家の高野秀行と歴史学者の清水克行が、お題の本を読んでお互いに感想を言い合う対談だ。

題名に惹かれて読んでみた。

 

本を読むことが好きな人なら、誰でも夢中になる本だと思う。

お題となる本は読んだことがない本ばかりだったが、普通ならば恐らく自分が興味が持たないであろう本も、すぐに読んで話に参加したくなる。(と言っても、この二人は専門分野はもちろん、他の分野の知識もすごいので、結局は話を聞くだけになってしまうだろうけれど。)

 

この本は本を読むことが好きな人ならば、恐らく一度は見る「自分が好きな本を、他の人はどのように読んでいて、どういう風に咀嚼して、どのように吸収して、吸収したものを既存の知識の中でどう体系立てて、どうアウトプットするのだろう」という夢をかなえてくれる本だ。

 

ネットが普及したことでだいぶ他の人の感想が読みやすくなり、それだけでもネット普及以前よりは恵まれた環境になったと思う。

ただネットがあっても、「ある分野に関して深い知識を持っていて」「その知識を土台にした視点を確立していて」「コチラが好きな本について、長々と語ってくれ」「自分がこう思う、ここが疑問だ、と言うことについて独自の物の見方で反応してくれる」「その反応について、さらに自分の物の見方が広がる」というのは、なかなか難しい。

同じくらいの知識量でなければ、相手にただ一方的に話してもらうだけになってしまう。聞くほうは聞くだけでも楽しいが、例えば大学教授のように研究し話すことが職業だと、「専門分野について自分が話すだけでは、いつもやっていることと同じだな」という気持ちにさせてしまうだろう。

同じジャンルであれば自分と同じくらいの知識を持つ人も見つけやすいかもしれないが、それでは恐らく普段やっていることと同じになってしまう。

 

別ジャンルについて知識の深さは同じレベル、しかも他のジャンルについても(特に相手の専門について)ある程度素養がある二人が話すと、こんな風に化学変化のような面白い対談になるのか。

話す内容自体はお互いにある程度決めているのだろうが、それでもリアルタイムで話すと「想定していないことが出てきた」という臨場感が感じられて、それもまた読み手の興奮を高める。

著者のうちどちらか一人の話をじっくり聞くだけでも相当面白いだろうに、二人の対談を聞くとその面白さが二倍どころか十倍、二十倍になる。楽しすぎる。

 

またお題となる本も、面白そうな本ばかりだ。

「文明の空白地帯」と呼ばれる場所に住み、国家を持たない人々「ゾミア」。

14世紀に約30年かけてイスラム教圏を旅したイブン・バットゥータの大著「大旅行記」。

源義経をヒーローではなく、現代の無法者の感覚で描いた「ギケイキ 千年の流転」。

「将門記」は、この本を読む前はそれほど興味が持てなかったけれど、対談を読んだら自分が持っていた平将門のイメージが変わった。特になぜ、歴史上将門だけが天皇位を僭称したか、という話は面白かった。

 

お題の中で一番面白そうだと思ったのは、ブラジルのアマゾンの奥地に住む「あらゆる概念を持たず、直接体験しか信じない部族・ピダハン」に布教を試みた言語人類学者の挫折を描いた「ピダハン」。これは読んでみたい。

 

(清水) 僕がこの本を読んで面白いな、と思ったのは、輸送の話なんです。(略)ある標高以上の場所になると、人が背負子で運ぶしかない。だから、そういうところまでは権力が及びにくいというのは非常に説得力がある話ですよね。(略)

(高野) ミャンマー領内の西南シルクロードを旅したとき(略)地元の人に荷物を運んでもらうわけですよ。ところが、人が一人増えたり、行程が一日延びたりすると、必要な労働力がとんでもなく膨らんでいくんです。(略)

(清水) まして軍隊の移動はもっと大変ですよね。(略)

(高野) ゾミアの山間部では雨季になると、道がぐちゃぐちゃになって、車ではどうにもならないし。

(清水) ぬかるんだ轍に、車輪がはまりますからね。(略)日本には、お祭りのときに神輿を出す地域と山車を出す地域があって、基本的に神輿を出すのは山間部の農村で、山車を出すのは平野部の都会なんだと教わったことがあります。

 (引用元:「辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦」 高野秀行/清水克行 集英社/太字引用者)

「ゾミア」についての対談の一節だ。

ゾミアはなぜ、権力が及ばず、自分たちでも権力機構を作らない地域になったのかという話が、「日本ではなぜ、山車を出す地域と神輿を出す地域があるのか」という話とつながっている。

こういう話がぱっと出てくるところが、他人と読書をする醍醐味だ。

さらに言うと「そういえばあれもこうだったのは、こういう意味があったのか」と突然、話をしていて意味を発見したりすると、興奮が最高潮に達する。

このブログでも何回か他の人からいただいた感想で、「そうか、あの時のこれはこういう意味があったのか」と気づいたことがある。

そういう化学変化が、他人と読書をするときの一番の楽しさだ。

 

また著者二人の自分の知識に対する矜持が「絶対に相手をがっかりさせまい」というほのかな緊張感になっており、それが一見楽しく話しているだけのように見える対談の中心軸のようになっていて話がぐだったりすることを防いでいる。

後書きで高野秀行が「楽しかったけれど、大変だった」と書いているけれど、そうだろうなと思う。相手も読み手も満足させるレベルの対談をするとなると、周辺知識まで調べなければならないし、一回の対談に挑むまでの労力は膨大なものだろう。

 

第一弾は本についての対談ではなく、辺境と室町時代の比較なのだろうか。コチラも面白そうなので読んでみたい。

 

滅茶苦茶面白そう。