「宇宙よりも遠い場所」の中で、5話のめぐっちゃんの絶交のエピソードだけが浮いている。現実でも頻繁に起こるが、問題点が分かりづらく指摘しづらい難しさがあるからだ。
「相手を無力で無価値な状態において、その相手の面倒を見ることによって価値を搾取する」
「親がこういう親だった」という話をたまに聞く。自分の近くにもこういう人はいる。
「あなたが無力に見えるから助けたいのです」というのは本人が望んでいないときは失礼なことだし、言っているほうも悪気はないのだろうけれど、自分はこういう無力さの押しつけは、一種の価値の搾取だと思っている。
過保護な親が「自分の価値を確かめるために、子供をことさら無力な存在として扱う」のと同じだ。
無力感というのはすごい毒性が強いから、安易に他人に味合わせていいものではない、と思う。
以前、【「オタサーの姫」論】 「姫」とは「無能なカリスマ」のことだ。の記事でこういうことを書いた。
この問題の難しいところは、やっているほうは自分は善意でいいことをしている、と本気で信じている点にある。
アニメ本編でめぐっちゃんが「偉い」と褒められているように、周りもその「善意」を肯定する。それは「善意」であり、拒絶することは悪いことだと、被害者側には刷り込まれる。
どれほど拒絶したくてもその善意を受け取るしかなく、「自分が相手に何かをしてあげている」という相手の自己満足を満たすために自分を殺し続ける。この関係が出来上がってしまうと、そこから抜け出すのは至難になり、被害者側は加害者の「善意」の中で苦しむ。
「善意」は、相手がいらないものを押し付ける行為の言い訳にはならない。だが自分の観測範囲内では、これを認められる人間は余りいない。
「相手の親切や優しさをそんな風に言うなんて」という反応が多い。
こういう反応を見ると、被害を受けている人が「自分さえ我慢すれば」という思考に走るのも、さもありなんと思う。
とずっと思っていたので、このエピソードでめぐっちゃんが自分の加害性を認めたことはすごいことだと思った。5話は自分の中で、神エピソードだ。
めぐっちゃんはこの加害性を断ち切るために、しかも「自分は被害を受けている」と分かっていないキマリのために、恐らくあえて分かりやすい加害を働いた。
周りの人間から見ても相手から見ても自分から見ても、分かりやすく非を鳴らしやすい悪者、加害者になったのだ。
めぐっちゃんがあれほど分かりやすい悪意に満ちた行為をしなければ、見ている方もめぐっちゃんの行動の何が問題なのか分かりづらい。分かっても恐らく指摘できないし、指摘したほうがむしろ悪者になる。そこにこの問題の難しさがある。
この問題は大人でも気づきにくいし、自分もハマってしまうことがある。
「無力な誰かに何かをしてあげる」というのは、自分の価値が感じられ気持ちがいいことだからだ。
ややこしいのはそれが、確かに悪いことばかりではないところだ。
それが本当にいるのかいらないのか相手の意思を尊重しているのであれば、そして相手もそれを求めているのであればもちろんいいことである。
だが「相手が本当はどう思っているか」「相手の気持ちよりも、自分が満足することを優先していないか」「自分の価値を維持したいがために、相手の主体性を奪っていないか」「その自己満足、価値観の押し付けを『善意だから』と言い訳していないか」この辺りの見極めは本当に難しい。
容易く「善意でやっているのだ」という言い訳に流されてしまう。
めぐっちゃんはそういう言い訳を自分に許さないために、徹底して悪者になった。
少し前に「自分の物語に、相手の意思を確認せず巻き込むこと」を膜に例えていた記事があったが、これも基本的には同じ構図だ。
「自分の善意が相手に常にいいことだ」とは限らない。そういう当たり前のことを、つい忘れがちになる。そして「善意という膜」は、基本的に拒絶しづらい。
それでも「自分という膜」は、自分自身で守らなければならない。
キマリは恐らく本能的にこの構図に気づいている。
ただ『善意を疑うことは悪いこと』という当たり前の感覚を持っているため、「自分の弱さ」を理由にして(というより、本当にそれが原因だと信じて)めぐっちゃんから逃れようとしている。(この「自分は弱い人間だ」と相手に信じさせる点も性質の悪い部分だ。)
初めの数話を見たときに、「なぜ、めぐっちゃんは南極に行かないのか」「なぜ、キマリはめぐっちゃんを南極に誘わないのか」不思議だった。
五話を見たときに、なるほどこういうことか、と納得した。
めぐっちゃんの告白の後に、キマリが泣きながらめぐっちゃんを誘ったのは優しさにすぎない。それがめぐっちゃんには分かっているから断る。キマリと南極に行くわけにはいかない。キマリにもそれが分かっている。
自分たちが離れなければならない原因を「キマリの弱さではなく、自分の弱さだ」と認め、キマリに伝えためぐっちゃんはすごい。
めぐっちゃんは、キマリに浸食していた自分の膜を自分自身の手で断ち切った。
キマリがいなければ維持できない「頼りない親友の面倒を見る優しいしっかり者」としてではなく、ただ「自分」としてキマリと反対側の北極で同じオーロラを見た。
対等でいるために血を流し身を削り傷つけ合うほど、キマリとめぐっちゃんは友達なのだ。ここまでとことん向き合える友達がいることが羨ましい。
本編の感想