「ソ連の崩壊」や「アラブの春」を予見したエマニュエル・トッドが、EUの現状と今後を考えた本。
斜めな視線で読み出したけれど、予想に反して面白かった。著者の強い主張ではなく、現状分析の要素が強い本だった。
この本で自分が面白いなと思ったのは以下の部分。
その地帯の家族構成の在り方が、その国の政治体制や政治思想の方向性と重なる。
これが著者の思考の基盤になっている。
直観的に感じているものではなく、歴史や人口統計について研究する中で帰納的に見つけた法則らしい。
最初に私が解いたのは、なぜ共産主義がある国々では成功を収め、他の国々ではそうではなかったのかという問題です。「共産圏の地図」と「外婚制共同体家族の分布図」がぴたりと重なったのです。
そして、そこから出発して、では直系家族はどうか、絶対核家族はどうか、というように考察を広げ、「工業化以前の伝統的な家族構造によって近代以降の各社会のイデオロギーを説明できる」という仮説を丁寧に確かめていきました。
(引用元:「問題は英国ではない、EUなのだ ‐21世紀の新・国家論‐」 エマニュエル・トッド 堀茂樹訳 ㈱文藝春秋 P118 太字は引用者)
この考え方に基づいて、なぜ中東では国家が形成されにくいのか、形成されたとしても一部の人間に権力が集中する強権的独裁国家が多いのかも説明している。
国家建設が困難であることが、アラブ世界の本質的な特徴なのです。アラブ世界の家族システム、つまり内婚制共同体家族はまさに「アンチ国家」です。
内婚制共同体家族の社会システムでは、兄弟間の連帯が軸になり、実質的に、父権的部族社会が構成されます。曲がなりにも国家が成立する場合でも、フセインのイラクのように独裁国家になってしまうのです。(略)
要するに、ある範囲の地域を統一し、その中で人々を平等に扱うのが本来の国家ですが、アラブ世界では、そうした中央集権的な国家を生み出そうとしてもなかなかうまくいかないのです。
(引用元:「問題は英国ではない、EUなのだ ‐21世紀の新・国家論‐」 エマニュエル・トッド 堀茂樹訳 ㈱文藝春秋 P145-146 太字は引用者)
中東はなぜ強権的な政治形態の国が多く紛争が絶えないのだろう、宗教的な理由か、欧米からの干渉のせいか、石油という利権のせいか、そのすべてが複合してかと思っていたけれど、「家族システムが国家のシステムに投影されているから」というのはひとつの考え方としてすごく納得がいった。
家族という機能が弱いほど(個人主義の国ほど)国家の機能はしっかりするし、家族的要素を代替するようになる。逆に家族(親族)という共同体が強い国ほど、国家は成立しづらい。
家族内に強権者が既にいるシステムを持つ場合は、そのシステムを包み込む国家はさらに強権的にならざるえない(そうでないと機能しない)。
そういう状況のなかで、アメリカ軍がイラクに侵攻し、かろうじて「国家」として残っていた要素まで破壊してしまいました。その結果「国家なき空白地帯」生まれ、そこに「イスラム国」が居座ったのは、皆さんがご存じの通りです。
(引用元:「問題は英国ではない、EUなのだ ‐21世紀の新・国家論‐」 エマニュエル・トッド 堀茂樹訳 ㈱文藝春秋 P146-147)
その構成を理解しない外部のものが、自分たちの目からは「間違っている」国家を破壊しても、そのシステムからまた別のものが生まれるだけだ。中東の混乱は、この繰り返しなのでは、と思うと何とも言えない気持ちになる。
「人が寄り集まって共同体を形成する方法」という政治以前の個人の発想の部分が地域によってまったく異なるのに、一歩手前の「自分が考える世界がひとつになった姿が、相手とは違うのではないか」という疑問が欠落しているように見える。
そう考えるとグローバリズムに反発する反応がアメリカやイギリスでなぜ起きたのか、わかる気がする。
この本で面白かったもうひとつの点は、「イギリスのEUからの離脱問題」や「トランプ大統領が選ばれた理由」の大元には、よく言われるようなポピュリズムではなく、中間層の責任の放棄にあると指摘しているところだ。
問題はポピュリズムではなくエリートの無責任さ
英国EU離脱に象徴される大衆の抵抗を「ポピュリズム」という表現で説明しようとする向きもありますが、私はむしろ「エリートの無責任さ」こそが問題を理解するキーワードだと考えています。
(引用元:「問題は英国ではない、EUなのだ ‐21世紀の新・国家論‐」 エマニュエル・トッド 堀茂樹訳 ㈱文藝春秋 P67)
イギリスははっきりとした階層社会で、フランス人であるトッドもそのことに驚いた経験を書いている。
イギリスの大学に留学していたときに、部屋の清掃に入った年配の女性から「サー」と呼びかけられたことに驚いた(フランスだと、自分が彼女を「マダム」と呼ぶのが一般的なのに)というエピソードが、他の本にも出てくる。
現代の日本だと、ここで言う「エリート」にあたる層が存在しないので、想像がしにくい。仮定としては、「大学進学率が低かった時代の有名大学を出て社会的地位のある職業に就く人」を想定するといいのかなと思った。
英国のような階級が明確な社会では、社会の方向性を論じたり、それなりに動かせる層に「大衆」と呼ばれる層が政治を任せて従うような構図が続いていた。
しかしエリートは国全体のことを考えることはなくなり、冷笑主義や個人主義に走り、自分たちのことしか考えなくなった。英国では伝統的に、大衆はエリートたちを無条件に敬愛し付き従うことが多いが、国のことを考えなくなったエリート層についに反発した。その反発がブレグジットにつながった、というのがトッドの考えだ。
前述した通り、トッドはこれ以上世界が統合の方向に向かうことは難しいと考えている。むしろ今後は解体、分散の方向に進むのではと考えているので、英国のEU離脱は妥当な選択だと述べている。
目先のことや自分の利益しか考えていない「大衆」が政治に口出しするようになり、そういう人間の不平不満をうまく取り込んだ人間が世界を分断する方向に向かわせている、という論調に真っ向から異を唱える面白い見方だった。
余談だけれど「英国の階級社会」について、自分にとって印象深いのはアガサ・クリスティーの「暗い抱擁」だ。
地方選挙を背景にした話で、主人公のゲイブリエルは第二次世界大戦で活躍した人気を武器に、保守党から立候補する。鉛管工の息子であるゲイブリエルが、貴族階級に持つ根深いコンプレックスが作品のテーマのひとつになっている。
現代日本で生きていると理解できずついバカバカしいと思いがちな「階級」とは何なのか、という空気感が伝わってくる話だ。
その中で貴族階級として生きてきた女性が、政治家についてこんな風に語るシーンがある。
「国会議員が有給だっていうのはどうかと思っていますのよ。そういう考えかたには馴染めませんでね。国会議員の仕事は国家への奉仕であるべきですわ。まったくの無報酬の。(略)
法律を作る人たちは生活のために働く必要のない階級から出るべきでしょうに。利得にまったく無頓着でいられる階級から」
(引用元:「暗い抱擁」 アガサ・クリスティー 中村妙子訳 早川書房 P80 太字は引用者)
最初読んだとき、滅茶苦茶驚いた。
政治が一部の人間のものであってはならない、政治家は奉仕ではなく仕事だ、政治家というのは利権に群がるものだ、というのはそのころの自分にとってはそれ以外のことが思い浮かばないくらい当たり前の考え(というよりは前提)だったからだ。
だが「暗い抱擁」より少し前の時代の英国の貴族階級の人間は、自分たちが「国家に無報酬で奉仕すること」は当然の義務だと思っていた。それを「当然の義務」と心得る精神こそ、彼らを貴族たらしめるものだったのかもしれない。(ということも、ストーリーで描かれている)
自分はどれだけ経済的に恵まれていても、結局は政治に関わる人間は権力など力を求めるだろうと思っているので、恵まれているからこそある属性や自分にとってのみの利害を求めない政治を行えるという考え方(実際行われているかはともかく、そう考える人間がいること)が驚きだった。
つまり「政治家」というものに対する印象、政治に対する距離感、もっと言うと「国家とは何なのか」という発想が根本的に違うのだ。
こういうこともトッドが
「工業化以前の伝統的な家族構造によって近代以降の各社会のイデオロギーを説明できる」
こういったような、社会構造の違いが個人の物事の見方を確立するための基盤に与える違いかもしれない。
「考えかたの違い」以前の、もっと奥底の「物の見方を確立する基盤」が地域によっても大きく違う、それを認識しようとせず「多様性を尊重し合う」と字面だけを並べても意味がない。
それは何故なのかということを考えさせてくれる面白い本だった。
すごく好きな本なので、読んだことがない人はぜひ。