先日、ようやく視聴した。
これで「実写版デビルマン警察」になれる。
感想は「思ったよりは悪くなかった」
その「思った」は、今までさんざん聞いてきた「実写版デビルマン」の悪評が、脳内で悪魔合体したものだ。その悪魔合体した何かを脳内に思い浮かべて、暇なときに涼しい部屋でクーラーにあたってアイスを食べ、飽きたらたまに他のことをやりながら観る分にはそれほど悪くはない。
逆を言えば、これ以外の条件で観ようとするのはおススメしない。
この映画を何の前情報もなく映画館で金と時間を費やして観た人には、かける言葉が見つからない。
自分が「実写版デビルマン」で、思ったより良かったと思った部分はふたつある。
①話の筋は一応通っている。
漫画版を下敷きにしているので正確には「実写版」のよかった点ではないが、あらすじは面白い。ただ「デーモンよりも人間が醜い悪魔だ」というテーマは、現代だと古臭く感じる。これをいかに現代にフィットさせるかが肝だったのでは、と思う。
②CGや特殊効果、漫画風の演出は見ていて楽しかった。
実写版の唯一良かった点はこれ。デビルマンの変身シーンは見ごたえがあった。
裏を返せばこれ以外はぜんぶダメだった。
「実写版デビルマン」の致命的な点は、制作陣も俳優もこの映画に関わった大部分の人間が、「文脈」を無視しているところではと思う。
シーンのつなぎも脚本も演出も演技も、文脈がないのですべてがおかしく見える。
ここでいう文脈は、「それが何故そうなるのか」という意図だ。もっと言うと、そこに至るまでの根拠なり、その根拠を支えるために積み重なってきたものだ。因果と言ってもいい。
漫画版をちゃんと読んでいないので想像で話すが、「実写版デビルマン」は表層上の物事やビジュアル的なものは意外と漫画版に忠実なのではと想像している。
忠実に再現したのになぜ漫画版は名作と言われて、実写版はこんなにこき下ろされているのか。
「文脈」が大きく関わっていると思う。
例えば演技は発声や滑舌など技術的な部分も大事だが、もうひとつ、「なぜ、そんなことを言うのか」を考えて演技することが大切だと思う。
明と了の演技は役の理解がどうこう以前の問題だが、一応例示を上げると、明が了がアモン化した姿を見て「きれいだ」と言うシーンがある。
ここは本来、主人公で人間側に立つ明が「デーモンをきれいだと思ってしまう」「相対的に人間は醜い存在かもしれない」という話のメインテーマにつながる意識を持つ、またそういう考えかたや物の見方を観客に提示する重要なシーンだ。
このあとの展開で、人間の醜さが問題になり、ジンメンが「人間が動物を食うこととデーモンが人間を食うことの何が違うのか」などの問題提起をする。
自分たちの保身のためならば狂乱し無抵抗の同族さえも殺す人間と、生きるために人間を喰らうデーモン、そして人間が醜くデーモンが「きれい」ならば、何をもって人間を肯定して守らなければならないと思うのか。
とても大切なひと言だ。
同時にこのひと言で、明から了へのあこがれや友情や親愛、二人のこれまでの関係性も表すこともできる。
「演技が上手い」と言われる役者は、へたくそな脚本で唐突に出てきたセリフでも、そこの隙間を縫うように文脈を与えて、演じる役に説得力を持たせることができる。
端から見たら笑ってしまうような言い回しでも、明にとって了がどれだけ大きな存在だったか、そしてここで「デーモンをきれいだ」と思った感情を後々の苦悩につなげたり、「人間のきれいさ」はどこに見出すのかというメインテーマにつなげたりできる。
そういう演技を積み重ねることで、他のシーンにも説得力を与えて、観ている人間に演じている役柄を一人の人間として実感させ、好悪を抱かせたり共感させたりできる。
ひと言話すだけで、少し動くだけで、歩き方、目線、動作そういったものを見るだけで、演じている役柄がどういう人生を歩んできたどんな人間か、いまどういう気持ちか、を見ている人間に想像させられる。
役者にとっては、「この人はこういう人間で、相手に対してはこういう感情を抱いていて、いまはこういう気持ちになっている。そして今後の展開はこうなるから、このセリフはこう話すはずだ」これが文脈になる。
役者だけではなく、シーンのつなぎや脚本にも文脈は大事なものだ。
「セリフをしゃべるだけ」では演技にならないように、原作を実写化するならば、原作の表層をトレースするのではなく、原作の文脈をトレースしなければならない。(もしくは実写版オリジナルの文脈(解釈)を語らなければならない)
自分がこの映画で最初に爆笑したのは、植木ばさみのシーンだ。これも漫画版に準拠しているのかもしれない。
仮にそうだとしてもそこで言いたいのは、「了が植木ばさみでいじめっ子の指を切った」こと自体ではない。「了がそんなことをするくらい恐ろしい人間で、それくらい明に思い入れがある」ことが言いたいのだと思う。
高校生なのにオープンカーを運転するのも、変なバーチャル装置?を取り出すのも同じだ。「了が他の人間とは違うすごい奴」ということを、観ている人間に伝えたいのだ。
年代やコンテンツの違いを加味して、「現代の人間に実写で、了はすごい奴、常人離れしたやばい奴と伝えるにはどうしたらいいか」この映画はそういうことを考えた形跡がない。
ただただ自分が見たままのものを何も考えずになぞれば、それはおかしなことになる。
制作者か役者、どちらか一方でも原作で描かれていることを理解しよう、それを自分なりに考えて見ている人に伝えようという気持ちがあれば、もう少しマシなものになっていたと思う。(たぶん)
ストーリーは何も考えず、ただ時間内に収められるように適当に切り貼りしているだけ、役者は与えられた台詞をただ発声しているだけなので、観ている側にはちぐはぐなコントにしか見えない。
主人公の演技は本当にひどかったが、わけてもひどかったのは美樹の首を発見したときの叫び(?)だ。
この前の惨劇のシーンが緊迫感もあり、この映画の中では比較的まともなシーンだっただけに余計にひどさが際立つ。
主人公が愛する女性を惨殺されて、その生首を発見して絶望するシーンで爆笑するのは、後にも先にも「実写版デビルマン」だけだと思う。
どこをどうしたらああいう演技になるのか、なぜああいう演技を誰も何も言わずに公開してしまうのか。
まさかそれをもって、「ほら、こんなシーンで爆笑するなんて人間は残酷なのだ」と指摘するためにああいう演出にしたんじゃないだろうな。この映画自体が、見た人間を暴徒化して、「人間はデーモンよりも醜い」ことを証明するために作られた?!
余りに意図がつかめなさすぎて、おかしな妄想までしてしまう。
「実写版デビルマン」を観るにあたって、このまとめを実況代わりに読みながら鑑賞したらけっこう楽しかった。本編よりもずっと面白い。
今だと元コンテンツが微妙でも、それを元にして面白いネタが作られるので、コンテンツが不出来なのもそれほど悪いことではないのかもしれない。(と自分に言い聞かす。)
応援上映会ならぬ大喜利上映会とかしたら盛り上がりそうだしね。
漫画版を読んだほうが良さそう。