漫画版「十角館の殺人」2巻が発売された。
第一の殺人が起こり、いよいよ話が始まった感がある。
二巻を読んでいて不思議な感覚に襲われた。
「先が楽しみ」な気持ちになったのだ。
「このあとの展開をどう描くのだろう」という原作の粗筋を知ったうえでの漫画版の楽しみではなく、
「この話、このあとどうなるんだろう」
という楽しみだ。
いやいや、このあとはこうこうこういう展開で犯人は〇〇でトリックはこうで動機はこうだって全部知っているじゃないか、何度も読んでいるじゃないかと自分に突っ込みたくなる。
なぜこんな気持ちになるのだろう、と思ったときに、たぶん自分にとって「原作のキャラ」と「漫画のキャラ」が違うのだ、ということに気づいた。
漫画のキャラたちに「原作とは別人物」という愛着がわいているから、彼らがこれからどうなっていくのだろう、どういう気持ちになるのだろうということに興味がわくのだ。
二巻で一番印象に残ったのは、オルツィがアガサに向ける目線だ。
(引用元:「十角館の殺人」清原紘/綾辻行人 講談社)
オルツィ目線で見ると、アガサはこう見える。
原作だとだいぶ印象が違う。
アガサは屈託なく笑った。その整った横顔をちらっと盗み見て、オルツィはそっと溜息を呑み込む。(略)
アガサはいつも陽気で、自信に満ち溢れている。性格はむしろ男性的なのだが、自分が女性であるということは十二分に心得ている。華やかな美貌に集まる男たちの視線を、楽しんでいるようにさえ見える。
(それに比べて、わたしは―)
(引用元:「十角館の殺人」 綾辻行人 講談社)
原作だと「アガサの対男性における女性としての自信」にオルツィの視線はフォーカスされ、一番強調されるのはそのアガサの自信に対するオルツィの劣等感に見える。
漫画版だとアガサは「明るく陽気で自信に満ち溢れ、自分とは違う気質を持つオルツィを気遣う余裕も持っている」そういうアガサの気質全体に、オルツィが憧れを持っているように伝わってくる。
「美人で男にモテるから」劣等感を抱いているのではなく、アガサという人物そのものに憧れを抱いているように改変されているのだ。
自分はこのシーンを見て、アガサへの印象も、そしてアガサをそう見ているということを以てオルツィへの印象もだいぶ変わった。
このシーンでエラリィの印象も変わった。
(引用元:「十角館の殺人」清原紘/綾辻行人 講談社)
原作のエラリィは、冷静で他人に無関心を通り越して非人間的に見える。
対して漫画版では、エラリィはカーの単独行動を真剣に心配している。
「なぜ、自分のことを目の仇にするのかわからない」というエラリィに対するルルゥの突っ込みも、原作は「何となくわかるなあ」と遠慮がちで、ルルゥのエラリィに対する遠慮がさらにエラリィの非人間性を強調している。
漫画版ではルルゥの突っ込みに遠慮がなく「何を今更」という飽きれを含んでいるため、エラリィに「鋭い頭脳を持つのに人間関係の機微には疎い困った面があり、後輩にまで突っ込まれる」という人間性が付与されている。
原作は人物設定にも仕掛けがあるからだが、(エラリィの非人間性を高めることで、読み手の疑惑をミスリードする*ネタバレ反転)エラリィに対する屈託や反発に限ればカーの視点に共感する。
しかし漫画版ではカーのキャラも相まって、カーはただエラリィを毛嫌いしているわけではなく「近すぎて何となく素直になれない」という要素も垣間見えるようになっている。
原作ではクールで殺人をどこか楽しんでいるようにさえ見えるエラリィが、見る人によっては「自分の興味がある分野にはつい夢中になってしまうが、人間関係には不器用で損しがちな人」になるところが面白い。
原作では「無垢の被害者」という役割しか持っていなかった千織も、オルツィとのやり取りや四コマ漫画の肉付けですごく愛着がわく人物になっている。
生前の周りとの人間関係はどうだったのか、彼女の死のとき仲間たちはどういう様子だったのか、もっと言うと話自体がまったく同じことを描いていても、ミステリーではなく、「仲間たちの微妙なすれ違いや罪悪感の掛け違えが悲劇を生んだ青春群像劇」になる可能性すらある。千織の死んだ状況も変更されているので、この辺りも色々と描きこまれそうだ。(というより描きこんで欲しい)
同じことを描いていても、描く角度によってジャンルさえ変わってしまう、というのは面白い。
自分にとって本格ミステリーは前にも書いた通り、「ミステリーという人がザクザク死んでいくゲームでは、主人公も犯人も被害者も平等にその遊びのために存在するだけのコマという扱いがちょうどいい」
綾辻行人の作品が好きな点のひとつは、「あくまで自分が描くのはミステリーというジャンルの話だ」という割り切りだ。
登場人物との距離感もほどよく、妙な入れ込みや投影がほとんどない。人物はステレオタイプな人物が多いが、それがミステリーとしての謎解きの面白さの邪魔にならないようになっている。
人物は識別できる程度の描きかたでいいし、変に叙情的な描写を入れられても白々しいだけだ。
そういう無味無臭な本格ミステリーの面白さだけを追求した原作があるからこそ、他方でそこにはこんな人間関係があり、こんな葛藤があったのかもしれない、もしかしたらこうだったかもしれないという漫画版が違ったものとして楽しめる。また同じ筋を追っているから、双方が掛け算のようにお互いの面白さを引き立てあっている。
実際漫画版を読んでいると、「原作ではここはどう書いてあったっけ?」「ここの流れはどうだったっけ?」と何度も原作を確認したくなる。
前はどちらかというとコミカライズには興味がなく「何で原作があるのにわざわざ別コンテンツで出すのだろう?」と思っていた。
「ただ原作を漫画にしました」というのではなく、原作を壊すことなく別の面白さを提供してくれる漫画を読むと、そういう風に思っていたことがもったいなかったなと思う。
まあ一番興奮した驚いたのは、江南の猫目美少女化だけど。
名コミカライズと言えば、自分の中では「銀河英雄伝説」の道原かつみ版があがる。
原作も何度読んでも面白い。