無茶苦茶面白かった。
感想を書くけれど、この本自体が恐らく北極を探検するということがどういうことなのかの全てを伝えきれないように、「この本の読書体験」を余り伝える自信がない。
タイトルを見て「面白そう」と思った人の期待には十分応える本だと思うので、未読の人にはまずは読んで欲しい。
個人的には紙の本で買うことを薦める。
章の冒頭に挟まれている行程を記した地図を、地名が出てくるたびに確認したくなることと、自分が読んだ分量がそのまま著者たちが踏破した行程にリンクする感覚が紙のほうが味わいやすい。
良き極地体験を。
アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極 (集英社文庫)
- 作者: 角幡唯介
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2014/09/19
- メディア: 文庫
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この本を読むと、南極・北極という極地が、いかに人間にとって苛酷を通り越して、絶望的な場所なのかということがよく分かる。
序盤を読んでいるときは恐かった。
著者が感じている感情を読み取っているというよりは、自分がその場所にいたら、間違いなく自然に対して覚えるだろう恐怖を感じていた。
本を読んでいるだけで分かる。
極地は、人間にとって恐怖と絶望しかない場所なのだ。
おそらく極地というのはそういう場所なのだろう。(略)圧倒的に過酷な自然環境が、そこにいる人間に死を無意識のうちに受容させる場所なのだ。
当時の極地探検家とは、おそらくそのことを半ば織り込み済みで極地に向かった、半分壊れた人たちだったに違いない。
(引用元:「アグルーカの行方―129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」角幡唯介 集英社)
正確な地図もなく、GPSも衛星電話もない時代に南極探検で命を落とした英国のスコットのことを書いた「世界最悪の旅」を読んで著者はそう述懐する。
序章で「世界最悪の旅」の内容に少しだけ触れているが、それを読んだだけでその悲惨さ、苛酷さ、絶望的な状況に気が滅入る。
著者は半ば他人事のように過去の極地探検家のことを語っているが、いくら文明の利器が発達したとはいえ、こういう本を読んでなお極地探検に行こうとする著者も十分「壊れた人」としか思えない。
一体、なぜこの人たちは、人間にとって絶望しかない極地に行くのだろう。
しかし読んでも読んでも、その答えは出てこない。
何十キロという荷物をソリで引きづりながら、歩く極寒の地。いつ途切れるか分からない乱氷帯。予定した行程を進むことができず、徐々に少なくなる食料。このまま進むのか戻るのか、戻るにしても食料が足りなくなり行き詰る可能性があり、進むにしてもどこでどんな困難が待っているか分からない恐怖。
気温が低い日は肌をさらせばすぐに凍傷がおき、気温が高い日は自分が歩く地面が割れる恐怖に怯えなければならない。
著者が何回か「自分たちはまだ地図があるから、この先がどうなっているか予測がつくからいいけれど」と口にするが、地図があってさえ天候や気候で例年とは状況が異なっている可能性があり、実際に著者たちは何度も予定外の行動や停滞を強いられる。
著者たちの苛酷な探検にオーバーラップするように、同じ行程を歩いたフランクリン隊の苦難が語られる。
元々は十分な装備と船を持つフランクリンたちの探検は、それほど危険だとは見られていなかった。それが予定の三年を経っても帰ってこず、129人のうち誰一人帰ってこなかったため騒ぎとなった。
残された逸話や遺物から想像されるフランクリン隊の行動は謎に満ち、かつ悲惨だったため現在でも研究の対象となっている。
この本のもうひとつの見どころは、このフランクリン隊の末路についての謎解きだ。
自分の印象ではやはり通説どおり、「餓死の入り江」で全滅したのではないかと思う。
でも、恐らく実際に行った何千分の一もその体験が分からないのだとしても、著者の言葉を通して「極地探検」をしてみると、そんなことはどちらでもいいのではないかと思えてくる。
「フランクリン隊の生き残りがいた」という逸話が生き残り続け、「アグルーカ」という概念が残り続けることにこそ、極地に惹かれ続け、探検して切り開いた人間たちの真実があるように自分も思う。
フランクリン隊の生き残りがいたことを主張したホールも、そのホールに反論し、こてんぱんにこき下ろしたレーも、その概念を信じているという点では同じなのだ。
そしてその概念の真偽は、著者が言う通り「エピソードではなく、シーンの中でしか見いだせない」ものなのだろう。
それはフランクリンも同じだった。
過酷な荒野の中にロンドンでの日々の暮らしの中では発見できない本当のことを見つけたから、フランクリンは北極に行かざる得なかった。
(引用元:「アグルーカの行方―129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」角幡唯介 集英社)
本書の中で印象に残ったシーンのひとつに、子供を連れた麝香牛の母親を殺して食べるエピソードがある。
著者と同行者の荻田は多大なエネルギーを消費する極寒の極地探検の中で常に空腹に悩まされ、麝香牛の群れを見つけると喰うために母牛を殺す。そして母親を殺され、群れからはぐれたために生きる術を持たない泣き叫ぶ子牛を殺す。
読んでいるだけで罪悪感に悩まされるような、非常に生々しいエピソードだ。
著者はこのとき「自分が残酷であることを知った」と書く。
もちろん人間は残酷だ。自分ではやらないだけで、こういった過程で殺された動物を食べて日々を生きている。
しかし頭でそう考えるのではなく、「人間ではなく、他ならぬ自分自身が残酷であること」を体感として味わうことはそれほど多くはないだろう。
フランクリン隊は動物どころか、飢えに苛まれて仲間の人肉を食した。
極地は人間に小さくて惨めで弱く残酷な「人間」を、教えてくれる場所なのかもしれない。
どれほど読み進めても極地探検には絶望しかない。楽しさや明るい話題は皆無に近い。
ところが南下してきて、人がいる地域に入ると、どこかがっかりしている自分がいる。それは著者は同じようで、最後の難所であるグレートフィッシュ川を渡ってしまうと、「もう旅は終わった」と気が抜けたようなことを呟いている。
あんなに辛かったのに、あんなに恐ろしかったのに、絶望しかなかった場所なのに、何故かまた極地探検が始まらないかと思っている自分がいることに気づいて愕然とする。
一体、この気が滅入る探検記のどこに自分が惹きつけられているのか、さっぱり分からない。分からないから、極地に一度でも行った人は何度でも行ってしまうのかもしれない。
著者は極地探検家たちのことを、「北極の自然に囚われていた」と表現する。
そういえばアラスカの荒野に単身で乗り込み餓死したクリス・マッカンドレスも、荒野に取りつかれていた。
クリス・マッカンドレスも生き残っていたら、何度でも荒野へ行っただろう。
靴を喰うほど飢えに悩まされたあともなお、極地探検に向かったフランクリンのように。
この本を読むとその気持ちが少しだけ分かる気がするし、その気持ちでつながっている探検家たちが羨ましいような気持ちにもなってくる。
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アラスカの自然が圧巻。原作の「荒野へ」も好きだし、映画も好き。
南極探検の詳細は意識的に省いていたのかと思っていたけれど、角幡唯介のフランクリンの心境に対する推察を見ると、「極地探検になぜ行くのか」という点ではリアリティがあったのか。
大人でもハマる人が多いのは、そういう点なのかもしれない。
購入した。
- 作者: アプスレイチェリー・ガラード,Apsley Cherry‐Garrard,加納一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2002/12/01
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