前から読みたいと思ったので、既刊12巻までいっき読みした。
想像していた内容と違った。
主人公の境遇と、舞台が様々な事情を抱え年代がバラバラな人が集う通信制の高校という以外は、ごく普通の恋愛漫画だった。
「大人が不在の箱庭世界」の恋愛漫画。
「中卒労働者から始める高校生活」の一番大きな特徴は、大変な境遇や事情やトラウマなどが、すべて「恋愛における自意識」に集約される点だ。
「中卒で自分や妹の生活のために働かなければならない境遇」
「親族から性的虐待を受けている」
「前科を持つ人間や家族に対する社会からの偏見のまなざし」
「未婚の母親に対する周りの理解のなさや大変さ」
現実の社会でも問題になっていることが多いが、それらが「社会問題」として語られてたり、テーマとして扱われることはなく、すべて現在進行形で行われている恋愛に対する背景や意識に落とし込まれる。
すべては恋愛のための材料となり、すべては恋愛によって解決される。
バックボーンは違えど「やれ愛だの、恋だの、『一人じゃない』だの、『会いたい』だの、『やっぱり会いたくない』だの『結局会いたい』だの」の繰り返しだ。
主人公の真実は最初は「中卒労働者」であることで、莉央に対して卑屈な気持ちを持ち、次いで莉央の周りの男たち(新や岬)にことごとく嫉妬し、最近の巻では刑期を務めて刑務所から出てきた父親のことを「莉央にだけは知られたくない」と苦悩する。
真実の様々な要素は、すべて「莉央との恋愛において自信が持てない」に集約される。ある意味、徹底している。
また莉央が従兄から長年性的虐待を受けてきた話も、かなり深刻な話だと思うが、真実との恋愛の障害になる以上にストーリー内で扱われることはない。
シングルマザーの若葉から真実への片恋にしても、若葉の立場でまず考えるのは、現在の状況で真実との恋愛を楽しめるか、また真実がひなぎくを受け入れてくれるかどうかだと思うのだ。(同級生の子供としてではなく、恋人の子供、ひいては将来を考えられるかなど)またひなぎくが、真実を母親の恋人として受け入れるか、という問題もある。
シングルマザーが恋愛をしてはいけないとはまったく思わないので、若葉がそのあたり「真実が子持ちの自分とひなぎくを受け入れてくれるのか」と悩んでいたり、「先のことは考えず、とりあえず今は恋愛をする」と思っている描写があるならばいい。
しかしそういう描写がないので、ひなぎくがいても「普通の高校生の恋愛」に見えてしまう。
若葉に限らず、この物語の大人たちは大人に見えない。
真実の勤め先の社長も、善さんも、真実の父親も、莉央の母親も、みんな言動だけを見ると真実たちよりも少し年上くらいにしか感じられない。
よく言えば「気が若く」悪く言えば「社会的なふるまいが板についていない」
この話で年相応の「大人」に見えたのは、交流キャンプで会う相手校の総務の楠さんくらいだ。
主人公たちがいる世界は、「大人が不在の箱庭的世界」なのだ。
若いころの恋愛で、やらかしがちなことが学べる。
恋愛については、多くの人が悩みそうなことが、かなり丹念に描かれている。
特に十代後半から二十代前半くらいに陥りがちな「恋愛のやらかし」が取り上げられているので、そのあたりが楽しめる人なら楽しく読めるのではと思う。
「何がそんなに不安?」「トミー、女の子の友達多いし、電話もメールも私からばっかり」(連絡頻度で好意の度合いを測り、勝手に不安になる)
「最初から好きじゃなかった。萌、可愛いからそのうち好きになるからと思って付き合ったんだ」(相手が傷つくと罪悪感がわくので、物事をなあなあで済ませる)
「自分に自信がないのは自分のせい」(自分のせいなのに、その自信の埋め合わせを相手に求める)
「二か月前のことなんて覚えてねーよ! その時話せよ、せめて!」(その時は我慢しても、結局はあとで爆発する)
恋愛相談で上から順に多いものを抽出したかと思うくらい、「恋愛あるある」が取り上げられている。
恋愛で不安になりやすい女子は、莉央や萌からいろいろなことが学べる。特に萌は「若葉の元彼の元彼女」というちょい役なのに、かなり学びが多いキャラだ。
12巻の五十嵐の言動が、この漫画の特徴を体現している。
この「それぞれが背負う社会的問題も、恋愛における自意識を語るための要素に過ぎない」というこの作品の特徴がよく出ていると思い、なおかつ一番面白いと思ったのは、12巻で真彩が五十嵐に父親について打ち明けるシーンだ。
前提としてこの話は、「過去に犯罪をした人間は当人のみならず、家族も偏見の目にさらされるのではないか」という問題がある。
例えば下記のように実際にそういう問題は存在する。
そういう偏見の目が実際に存在する以上、真彩にとっては今後の人生に関わる重大事だ。
ところがその重大性を、五十嵐はまったく認識していない。
これは五十嵐が想像力がないのではなく(五十嵐は、むしろ他人の気持ちに敏感なキャラとして描かれている。)そういう想像ができないほど、真彩への恋心で余裕がなくなってしまっているのだ。
「父親が罪を犯し刑務所に入っていた、という事実を周りの人が受け入れてくれるか」という第三者から見ても重大だと思うことよりも、五十嵐にとっては「真彩への恋心と一条への嫉妬」のほうが重大なのだ。
この二つが作内でまったく等価に(むしろ五十嵐の気持ちのほうが大きく扱われている)ところに、この話の特異さと真骨頂があると思う。
五十嵐は一条への対抗心と真彩を傷つけるためだけに「引いたら悪りの? 引く奴は悪い奴ってこと? 俺は引いてもふつうって思う」という言葉を吐く。
これは五十嵐の本心ではない、のは読んでいれば自明だが、話を整理するためにどうして自明と思うかを書いてみたい。
真彩が最初「父親が刑務所に入っていた」と告白したとき、五十嵐は「冗談……ではない」と戸惑っているが引いてはいない。「悪いことって何?」とむしろ、話に踏み込もうとしている。
ところが一条の名前が出てきたときに、顔色が変わる。
話が終わったあとの「わかんないって顔すんなよ。なんでわかんないんだよ」というセリフは、「自分という人間とその気持ちを分かってほしい」ということだ。
面白いのは「俺は引いてもふつうって思う」というのは、五十嵐の本心でもあるところだ。
五十嵐は一条とは違い、「引いてもふつうって思う」人間なのだ。だがこれは相手が真彩でなければ、だ。
真彩に対しても引いたならば、「引いてもふつう」などわざわざ言わない。
「自分は一条とは違い『引いてもふつう』な人間なのだ。しかし、相手が真彩ならば引かない。むしろ突っ込んで『引いてもふつう』と引いていたら言わないようなことまで口走ってしまう。そんな自分の気持ちを分かってほしい」
「引いたら悪りの? 引く奴は悪い奴ってこと? 俺は引いてもふつうって思う」という言葉にこそ、五十嵐の真彩への強い恋心と「自分を分かってほしい」という思いが表れている。
それが「真彩にとって、人生に大きく関わること」であり「社会的な問題として語られること」よりも大きく描かれるところが、この話のすごいところだ。
五十嵐にとってはそんな「社会的な問題」よりも、いま自分がしている恋のほうが、ずっと現実的で重要な問題なのだ。
自分はこのあたりのアンバランスさが割と好きだ。この年頃くらいの心象としては、逆にリアルだと思う。
「さらざんまい」で、燕太が自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、悠がおかれている状況が目に入っていない感じに似ている。
同じものを見ていて、同じことを話しているのに、見ているものがそれぞれまったく違う人間関係の難しさと、他人という存在のややこしさが描かれている。
真彩への恋心からとはいえ、この漫画の世界観で「引いたら悪りの? 引く奴は悪い奴ってこと? 俺は引いてもふつうって思う」こういう「悪」と思われかねない視点を提示できる五十嵐は面白い。
要領が良さそうに見えて意外と不器用、ずるさと弱さも持っているが、熱くなりやすく最後は損得勘定が吹き飛んでしまう、とこういうキャラは大好きだ。
真彩と結ばれるのは難しそうだが、五十嵐の幸せを願いたい。
まとめ
「中卒労働者から始める高校生活」は、登場人物たちが背負っている事情を深く考えなければ(それをもう少し正面から描いてほしい、と望まなければ)恋愛漫画として面白い。
「結局社会的な要素は背景にすぎない、ただの恋愛話かよ」と思うか「恋愛話として面白い」と思うかで、おそらくこの作品の評価は分かれると思う。
あとがきを読む限り、作者の境遇が真実と近いので、背負っているものが違っても、案外同い年の人間が考えることは同じようなことなのかもしれない、とも思える。
どんな境遇でもみんな不安になるし、みんな自信がないし、みんな自分の感情に振り回されて相手を傷つけてしまったりする。働きながら高校に行っている人も、普通科の高校に通っている人も、みんな未熟でその未熟さに右往左往する。
相手を一生懸命思いやってもうまくいかないときがあり、それでも試行錯誤し、右往左往する姿がいいな、好きだなと思える人におススメだ。
登場人物は、女子はみんな好きだが、真彩とあかりが特に好きだ。
あかりは「君に届け」のくるみを彷彿させる。気の強いライバルキャラが友達になるパターン。(好き)
男子キャラは五十嵐かな。
真実は「また、『俺だけ白黒』とか言ってんのか」とつい思ってしまう。主人公だから割を食っている面もあるが、卑屈→立ち直り→卑屈がループしすぎでは、とつい思ってしまう。