うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

モームが語る「ドストエフスキーが描く女性像は偏っている」について

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結論としてこうなる。Fateに感じる気持ち悪さは、那須きのこ氏が人間を描けていないからだ。

 

 

どこかで似たような話を聞いたことがあるな、と考えて、モームが「世界の十大小説」の中でドストエフスキーについて似たようなことを話していることを思い出した。  

ところがドストエフスキーが作り出した人物には、そうした複雑なところが少しも見られない。

いずれも支配したいという欲求と支配されたいという欲求と、やさしさに欠けた愛と悪意に満ちた憎しみからできていて、不思議なほど人間に普通の特質を持ち合わせていない。持っているのは情熱だけで、自制心もなければ自尊心もない。

その悪の本能は、教育によっても、人生体験によっても、あるいは不面目なことをしないように私たちを引きとどめている対面というものによっても、和らげられることが少しもない。

そうしたところから、常識からすると、彼の描く人物の行動はまるでありそうにもなく、またその行動は動機が馬鹿らしいほど取るに足らないもののように思えるのだ。

 (引用元:「世界の十大小説(下)」 W・S・モーム 西川正身訳 岩波書店 P222 太字は引用者)

 

自尊心はかなりある、というよりありすぎて、劣等感とないまぜになっておかしなことになったりするのがドストエフスキーの登場人物の面白さだと思うけれど、他の部分に関してはなるほどと思う。

「やさしさに欠けた愛と悪意に満ちた憎しみからできている」って、うまいことを言うな。

 

モームはこの文章の前に、ドストエフスキーの登場人物は類型が少ない、特に女性は極端に少ないと語っている。

以上は男性であるが、これが女性となると、種類はなおのこと限られている。

現に「賭博者」のポリーナ・アレクサンドロヴナにしても、「悪霊」のリザヴェータにしても、「白痴」のナスターシャにしても、「カラマーゾフの兄弟」のカチェリーナにしてもグルーシェニカにしても、みな同じ人物なので、ポリーナ・スースロヴァを直接の原型としているのである。(略)

だからこそ、ポリーナを原型として描いた作中の女たちは、愛する男を支配し、苦しめると同時に、男に身を従わせ、男から苦しめられることを欲するのだ。

いずれもヒステリーで、執念深くて、意地が悪いのは、ポリーナがそうだったからである。

 (引用元:「世界の十大小説(下)」 W・S・モーム 西川正身訳 岩波書店 P218-219 太字は引用者)

 

クソみそだが、このあたりは自分も似たようなことを感じている。

このタイプの女性を激情型と名付けると、ドストエフスキーの小説はこのタイプのヒロインが多い。

「罪と罰」のソーニャを代表とする受難型も出てくるが、受難型は少ない。

思いつく限りでは、「貧しき人々」のワーレンカくらいだ。「罪と罰」はドゥーニャも受難型なので、激情型が出てこない珍しい長編だ。(ソーニャの義母が激情型寄りだが端役)

「カラマーゾフの兄弟」では、アリョーシャとイワンの母親ソーニャが受難型だ。ミーチャの母親であるアデライーダが激情型なので、細部までこの二タイプで分かれているのか、と感心する。

「カラマーゾフの兄弟」のホフラコワ夫人や「悪霊」のプラスコーヴィヤ夫人、ユリヤ夫人のような「愚かで人の話を聞かない割には人の話を鵜呑みにする型」(長い)もよく出てくるけれど、ヒロインではいない。

 

ドストエフスキーの場合は、読まれるためにこういうタイプの登場人物を出したとは考えづらい。

モームも、同時代にロシアで活躍していたトルストイやツルゲーネフと比べて、ドストエフスキーの話の登場人物は特異に見えると述べている。

 

上記増田の文脈に倣って述べると、ドストエフスキーが描く激情型の女性は「愛する男性の手のひらのうえに収まりたいと望むが、まったく収まりきらないタイプ」だ。

彼女たちはよくわからない理由で突然激高する。しかもその激高のしかたがすさまじい。

怒るにしても悲しむにしても感激するにしても愛するにしても憎むにしてもすべての感情が極端で、ほどほどということがない。

その感情をその場でぶちまけなければ収まりがつかず、ドストエフスキーがたまに指摘するように「何もかもがぶち壊しになろうが、いまこの場で感情をぶちまけることを選ぶ」ことがすごく多い。

行動は感情的なうえに突発的で、自制心がまったくない。しかも気分がコロコロ変わる。

実際に側にいたら、おちおち話すこともできない。

激情型の女性は、作中でも扱いづらい登場人物として描かれているし、本人も自分自身を若干持て余しているようなことをよく言う。

一般的な世界観の作品の中にいたら、異性同性問わず敬遠されそうなタイプだ。(なぜかドストエフスキーの作品内ではとてもモテるが)

 

激情型同士はお互いのことがよくわかり善き理解者になれるのかといえば、まったくそんなことはない。二人ともこのタイプの場合は読んでいるほうが震え上がるような、すさまじい憎しみと呪いのぶつけ合いになる。

「白痴」のアグラーヤとナスターシャ、「カラマーゾフの兄弟」のカテリーナとグルーシェニカは両者ともほぼ同一人物にしか見えるが、この両者のぶつかりかたはすさまじい。ミーチャがグルーシェニカを虎に例えていたが、まさに龍虎の対決というか、人間には割って入ることができない猛獣同士の戦いを思わせる。

前哨戦である腹の読みあいや逆マウンティング合戦は読んでいて面白いのだが、自分があそこにいたらと思うと胃が痛くなる。

「悪霊」のワルワーラ夫人も、どこをどうしたら好きになれるのかよくわからない。「強がりが可愛い」というレベルを超えていると思う。

モームの言葉を信じるなら、たぶんこの怖さこそ、ドストエフスキーにとっては女性が持つ一番の魅力だったのではと思う。

 

「罪と罰」は長編の中では余り好きではないのだけれど、激情型が出てこないのが物足りないからかもしれない。(なんだかんだ言って出てこないと寂しい)

出てくる人間の多くが突発的な暴発型で、常に誰かしらが暴れている「悪霊」が一番好きだ。そういえば「悪霊」はダーシャが受難型だ。

 

ドストエフスキーの長編は、似たような登場人物が出てくる似たような話が、人にまったくわからせようという気のない話し方で延々と書かれている。

モームが言うようにその人物像は極端で、実際の人間とはかけ離れている。

プロットはがたがたで読みにくいし、端役みたいな登場人物が本筋に関係ない過去の話や朗読を突然始めたりする。(しかもすごく長い)

似たような登場人物が出てきて、毎度似たような話をする。(そして恐らく言いたいことも似たようなことだと思う)

思い浮かぶのは欠点ばかりなのに、なぜか無茶苦茶面白い。似たような話に思えるのに、それぞれの話はお互い似た部分がなく、比べられるものでもなく唯一無二のものだ。

モームもドストエフスキーについてその人格や人生や作品について、ああだこうだと語りながら、結局のところ過去のどの系譜にも連ならない、突然変異のように出てきた「世界のもっともすぐれた小説家の一人」であり「驚くべき独創性」と評している。

 

 こういう小説を読むと、「話の構造が」「人物像が」「女性の扱いが」「毎度似たようなことばかり」「終わっていない話があるじゃないか」とか言うのが虚しくなる。そのすべての欠点を兼ね備え、いいところはさほど思い浮かばないのに、なぜ面白いのか。

欠点だらけなのに圧倒的な面白さと爆発的なエネルギーを持つ作品を前にして、ただひれ伏すように読むしかない。

世界の十大小説〈下〉 (岩波文庫)

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  • 作者: サマセット・モーム,William Somerset Maugham,西川正身
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