うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「鉄血のオルフェンズ」を題材に使って、「テロルの現象学」の感想を述べたい。

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笠井潔の「テロルの現象学」を読んだ。

「観念」とは何でありどこから発生し、歴史上どのように変異していったか、というかなり漠然とした話が、例示や引用をあげて説明されている。

部分部分の賛否はともかく、この話はどう展開するのだろうと読んでいるあいだわくわくし続ける。10年の歳月をかけてまとめられたものだけに内容が濃く、思わず膝を打つほど納得する部分もあり、読んでいて楽しい。(ちょっと疲れるけれど)

自分の頭を整理するためにまとめつつ、「鉄血のオルフェンズ」を題材として使いながら感想を述べてみたい。

 

*自分の理解した限り範囲に基づく話なので、興味がある人は直接読むことをお勧めします。

 

四つの観念

テロルの現象では四つの観念が取り上げられ、時代と共に変遷していくと語られている。

「集合観念」→古代、自然と人、神と人の分離がなかった時代における観念。ユダヤ教や千年王国主義運動に代表される。類比的三元論を取り、「人ー霊魂ー神」「現実ー心ー精神」の三界が地続きでつながっている観念。千年王国主義運動に代表され、象徴的暴力を行う。

「共同観念」→今日の「市民生活」に根付く観念。「主ー客」の二項対立の世界。原始キリスト教がユダヤ教の「宗教」から「死」を隠蔽して、作り出した観念。「神」と「人」、「肉体」と「精神」が分離し、「宗教」が「倫理」に頽落している。制度的テロリズムを行う。

(例:マタイ伝、三島由紀夫、「悪霊」キリーロフ)

「自己観念」→「共同観念(=外的世界)」から「疎外され追放された」と感じるルサンチマンを隠蔽するために、人の内部に創出される観念。内的世界を守るために「外的世界を破壊することで」尖鋭化し続けるという性質を持つ。

外的世界の二項対立によって生じているため、ルサンチマンの隠蔽という欺瞞を抱えているため、この欺瞞に目を向けなければ背理する。反抗的テロリズムを行う。

(例:北村透谷、「悪魔と神」ハインリッヒ、ゲッツ、「正義の人々」カリャーエフ)

「党派観念」→「共同観念」と「自己観念」の二項対立では必ず「観念の外部」が生じ観念は限界に至る、もしくは背理する、という問題を止揚する論理として登場。二項対立を一元化する(「客体と主体の消失」)ことによって、矛盾を解消する。総体的テロリズムを行う。

(例:マルクス・レーニン主義、「カラマーゾフの兄弟」大審問官、「1984年」)

 

観念の変遷

「集合観念」「人ー精霊(精神)ー神(霊魂)」の三元論から「死」を隠蔽。→「共同観念」→「共同観念に居場所がないというルサンチマン」→自己観念の創出→二項対立により「観念の外部」に接触する自己観念の限界→自己観念と共同観念の二項対立という矛盾を止揚するために→党派観念の出現。

 

自己観念

「外的世界(共同観念)から疎外された」→「世界から追放された」と感じた者が、自分が存在しうる世界として「自己観念=内的世界」創出する。

「外的世界」に相対するものとして、初めから「内的世界」が存在するのではない。前提として、まず「外的世界から疎外されている」という意識がある。

 

自己の外側の世界=「共同観念」から追放された人間が生きる内的世界は、自己観念によって支えられる。

その性質がゆえに、自己観念は必ず純化するという性質を持つ。「観念や思想はなぜ純化するのか」ではなく、「観念や思想は、内的世界を支えるという役割ゆえに純化する方向に行く、という性質を必然的に含む」

「すべての思想は極限化すれば必ずその思想の実践者に破滅をもたらす」という言葉は、「破滅を宿命的に強いられた者だけが思想を極限化していく」と顛倒されなければならないのだ。

(引用元:「テロルの現象学 観念批判論序説」笠井潔 ㈱筑摩書房 P32/太字は引用者)

 

「純化する」ということは、自他に対して抑圧的に働くということ。(自分の中では、「尖鋭化」のほうがしっくりくる)逆にいえば、観念は観念以外のものに抑圧的に働くことによって、強度を高める。

 

上記の経緯によって生まれた「尖鋭化し続ける自己観念」の根源には、「世界から疎外された」というルサンチマンが眠っている。

このルサンチマンを隠蔽するために自己観念は生まれる。

「ルサンチマンの隠蔽」は、「観念の欺瞞」とされている。

この「欺瞞」を見ずに観念をその自律性のままに尖鋭化させていくと、観念は「観念の外側」にぶつかるまで「外的世界」すべてを食い破り、やがて背理する。

カミュの「正義の人々」に出てくる革命家のステパンのセリフが「観念の背理」を体現している。

ドーラ でも、もし人類全体が革命を拒絶したらどうなるの? もし人民全体が、あなたが味方して闘っているその人民全体が、自分の子供たちの殺されるのを拒絶したらどうなるの? そうしたら、その人民までやっつけてしまわねばならないわけ?

ステパン そうさ、必要とあらばね、そして人民を納得させるまでさ。俺だって、人民を愛している。

 (引用元:「テロルの現象学 観念批判論序説」 笠井潔 (株)筑摩書房 P106/太字は引用者)

 

「人民のために行われている革命の敵に人民がなるとき、人民も敵となる」

観念の純化→欺瞞の隠蔽→背理と進んだときには、こういうこともありうる。

 

このときのステパンとドーラの会話は、セルゲイ大公の暗殺を引き受けたカリャーエフがセルゲイ大公の馬車に子供も乗っていたため、爆弾を投げることができなかった、という流れの中で行われる。

「カリャーエフがセルゲイ大公の子供を殺すことを躊躇ったために、明日以降多くの子供が殺される」と迫るステパンに、カリャーエフは「そうだとしても子供を殺すことはできない」と答える。

 

そう答えたカリャーエフに対する警視総監のスクーラトフの問いが、「自己観念の限界点」を指摘するものになっている。

思想で大公を殺すことはできる。ところがその思想で子供たちを殺すとなるとなかなか難しい。ま、そういうことにあんたはお気づきになった。

そこで、ひとつ疑問が出てきますな。

つまり、その思想で子供は殺せないということになると、同じ思想で大公なら殺せるというわけになるんですかな?

(引用元:「テロルの現象学 観念批判論序説」 笠井潔 (株)筑摩書房 P108/太字は引用者)

 

「自己観念」は、常に設定される「観念の外側」が矛盾となり限界になる。カリャーエフにとっては「思想(自己観念)では子供を殺せない」。

ナロードニキたちにとっては「救わなければならない虐げられた民衆(ナロード)」に自己観念の到達点を見たが、「実在の民衆」が観念の限界となりその矛盾から崩壊した。

この「観念の外側」(自分の中に眠る共同観念)と「自己観念」の対立を解消するために、後に「党派観念」が生み出される。

 

共同観念

「日常生活」を維持するために生まれる市民生活における観念。

ここから「追放された」と感じたルサンチマンを持つ者が、自己観念を育む。

元々は「集合観念」が蔓延していた「神ー人」「自然ー人」「精神ー肉体」「生ー死」「祭ー日常」が分離していなかった世界に、「主ー客」の二項対立を持ち込むことで発生している。

 

恐怖の対象である「死」を「生=生活」から切り離して「彼岸にあるもの(いま、ここにないもの)」として隠蔽するために、二項対立は持ち込まれた。

祝祭を非日常とし、祝祭にまつわる「死=非日常」「性」と「暴力」を禁忌とすることによって、「共同観念」は成立している。

 

共同観念は「労働」と「生殖」から成り立っている。

共同観念においては「死」は日常と切り離され隠蔽されるべきものであり、「死」につながるものとして「性」「暴力」「神=霊的なもの」も禁忌となる。これを封じ込めた「祭り」を「日常とは切り離された」特別なもの(客体)として扱う。

「祭り」に封じ込めたものは「客」であり、日常を生きる主体にとっては客体(日常とは関わりのないもの)となる。

「禁忌」とされた「暴力」と「性」は、「純化された共同観念」においては抑圧の対象となる。

この「昔の人々」の言葉の社会倫理的な妥当性と比較して「マタイ伝」の作者によるそれは、まるで無理難題を述べているとしか思えない。(略)

他人を罵倒しただけで地獄に堕ちるというだけではない。続いて「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである」「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」等々言葉が重ねられる。

これらの教えを文字通り日常生活の中で実行しようとしたら、人は一日だって暮らしていくことはできないだろう。(略)

作者は(略)十誠ないし古法を観念的にウルトラ化することをもって、いわば純粋観念ともいうべきものを析出してみせたのである。ユダヤ教の正統派に対して、この極限化された純粋観念こそが、原始キリスト教の党派性として押しだされなければならなかった。

 (引用元:「テロルの現象学 観念批判論序説」 笠井潔 (株)筑摩書房 P129/太字は引用者)

 

「主ー客」の二項対立のない「集合観念」を形成していたユダヤ教に対して、マタイ伝の著者は「祭」に属する「性」と「暴力」を禁忌とする「共同観念」を極限まで尖鋭化して党派性を押し出した。

 「共同観念」は「死の隠蔽」を行った「集合観念」であり、「集合観念」が頽落(死を隠蔽)した姿である。

「共同観念」における倫理は、「集合観念」における「宗教」が頽落した姿である。

 

共同観念から疎外された自己観念が目指す革命は、暴力と容易に結び付く「祝祭」の要素を含む。「祝祭」と対比される、生活が憎悪の対象となる。

共同観念から疎外されたと同時に、その要素を基盤に持つため、自己観念は「死」を敵視し、観念を裏切り「死」に屈する「肉体」も憎悪の対象になる。

連合赤軍で日常の些細なことが総括の対象となり、観念によって肉体の死を乗り越えられないときに「敗北死」という規定が生まれたことと結びついてくる。

 

 「鉄華団」と「自己観念」

ここまでの話を、自分が「鉄血のオルフェンズ」の鉄華団に感じていたことと絡めるともう少し明確に語れそうに思え、また「テロルの現象学」についても理解が深められそうだったので話したい。

 

現在のところの「鉄血のオルフェンズ」の感想は、鉄華団の団員たちの内部に構築された「粛清回路」からどう逃れるか、という話だったのでは、というものだ。

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「テロルの現象学」を読んで自分が考えた「粛清回路」とは、「共同観念から疎外されたという意識から生まれた各々自己観念が結び付き、自律性を持ったもの」なのでは、と思った。鉄華団の団員が根源的な部分で思考停止しているのは、この「粛清回路」に観念を預けているからではと思う。

何を根拠にそう考えているかは今までの記事で書いたので、興味のあるかたは読んでもらえると嬉しい。

今まで書いた部分の説明は飛ばして、とりあえずそういうものがストーリーを支配していると仮定して話をすすめていく。

 

「粛清回路は、書き手が作為したものか」に言及すると、自分は考えていないと思う。

このあたりは「ライ麦畑でつかまえて」がサリンジャーにとって、自己回復の回路だったのではと考えているのと近い。

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難しいのは「粛清回路」は彼ら自身の一部である、どころかその回路で結ばれ信奉していることを以て、鉄華団の団員は「世界から疎外される孤児」というアイデンティティを確立しているため、ただそこから逃れればいいわけではないところだ。

その回路でつながっていることを以て、彼らは「鉄華団」という鉄の絆で結ばれているのだ。

「疎外されている状態そのもの」が生きる場所になっているところに、難しさがある。

 

キャラクターたち各人がそう考えている、といいたいのではなく、ストーリーの内部に「粛清回路」が埋め込まれているということだ。

鉄華団が社会(共同観念を有する共同態)とうまくやっていこうとすると、ストーリーの深部に埋め込まれた粛清回路が動き出しことごとく邪魔をするようになっている。

例えばビスケットの死も

この考えでいくと、ビスケットの死は実は逆なのではないかと気づく。

今まで「ビスケットが死んだから、鉄華団は暴走して悲惨な末路を迎えた」と考えていた。しかし実は「サヴァランの言葉に迷いを抱き、鉄華団の暴走を止めて社会に迎合しようとしたから、ビスケットは物語の深層回路によって粛清されたのではないか」

(「鉄血のオルフェンズ」なぜ、雪之丞は鉄華団を止めなかったのか?という疑問から、物語を支配する恐ろしい回路の存在を妄想する)

こうではないかと思っている。

 

「テロルの現象学」では「内的世界(自己観念)」は純化し、自己を含む外的世界を破壊する方向に向かうと書かれている。「なぜ、観念は尖鋭化するのか?」という問いは正しくなく、「自己観念はその性質上、尖鋭化せざるえないという特質を必然的に含む」

 

これを「オルフェンズ」に当てはめると、「なぜああいう結末になったのか」という問いは、「ああいう結末を約束されていたからこそ、彼らはああいう風に生きざるえなかった」という答えに転倒される。

「粛清回路」を内部に組み込まれ、それを信じることによってのみ「孤児」として生きることができた鉄華団は、そもそも破滅を約束されて話が始まっている。

「彼らは破滅を約束させられるという、ストーリーからすら疎外された状態だったから『孤児』」だったのだ。

 

(ストーリーという外的世界が彼らを疎外する)←→(ストーリーという外的世界から疎外されたから、鉄華団(孤児)という内的世界を生みだした。)

 

「鉄血のオルフェンズ」という話の骨格は恐らくこうではないか、と思う。

「鉄血のオルフェンズ」における「孤児」は、親がいないという字義通りの意味ではなく、この世界のどこにも居場所がない、外的世界の全てから疎外されているという烙印なのだ。

そして鉄華団はその烙印(「テロルの現象学」においてはルサンチマン)にこそ、アイデンティティと自分以外の者との絆を見出している。 

 

ザックは「党派観念」の萌芽に気づいたのでは。

「ルサンチマンの隠蔽(観念の欺瞞)」の状態のまま観念を純化し続けると、「人民のための革命に対して人民自身が敵になったとき、人民も殺し納得させる」と語ったステパンのように観念は背理する。

 鉄華団の「自己観念」も、「思想で大公は殺せるが子供は殺せない」カリャーエフのように、「観念の外側」に突き当たる。

42話で「同じヒューマンデブリと戦うのにためらいはないのか」というザックの質問に、チャドが「武器を持てば誰でも対等だ。(だから、殺すのにためらいはない)。」と答えている。

つまりどれほど可哀そうで悲惨な境遇で、無理やり戦闘に参加させられているような敵でも、「敵であれば殺すしかない」と鉄華団側が明確に言っている。これは鉄華団にもあてはまる。

(「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」感想&くっそ長い物語の分析&総評

 

チャドのこの返答は、ヒューマンデブリであるチャドがヒューマンデブリであるチャドと戦い、「外的世界から追放されたルサンチマンを抱えた孤児」を生むことになる。

「人民のために行われている革命の敵に人民がなるとき、人民も敵となる」と同じで「自分のために戦っている戦いの敵に自分自身(仲間)がなるとき、自分(仲間)も敵となる」のだ。

純化された観念の敵である自分(肉体)は、観念によって滅ぼしていいものになる。

なぜ、「鉄華団がルサンチマンに飲み込まれ、『粛清回路』の中で生きなければならなかったのか?」という問いに対して、「鉄華団という組織が、鉄華団の団員を疎外しルサンチマンを埋め込み、彼らの破滅を約束した」という回路が成り立ってしまうのだ。

この42話のチャドの返答から、「鉄血のオルフェンズ」という救いのない話が始まってしまったと考えることもできる。

物語の深層に埋まっている「粛清回路」とは、この「孤児」を生み出し続ける出口のない円環だ。

 

「自己観念」であれば、ここが「観念の外側」となり、「自分を殺さないために自分が殺されるか」「自分が殺されないために自分を殺すか」という矛盾にたどり着くことになる。

このチャドの返答はその矛盾を解消するために、「『民衆』は、革命に参加する『労働者階級』とならなければならない。そしてそうでない民衆は民衆ではない」とした「党派観念」を採用している。

「鉄華団に参加していなければ、救われるべき孤児ではない」のだ。

 

「テロルの現象学」で「1984年」のウィンストンは「ほんとうに自己の自我を外化し、自らの直接の自己意識を物にしてしまい、対象的存在にしてしまった」と書いている。

観念の外部を「止揚」した観念である党派観念は、主体と客体を始めとしてあらゆる対項に隠蔽された、あるいは公然たる第三項として、完成された弁証法的権力となる。

そして党派観念は、自己観念を不断に自壊と解体へ押しやりながら、それを吸収して無限の自己増殖と肥大化を続けていく。自己観念のつきせぬ夢であった「全世界の獲得」は、党派観念によって実現される。

なぜなら、世界は既に観念の内部にしか存在しえず、もはや観念の外には存在しないからである。弁証法的歴史の名においてこの観念は、過去と未来を同時に内部化し、その解釈権を独占し、つまるところ究極の支配権力として歴史を支配する。

 (引用元:「テロルの現象学 観念批判論序説」 笠井潔 (株)筑摩書房 P393/太字は引用者)

 

「党派観念」の恐ろしさは、「自己観念」を吸収し補完する装置として働き、「党派と自己=世界」が一体化してしまう」というより一体化する論理であり倫理であるものが含まれている点にあると思う。

モスクワ裁判において、ブハーリンは「自己の思想を窮極の結論に向かって追従させ、そしてその結論に従って行動しなければならないという、絶対的な強制の下におかれている」「問題の要点は、客観的に誰が正しいか、ということだけなのであり、主観的誠意というような問題は、何等問題ではない」という革命家の論理であり倫理を内面化させていたために、やってもいない罪を自白した。

そして自分の「革命家としての名誉の回復」も自分に自白を強要した党に求めたように、自分がやってもいない罪を自白することによって守られる世界も、自己を補完する(できる)世界も党でしかないのだ。

 

ザックは恐らく鉄華団という組織が辿りつつあった「共同観念からの疎外」→「自己観念の極限化」→「党派観念により『団と自己を一体化』。団の外側で対象化された自己を滅ぼすことも正当化する」という道筋を直観し、恐怖し逃げ出したのだと思う。

前の記事で、「鉄華団は、オルガを頭とする一個の生命体になろうとしていた」と書いたことがある。よくよく考えると滅茶苦茶怖いことを書いているが、自分では余り怖いと思っていなかった。そこがまた怖い。

 

この「党派観念」の完成が、粛清回路から逃れられなかった人間の行きつく先ではないか。それが最終的にどういうことになるか、というのは歴史上色々な出来事が証明している。

少なくともオルガが団員たちを連れて目指した「きったはったしなくてもいい世界」は、「団=世界(自己も団に融解している世界)」ではない。

それでは「孤児」として、永遠に粛清回路の作る円環を周り続けるだけになってしまう。

 

「粛清回路」という「純化し続ける内的世界」→「矛盾を解消するために、自己が融解した党派観念が世界となる」という道筋から、みんなを救い出すためにはどうしたらいいか。

オルガが会社を作り、自分たちを追放した共同観念=社会に接続し直そうとしたのはこのためではないかと思う。

オルガは「きったはったをせずともすむ世界」にみんなを連れていくためには、外的世界に対するルサンチマンを乗り越えるしかない、そのためには共同観念の構成要素である労働、「生活をするしかない」ことに恐らく直観的に気付いていた。

だから外的世界を破壊して自分たちが生きる世界を創ろうとするのではなく、既存の社会の中で会社を設立し働いて生きていこうとしたのだと思う。

 

自分がオルガが好きなのは、多くの人間が(少なくとも自分だったら)「ルサンチマンを隠蔽して自己観念の極限化→矛盾をさらに隠蔽するために党派観念の完成」の道筋に行きそうな境遇で、仲間のためにルサンチマンを乗り越え、一見脱出不可能な円環を抜け出そうと最後まで力を尽くしたところだと「テロルの現象学」を読んで気づいた。

「お話」として見れば、「こういう風になっているかもしれない」と想像ができても、ループものと同じで内部にいる人間には、その構造はわからない。自分の目の前に見える出来事をこなして生きるのが精いっぱいだ。オルガもビスケットの言葉をはねつけたり、マクギリスの提案にのったり試行錯誤を重ねている。

正解がわからない、どころか全体がまったくわからない中で都度都度決断しなければならないところがキツい。

 

「オルフェンズ」は、一見外的世界からの抑圧との戦いに見えて、内的回路との戦いの話だったのではと思う。内的世界は自分の一部でもあるので、ただ破壊すればいいわけではない。

保持しつつそこから抜け出すにはどうすればいいのか。

「テロルの現象学」では、「観念の欺瞞」に対する批判は「観念の外側」を設定した瞬間に無化してしまう、ということが書かれている。

「外側に理想(目指すべき場所)もしくは敵を設定する」する限り、純化した観念は自分自身を敵として自分に対する抑圧者となり、「外的世界から追放された自分」を生み出し続けてしまう。

そして最終的にはその「自分」も、「党(団)」の中にいなければ存在しないものと処理し、その矛盾すら「党」の論理で合理化してしまうという救いのない世界にたどり着いてしまう。

 

考えれば考えるほど絶望的な話で、タカキやチャド、ユージンだけでもその回路の外側に抜け出せたのは奇跡に近いように思う。

そういう奇跡が、鉄華団を代表とする「世界から追放された孤児たち」のために描かれている。

一見、主人公を含めほとんどの団員が死ぬ悲惨な結末に見えて、もっと広義の意味での「孤児たち」(マクギリスやアインも含まれる)に、押し付けられた内部回路から抜け出る未来を提示した話だったのではと思う。

 

三日月と集合観念

鉄華団の中で、三日月だけは「自己観念から生まれた粛清回路の円環」の中にいなかったのではと考えている。

純化した観念についていけない脆弱な身体を破壊し(肉体憎悪)、バルバドスを肉体としていたなど「自己観念の尖鋭化」を思わせる部分もある。また「俺にはわからないよ」に代表される思考停止具合が、鉄華団に同化した「党派観念」に囚われているように見える。

しかし三日月は、「自己観念ー共同概念」の対立軸の大元となる「集合観念」に所属する存在ではと考えた。

三日月だけは「共同観念」で禁忌とされている「性」に触れ、「共同観念」の基盤をなす「生殖」を行っているところを見ても、自己観念や党派観念にとらわれているようには見えない。

昭弘がラフタの好意に一向に気づかない、オルガとメリビットの交流の急速な消失と対比すると落差が余りに大きい。

 

「鉄血のオルフェンズ」の面白さは、三日月の特異性にもあるのでは、と思う。

マクギリスは「集合観念(人ー精霊ー神の類似的三次元)への回帰」を夢見たから、三日月に興味を持ったのだと思う。

「集合観念」は「千年王国主義運動」に代表され、「テロルの現象学」では「集合観念による闘争こそが真の革命である」と主張されている。

「千年王国主義運動」の代表例として、タボル派によるボヘミア地方の反乱があげられている。

以前、「『乙女戦争』のフス派と鉄華団に自分が抱く感情がなぜ違うのか」を考えたことがあったが、「テロルの現象学」を読んで納得できた。

マクギリスも「乙女戦争」でフス派に参加していたら、完全燃焼できていたのでは、と思う。つくづく運がない人だった。

 

まとめ:「テロルの現象学」のここが良かった。

「テロルの現象学」は様々な書物から知識が引用され、思考が錯綜し練り上げられているとても面白い本だった。

理解できない部分もあったし、自分とは少し考え方が違う部分もあった。

でも同年代の人間たちが引き起こした連合赤軍事件を「自分も有責である」と考え、疑いもなく自分も関わっている何かが生み出しものという視点で「自分事」として考え続ける姿勢には感服するしかない。

石がパンではないという事実を、奇跡がを実演することで、石がパンになるというもうひとつの事実に置き換えてみたところで、そんなことにどんな意味があるだろう。(略)

そうではなく「パン」なしで生きられない人がその裡に「神の言葉」を宿しているという、この不可能な事実こそ最大の奇跡というべきではないか。(略)

奇跡から信仰が生まれるのでないように、信仰から奇跡が生まれるわけではない。いってみれば、信仰それ自体がそれ自体として一個の奇跡なのだ。

  (引用元:「テロルの現象学 観念批判論序説」 笠井潔 (株)筑摩書房 P307/太字は引用者)

 

「自己観念の極限化」や「党派観念による自己の融解」を起こさないためには、この発想がすごく大事なのでは、と個人的には思う。

「奇跡が起こせないなら信じない」「奇跡を起こすから信じる」では、結局は自己の信条の外部委託化では、と思う。

外的要素とは何の関係もなく、「自己」というのはただそこに存在するものなのだという考えが大事だと思う。平時だと当たり前に感じるが、少し条件が変わると主体は簡単に融解する。

 

プロレタリアートという集合態を労働者階級という共同態に簒奪し、革命を「社会主義」と称される「社会制度実現」のために利用すべき物理力に矮小化し、呪術師、修道士、秘教家、そして蜂起する農民と労働者、ブランキの後継者である革命の技術者を全面殺戮しつくしたマルクス主義収容所国家の足元から、ユートピア的叛乱はまたしても甦るだろう。

これこそが革命であり、革命が不滅であるという真の意味なのだ。

繰り返すが、革命は「いま、ここ」に、そして、蜂起する「われーわれ」の集合的投企においてのみ真に生きられるのであり、それ以外のどこにも存在しない。

 (引用元:「テロルの現象学 観念批判論序説」 笠井潔 (株)筑摩書房 P295-296)

正直内容については共感のとっかかりすらないのだけれど、理屈抜きで著者の熱量がダイレクトに伝わってくる。この本で一番印象的だった箇所だ。

400ページ冷静に色々なことを思考して語りながら、部分部分でこういう激烈な心情を爆発させているところがいい。

後書きを読むと批判や思想的な対立も色々とあったようなので、そういう時代のなごりなのかなとも思う。

客観的で冷静な思考と抑えきれない主観的な熱さが入り混じっていて、読んでいて楽しい本だった。