TVアニメ「 宇宙よりも遠い場所 」オープニングテーマ「 The Girls Are Alright! 」
- アーティスト: saya
- 出版社/メーカー: メディアファクトリー
- 発売日: 2018/02/21
- メディア: CD
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「宇宙よりも遠い場所」全13話を見終わって、アホみたいに泣いている。
南極に行った辺りからは、飛ばしていたオープニングテーマを必ず聴くようになり、歌っているうちに泣きそうになる。何だこりゃ。
この作品は海外でも評価されているようだが、その理由がよくわかる。
同時並行で、角幡唯介の「アグルーカの行方」という1845年に全滅したフランクリン隊の足跡をたどる北極探検記を読んでいる。(面白い)
北極と南極、随行人数や装備、規模や目的の違いはあるものの、比べると「宇宙よりも遠い場所」の南極観測の描写はまるで遠足にでも行っているみたいでリアリティがない。
「宇宙よりも遠い場所」は、物語の外枠だけを見れば子供だましとすら思える。
「南極」という場所はともかく、鬱屈を抱えた中高校生が自分の知らない世界に飛び出す、という話自体はテンプレ化している。
その理由も、報瀬のような親の影を求めて、キマリのように変わらない生活から抜け出せない自分が嫌だった、日向や結月のように友人関係に悩んでいる、など過去に何千回と語られてきたありきたりなものだ。しかもその理由が余り深堀りされておらず、それぞれの抱える悩みや葛藤は、ひとつのエピソードですっきりするような作りになっている。
今まで幾千万もあった物語の骨格だけを取り出して、上っ面だけをなぞっているだけのようにすら見えかねない。
しかしそれにも関わらず、自分はこの話に圧倒的なリアリティを感じた。
実際に起こる物事にではない。
自分も南極に行って「ざまあみろ」と叫んだ。(叫んでいない)
友達誓約書を作った。(作っていない)
「絶交しにきた」と言った。(言っていない)
「私の大事な友達を傷つけたのだから、それくらいは当然だ」と言った。(言っていない)
日向の陸上部の同級生になったこともある。(運動部には入ったことがない。)
でも叫んだし、作ったし、言ったし、誰かの同級生になったこともある。
自分がこの話を最初に引き込まれたのは、2話でキマリが歌舞伎町を笑いながら走るシーンだ。
「動いている。私の青春、動いている気がする」
「思い出した」とか「懐かしい」とかそんな気持ちではない。
一瞬でその「動いている」と思った、あの時の感覚になった。
歌舞伎町を笑いながら走って、「動いている」と叫んだときに戻った。(叫んでいない)
自分は南極に行ったことがある。
いま、自分がいるこの場所が南極だ。
キマリたちの年齢から、ずっと歩いてここまでやってきた。
これは、どこかよく分からないけれどどこかに行きたかった自分が、ここまで歩いてきた道筋をたどった物語だ。
そういう風に感覚が接続してしまうと、あとはもう何を見ても笑う。そして泣く。笑いながら泣く。泣きながら笑う。
荒れた海を見たくて船外に出る。四人で塩水をかぶって笑う。
絶対また来ようね、と約束する。
約束したから、途中で別れて自分の道を歩き出す。
誰かに出した千通もの自分の言葉が届いたことを確認する。
どこかよく分からないけれどどこかに行きたいと願ったこと、すさまじい勢いで走り出したこと。
「その時の自分の先に、今いる自分がいるのだ」ということを一瞬で体感し、その感覚がこの話の1シーン1シーンに接続して、何でもないことでも感動して笑ったり泣いたりしてしまう。
実際の人生は、こんな風に綺麗に物事は片付かない。
一緒に塩水をかぶった仲間は、今はどこにいるのかもわからない。
「絶対またこの四人で来よう」という約束を、いつの間にかいくつもいくつも忘れている。忘れていたことすら忘れている。
途中で別れた友達は、そのまま会うことすらなくなった。
自分が発した言葉の大半は、どこに届いたのか届かなかったのかすら分からない。自分が受け取った言葉は、誰が発したのかすら分からない。
いまこの瞬間に立っている場所が、あのころ夢見た南極なのかどうかわからない。
「宇宙よりも遠い場所」は、俯瞰して見るとまったく面白くない。
冷静な気持ちで見ると、この世代に考えがち、遭遇しがちなことを綺麗ごとでまとめている、まあ可愛い女の子が頑張っている姿を見るだけでいいか。くらいの気持ちになる。
しかしゼロ距離で見ると、それは「ありがちなこと」ではなくなる。誰のものでもない自分だけが経験してきたことに対する、自分だけの感覚を再現するからだ。
「感覚の再現」は、感情移入とは違う。
「キマリの気持ちが分かる」でなく、「このキマリはあの時の自分だ」という感覚になる。キマリの高揚感や走っている感覚や、笑いたくなる気持ちや世界をぶち破れるような感覚を、そのまま自分が味わう。かつて自分が味わい、今はもう忘れてしまっているその感覚が、このアニメを見ることで繰り返し再現される。
ひとつひとつのエピソードはそれほど深く詳しくは彫られていないし、めぐっちゃん以外の主要登場人物はほとんど陰影を持っておらず、いい人ばかりだ。
そういう細部のリアリティがなさも、「登場人物たちの物語」ではなく自分の物語として体感しやすくしている。現実では決して見ることが叶わない、自分が体感した感覚の意味を知ること(真偽はどうあれ)ができる。
その意味は、もはや自分以外の誰にも意味もなさない。
だが物語内で吟が言った通り、「その意味が事実かどうか」よりも、「それがそうだと自分自身が信じ思い込むこと」が大切なのだ。事実かどうかなどということはもはや現実には何の影響も与えないものだからこそ、それは「自分のみの意味」「自分のみの物語」になる。
現実で「本当にここは、あの頃の自分が行きたかった南極なのか」と思う今を、「自分は歩いて、この宇宙よりも遠い場所にやってきたのだ」と体感させる力がこの話にはある。
「宇宙よりも遠い場所」は、この「感覚の再現」のアクセスポイントの広大さが最も驚異的な部分だと思うが、それでも中には接続しない人もいると思う。そういう人にとっては、このアニメは平凡で退屈だろう。
自分はこの話に対するいくつかの感覚のアクセスポイントを持っていたが、中でも前述した2話のシーンはピンポイントだった。
そのころの自分がこのアニメを観たら「いかにも大人が作りそうな話だ」と思っていただろう。リアルタイムで似たような問題に向き合っているときには、この話は現実を凌駕しないし、むしろ馬鹿にしていたと思う。
しかしそのバカにするほど現実に向き合っていた自分のことも、このアニメは懐かしく思い出させてくれる。頑張っていたよなあ、と自分だけは自分にそう思う。
かつてどこに行きたいのか分からず、それでもどこかに行きたくて、がむしゃらに無茶苦茶をやりながら「ここ」に辿りついた人間に、「そこがあの頃のあなたが夢見た南極だよ」と言ってくれる。
北極でキマリと同じようにオーロラを見るめぐっちゃんを見て、南極に今いる自分は、北極にいる人のことを思う。
キマリとめぐっちゃんとは違いもう二度と会うことはないだろうけれど、同じようにオーロラを見ているのだと信じることができる。
そういう物語だ。
他の誰でもない「私に」そう言い、そう思わせる物語はヤバい。だからオープニングを聴くだけで泣く。
五話のめぐっちゃんとキマリの絶交について。
記事中では「比べると『宇宙よりも遠い場所』にはリアリティがない(というより、意識的に省いたのでは)」と感じたが、最後まで読むと「なぜ極地に行くのか」という点では圧倒的なリアリティがあったことに気づいた。
「絶望の中に希望を探しに行く」極地探検家たちは、やはりどこか普通とは違う感性の持主なのだろう。