話題になっていた藤本タツキの読み切り「妹の姉」は、自分にとっては不気味で気持ち悪い話だった。
せっかくの連休なので自分がこの話のどこがどう不気味で気持ち悪く感じるのかを、ちょっと考えてみた。
作者の周辺情報は特に考慮に入れず、あくまで「妹の姉」を読んだ感想を語る。
最初に読んだときは、既に指摘している人がいる通り、「姉の裸を描く」という行為、それが公衆の面前に貼り出されるというあり得なさが引っかかるのかな、と思ったが、考えるとどうもそうではない気がしてきた。
この話がどういう話なのか、個人的な解釈をしてみる。(あくまで自分の独自の解釈だ)
まず自分から見た、「妹の姉」の粗筋を説明する。
光子の妹は天才である。光子は妹(の才能を疎ましく思い)、いつの間にか距離を置くようになる。
妹は想像で姉の絵を描き、光子はそれを見る。
光子は妹の眼から見た自分に違和感を覚える。自分はこんな存在ではない。
お前は私のことは何も分かっていない。よく見ろ、これが(本当の)私だ。
妹は才能があるかもしれないが、(私が何者かを教えられるという事実をもって)私の妹である。そして(妹が私の妹である、という事実をもって)私は妹の姉なのだ。
ということがわかり、二人は姉妹に(戻る)。
()に入れたのは、そうは言いきれないしそう言い切ってしまうと間違っていると思う箇所だが、言葉ではそうとしか言いようがないのでやむを得ずそう書いた。
例えば姉が「それから妹と話さなくなった」ときに妹に感じていた感情を、「嫉妬」や「疎ましさ」という言葉で表せない。何故ならそれは「嫉妬」や「疎ましさ」ではないからだ。
では何なんだ、ということは本編に描いてある。言葉では言い当てられない、姉が「妹は特待生で学校に入った。それから妹と話さなくなった」理由が描いてある。
自分の感覚に最大限近い言葉で説明すると、「姉は『妹の姉』ではなくなったから」妹と話さなくなった。
自分は「妹の姉」ではないので、妹は自分の妹ではない。自分の妹ではなくなったものと、どう話していいかわからない。
自分から見ると、二人の関係や気持ちは、血縁やそれまで家族だったという事実とはさほど関係がない。
本来はお互いの関わりかたの経緯から浮かび上がるのが「関係」なのに、この姉妹の関係は、2つの一方通行の独立した気持ちが並ぶことで成り立っている。二人は濃くつながっているのだが、気持ちは断絶している。交わることがない。
姉が「なぜ自分は妹の姉なのか」と思う気持ちと、妹が姉を崇拝する気持ちはお互いに関わりがなく、本人の中のみで完結している。この話は、それが当たり前という前提で成り立っている。
妹の姉に対する気持ちは絶対的だ。無条件の崇拝と愛情であり、揺らぐことはない。
妹は「匂いがダメとか言って油絵描いたことないじゃん」。
そんな妹が「お姉ちゃんと同じ高校いきたい」ためだけに、美術学校に入学する。
展示された絵には妹の姉に対する感情の全てが込められている。作内で繰り返し指摘されている通り、他の人から見ると実物よりも美化して描かれている。
妹の眼には、姉は他の人間とは違うものに見えている。
それは「この絵だけはやたら時間をかけて」などの絵に対する思い入れにも表れているし、姉から話しかけられるときの妹の表情にも表れている。
姉にとっては「私の受けた屈辱、その体に教えてやる」ための言動に対しても、妹は少し恥ずかしげな「嬉しい」という顔をする。
「服だって私が着るお古を喜んで着るし」「私がお風呂に行くと当然のようについてきた」
妹が姉に持つ感情は、目標とは思えない。妹は姉を信仰している。
妹の眼から見た「絶対的な信仰の対象としての自分(姉)像」が現実になる。
妹が姉を裸で描いたことよりも、自分の目を通した「姉像」を天才でもって現実化してしまったことのほうが、自分には圧倒的な暴力に感じられる。この暴力性に妹が無自覚なことが怖い。
「裸」は本質の暗喩だと思うが、「本質を描きたいと願うほど、姉に執着しているが、姉の話はまったく聞いていないし、無意識に自分の見た姉像のほうが正しいと信じている」妹が怖い。
もっと怖いのは、読んでいるほうも「妹のほうが姉の本質を的確に見抜いている」と感じてしまうところだ。
妹の信仰は揺らぎがない。彼女の才能と同じで絶対的なものだ。
それが仮に的確だとしても、いや的確だからこそ、それを描いてしまうのは恐ろしいことでは、ということがわからない。そんなことはチラリとも考えず、一心不乱に迷いなく信仰する。
作品の中で姉の言葉は誰にも届かないが、とりわけ妹とはまったく話が噛み合っていない。
二人は元々隔絶しており、妹の才能が明らかになったことをきっかけに、姉妹というつながりも途切れる。
姉は「姉である自分」を見失う。
「高校に入るまでは可愛い妹だった」妹は、「妹は特待生で学校に入った。それから妹と話さなくなった」ときにいったん妹ではないものになった。
光子にとっての妹は、「いつも私の後ろを追いかけてくる奴だった」からだ。
自分を「妹の姉」たらしめているものは何なのか。
「教えなければならない」。何故なら妹に「教えること」で「私は妹の姉になる」からだ。
約束したデッサンを教えること、お前が見ている私は私ではないと教えること、「妹に何かを教える」という事実をもって、自分は「妹の姉」という存在である(なれる)。
妹の圧倒的な天才と、その天才が描いた「他者から見た自分像」という暴力によって、「自分とは何なのか」ということが揺れ動いたときに、その暴力に立ち向かい「私とはこういう存在だ」と主張する。
強大で圧倒的な力の前で一度は見失い奪われた「自分」を、もう一度取り戻す話だ。
そういう「自分という存在を食い潰されそうになる圧倒的な力(周りの無神経さも含まれる)」に、個人が孤独にあらがう話が、姉妹の些細なすれ違いのような、まったく緊張感ない話として描かれているところが怖い。
「妹の姉」は狂気に満ちた作品だ。
妹(の才能)は、外部から作用する余地がない絶対的なものだ。
この絶対的なものと否応なく対峙しなければならない状況が重い。
最後の妹の「はい!」の表情を見ると、妹の天才と狂信という無慈悲な暴力は、この先どんどん強力になっていくだろう。
この話がよくある「才能によって隔絶した、姉妹の関係の回復の物語」として読めないのは、妹の「はい!」があるからだ。
あそこで妹が同じ画家を目指すものとして口惜しさを表していれば、この話は普通の「同じ世界を選んだ姉妹の愛情と葛藤の話」になっていただろう。
妹は何一つ変わっていない。姉の言動や葛藤に触れても(というよりこの話があっても)、妹の信仰はまったく揺らがない。
自分を信仰する妹は、どこまでもついてくる。
「私がこうだと信じる私」を見失わせる強大な力からは、決して逃げられない。
言葉も理屈も通じず自分の内面に侵入しすりつぶす圧倒的な暴力が、姉を無条件に慕う妹の姿をとっていることが不気味だ。
意思の通じない不気味で無慈悲な暴力が大人しくかわいい妹の姿をしているように、この話も本質である残酷さが表に表れず、一見よくある姉妹の愛情とすれ違いの話に見える。
「人間同士の関係性の話」であれば、姉の言動が妹に作用しなくてはそうは呼べない。お互いに作用し合ってこそ、「関係」なのだ。
この物語に描かれている光子が「本当の光子」だとすると、「本当の光子」は妹に一切作用していない。
「自分を見失わせる不気味で無慈悲な力と対峙し、乗り越えた話」と考えるにしても、この先は恐らく「その力に屈する未来」があるようにしか思えない。
妹の「はい!」と「なぜか妹と二人暮らしすることになった」がそう思わせる。姉は逃れようとしても対峙しても、妹という力の前では無力なのだ。
自分にとって「妹の姉」は、そういう話だ。
だから気持ち悪いし、読み終わったあとも後味が悪い。

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自分の感覚だと、「マブラヴ」や初期の「進撃の巨人」に近い話に思える。
7卷くらいで唐突に終わっている「進撃の巨人」を読まされたみたいな気持ちだ。