うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

読めば読むほど、何故冒険に行くのか分からない。角幡唯介「空白の五マイル -チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む-」

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イギリスから北米大陸に出る航路を探す旅の途中で全滅したフランクリン隊の足跡を追う、北極探検記「アグルーカの行方」が滅茶苦茶面白かったので、続けて購入。

 

ツアンポー峡谷という場所自体、自分にとってはとても価値があるところだったが、現実としては日本人がほとんど誰もが知らない場所である。(略)

場所自体に社会的価値がないのだから、その探検自体も社会的に無価値である。

(引用元:「空白の五マイル-チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む-」角幡唯介 集英社 P301) 

 

ツアンポー峡谷は、チベットという政情が不安定な場所にあり、本書を読むと中国がアメリカのグランドキャニオンを超えて世界第一位の峡谷であると主張するなど、社会的には重要な場所なのではと思う。

ただ日本ではほとんど知られていない、名前だけでは興味は惹かないだろうという点には同意だ。少なくとも自分は、生まれて初めて「ツアンポー峡谷」という名前を聞いた。

たぶん「アグルーカの行方」を読まなければ、一生手にとらなかったと思う。

 

「アグルーカの行方」も、読んでいるだけで気が重くなるような描写の連続だった。それでも北極はまだしも興味を惹きつけられたり、自分もあれほど過酷な環境でなければ行ってみたいという気持ちはある。

「どうしてこんなところにわざわざ行くのか」と思いながらも、同時に「すごい」という称賛の念が湧く。

 

しかし「ツアンポー峡谷」については、一体なぜこんなすさまじい環境のところに、しかも単身で行くのか訳が分からない。地元の人間ですら著者が「ギャラから一人で来た」と言うと、「そんなわけがない」という顔をする。

一年中ほとんど日が射さないため、地面が腐葉土のようになっていて登りにくいだの、寝袋の中に入ってもダニに全身をたかられるだの、急峻な崖を懸垂のようにして少しずつ上るしかなく荷物が持ち上げられないだの、掴んだ木が腐っていて崖から転落したが九死に一生を得ただのそんな苦労の連続だ。

延々と薄暗く険しい崖と激流と腐った土と樹木の光景が続き、美しい自然や動物との遭遇もなく、読んでいて「アグルーカの行方」以上に気が滅入る。

著者が旅行の時期に冬を選んだとき、「冬のほうが寒いし、雪が降る可能性もあるのに、なぜだろう?」と思ったが、こういう温かい湿地帯では冬以外は虫が脅威らしい。

なるほど…。

 

しかしそんな人間にとって過酷で、脅威でしかない環境の場所であるにも関わらず、北極と同じように過去に何人もの人間が「ツアンポー峡谷」に挑んできた。

深い崖に挟まれ激流が流れるツアンポー川には、歴代の探検家たちが未だに足跡を残していない「空白の五マイル」がある。著者はそこに挑戦する。

 

この本では、過去にツアンポー峡谷に挑んだ探検家たちの足跡を辿る。1993年には、早稲田大学のカヌークラブのOB武井義隆が、ツアンポー川のカヌー下りで命を落としている。

著者は生前に会ったことがない、特に本題とは関係ないと思われる武井の人物像を、関係者と会い彼の書いた文章を紹介し、事件当日のことやその後のことを再現し丹念に描く。 

武井が死ななければならなかったのは冒険家が避けることができない「業」のようなものに陥ったからなのだ。(略)

しかし今から考えると、偏見に満ちたこの武井像はあまり妥当ではなく、自分で作り上げた枠型に武井という人間をはめ込み、色眼鏡を通して彼の人生を眺めていたに過ぎなかった。(略)

私が作り上げた「冒険家にして人生の放浪者・武井義隆」という像は、結局、自分が若いときの生き方を投影したものに過ぎなかった。

 (引用元:「空白の五マイル-チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む-」角幡唯介 集英社 P115-P116)

 

著者は自分と同じ場所に惹きつけられ命を落とした武井の像を追うことで、自分自身の枠型を作り理解しようとしていたことに気づく。

「なぜ武井はツアンポー峡谷で命を落としたのか」ではなく、「なぜ自分は冒険に行くのか」という問いを追っていたのだ。 

「なぜ自分は冒険に行くのか」

著者はずっとその話をしているのだと思う、たぶん。

それでも多くの人はこう問うだろう。なぜ命をかけてまで、そこまでする必要があるのかと。

  (引用元:「空白の五マイル-チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む-」角幡唯介 集英社 P294)

 

何だかんだ言いつつ、この本は面白い。

過去の探検家たちの苦労話、親切な人もしたたかな人もいる地元の人たち、「捕まったらタダではすまない」と思っていた厳しい監視を行うチベットの警察官の意外な対応。

自分が知らない世界、恐らく一生見ることはないだろう世界は、驚きと発見に満ちている。

 

でも自分にとってこの本の一番の読みどころは、あとがきだった。

自分の言葉で自分の歌を歌ってみたかったのである。

ツアンポー峡谷を探検して文章で物語化することで、世界における自分という存在の居場所を確定させたかった。

(引用元:「空白の五マイル-チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む-」角幡唯介 集英社 P300)

うん? この言葉、どこかで見たことがある…。

創作物に対する感想は、自分という存在が世界のどこに位置するかという座標軸のような役割が自分にとっては一番大きい。

 

「気が滅入る」「大変そう」「何でこんな場所に行くんだ」と言いつつ、こういう本を読むのは、結局自分も本を読むことで、自分自身と世界の関係性をはかり続けているからなのだろう。

読めば読むほど領域が広がって訳が分からなくなる。広がった新しい世界での立ち位置を見出したくて、新しいものを読む。そしてまた色々なものを見失い、訳がわからなくなる。

それを繰り返すたびに、何かもがまだまだぜんぜんわからん、というあきれにも似た気持ちと、また新しいことを知れる、まだわからないものや見たことがないものがたくさんある、という高揚感を味わう。

 

著者がなぜあんなに苛酷な場所に行くのか、読めば読むほどわからない。だからたぶん、また別の(まったく別の)本を読む。

自分はツアンポー峡谷には一生行けないだろうし、見ることすらないと思う。

ただツアンポー峡谷に行った著者の歌は、自分にとっては広大な世界の大事な道標のひとつになった。

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)