うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【ドラマ考察】「Nのために」のねじれまくっているストーリーの構造のすごさについて考えたい。

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湊かなえ原作・榮倉奈々、窪田正孝主演ドラマ「Nのために」を観終わった。

引きが強いサスペンスドラマとして面白いが、中盤からストーリー展開について「?」と思うことが多くなる。

この「?」に「Nのために」の面白さがあった。

 

どういうことかイチから説明したい。

*すべて個人的な見解です。

 

 

「Nのために」のストーリー構造。

自分が考える「Nのために」のストーリーの基本構造はこうである。

 

①自己が回復しなければならない傷を負う。(親に虐げられた過去)

②回復を求める自己と、自分のみが回復することを拒む罪悪感を持つ自己との葛藤

③親殺しによる回復

④親との和解

⑤故郷への帰還

 

自己回復の回路を辿り、自己を修復し故郷に帰還するまでの話だ。

話自体はそこまで複雑ではないが、その見せ方が何回転にもひねられているので、元の話が見通しづらくなっている。

この「見通しの悪さ」が、「Nのために」で最も面白いと思った部分だ。

 

「回復する自己」が二人に分裂している

「Nのために」では、「回復する自己」が二人に分裂している。

一人は主人公の希美で、もう一人が西崎だ。

ストーリー内では希美と西崎は別人物だが、ストーリーの深層ではこの二人は同一人物=「自己」ではないかというのが自分の考えだ。

「少女革命ウテナ」のウテナとアンシーの関係に近い。

「別人物であると同時に同一人物である」

「少女革命ウテナ」ではこの点はかなり明示的に描かれていたけれど、「Nのために」ではそれほど明示して描かれていないように見える。

この「希美と西崎は同一人物だが、同一人物だとは明示して描かれていないところ」が「Nのために」の面白いところのひとつだ。

 

希美と西崎の不思議な関係

この二人が同一人物であると思う理由は、希美と西崎は、他人には決して伝わらないと思っており、隠しておきたいと思っている、本人にとって大事なことを二人のあいだだけで瞬時に共有できるからだ。

成瀬と希美ならばわかるが、なぜ東京編から出てきたサブキャラでしかない西崎と希美が、こういう特別な関係にあるのか。

「希美と西崎は同一人物では」と思いつくまでは、こういうことをごく当然のようにできる二人の関係が不思議で仕方がなかった。

 

例えば希美の中で最も重要な要素である「罪の共有」という概念を、希美は西崎にのみ話す。西崎は「罪の共有」という概念を正確に理解し、そのあと頻繁に口にする。

また希美と西崎の初めて親しくなる場面で、希美は西崎が普段隠している腕の火傷をすぐに発見する。(このシーンが、サブキャラの一人との出会いにしては、いやに運命的に見えるところが最初に「?」と思ったところだ)

希美と親との関係を西崎は知るし、西崎が母親を見殺しにしたという事実を希美が知る。

希美が野口夫妻に近づくために奈央子のバルブのボンベを締めた、自分がそうやって平気で嘘をつき人を傷つけるのは、同じように平気で嘘をつく親に似たのではないか、ということを告白するのも西崎に対してだ。

西崎が奈央子と不倫していることも、希美にはすぐにバレる。(バラす)

他の登場人物には決して話さないこと、そして他の人間には決して話さないことを、西崎と希美はお互いの間ですべて話し、共有している。

 

本来は同じ距離感であるはずである安藤(希美にとっては西崎よりも親しい)には、希美も西崎もこういったことは話さない。

安藤は二人の深層に眠る傷跡に関連する事柄については、常に蚊帳の外におかれている。

 

あえて言うなら、希美と西崎の距離感はおかしい。この年代の特に異性同士にある緊張感がまるでない。

というより同性の親友であっても、もっと言うなら家族であってもあるはずの「自分とは別の人間との距離感」ではないのだ。

これは「野ばら荘の部屋の出入り」を見るとすごくわかりやすい。

安藤や大家も含めて親しく行き来しているように見えるが、安藤は例えば成瀬が希美の部屋にいる(と思われる)ときは入ることをためらう。

それに対して西崎は成瀬が部屋にいるときも、遠慮なく希美の部屋のドアを開ける。どころか安藤が部屋に入るのをためらい、外から「杉下」と呼びかけたとき、希美の代わりに部屋に「入ってこい」という許可を与えるのは西崎だ。

希美が安藤の部屋を一人で訪れる描写はほぼなかったのではと思うが、比べて西崎の部屋に一人で訪れる描写は多い。

 

希美と西崎が「部屋(自分個人の領域)を共有している」ということが最も明示的に描かれているのは、希美の母親が野ばら荘を訪ねてきたシーンだ。

希美は西崎の部屋におり、西崎と二人で母親が希美の部屋の前で騒ぐのを息を殺して聞いている。

最初はなぜ西崎が「留守みたいだ」と言って母親を追い返す…つまり大家がしたような対応をしないのかが不思議だった。

別の言い方をすれば、なぜこのシーンで「他人である」西崎が既にいるのに、大家という「母親を追い払ってくれる別の存在が必要なのか」が不思議に思えたのだ。

しかし希美と西崎が同一人物だ、と考えると、西崎が希美の母親に対応ができないのは当たり前だ。西崎も母親の前には出られないのだ。

このシーンの西崎の表情は「どんな事情があるかわからず、様子のおかしい希美を気遣う」ものではない。明らかにすべて事情を呑み込んでいる、というより希美と同じ感覚を共有している。

さらに西崎は、初めて会った希美の母親の言葉を「声で分かるだろ、仮病だ」と断定的に言って、母親に引き寄せられそうになる希美の心を引き留めている。

そしてそのあと希美にとって最も大切な事柄である「成瀬との罪の共有」を、瞬時に共有する。

 

安藤ではなく西崎と希美が隣同士で、お互いの部屋を自由に行き来できるのは、二人が物語の深層で同一人物であるためだ。

部屋の扉を叩き、入れてくれと懇願する希美の母親の前に希美が出られないように、西崎も出られない。二人は同じ部屋に閉じこもり、ジッと母親が立ち去ってくれるのを待つ。

野ばら荘は希美(=西崎)にとっての心である。

野ばら荘を共有することで、希美は西崎と別人物であると同時に同一人物なのだ。

自分の心である野ばら荘を守るために、希美と西崎は「N作戦」を思いつく。

 

自己回復のための方法論である「罪の共有」

「Nのために」のメインテーマである「自己回復」のための方法論として出てくるのが、「罪の共有(=究極の愛)」という概念である。

親から傷を負わされた希美は、成瀬と「罪の共有」を行うことで自己回復をはかる。

しかし最終的に判明したように、他人である成瀬とは「罪の共有」はできない。だから希美は東京にきても母親から逃れることができない。

ここで、もう一人の自己である西崎が出てくる。希美の問題はシームレスに西崎に移行する。

移行したために希美の母親は出てこなくなるが、「自分を閉じ込める親からどう逃れるか」という問題は消滅しない。

消滅していない「母親」の役割を、奈央子が引き受ける。

奈央子は希美にとっては、「一人では生きていけないから自分にしがみつき閉じ込めようとする母」であり、西崎にとっては「自分を愛しているがゆえに虐げる、見殺しにした母」だ。

また西崎にとっては、「閉じ込められ虐げられる自分」でもある。

このため、西崎と希美の奈央子に対する見方は対立し、お互いの言い分をぶつけ合う。

 

希美(=西崎)は青景島では「罪の共有」ができず傷が回復していないため、再び成瀬に「罪の共有」を求める。

安藤がN作戦やN作戦Ⅱの参加を拒まれるのに比べて、希美とは再会したばかりで西崎とは面識すらない成瀬が、一歩間違えば犯罪になりかねないことに協力を依頼されている。

希美は多少は止めているが、安藤へ不参加を勧めたことと比べると、それほど強くは止めていない。

希美が助けを求めるのも、西崎が希美を守るように頼むのも成瀬だ。

「Nのために」で、希美(=西崎)が「罪の共有=助け=究極の愛による自己回復」を求められるのは、成瀬だけだ。

これは「Nのために」の最も重要なルールだと考えている。

 

N作戦Ⅱが、西崎、希美、成瀬の三人によるものなのは、このためだ。

しかし成瀬とは「罪の共有」はできず、罪は自分一人で向き合うしかない、そうすることでしか自己回復はできないことに、西崎と希美は気づく。

だから最後に「愛はないかもしれないが罪を共有する」のは、「自分である」西崎と希美なのだ。

二人は「罪の共有」ではなく、自分を抑圧し閉じ込める親を向き合い殺す(親の本性を直視し認める)ことで、親との葛藤に蹴りをつける。

 

その後、十年の自己回復の期間を経て希美と西崎が再会したとき、二人はお互いに「この十年は無駄ではなかった」と言い、お互いの傷、希美は冷蔵庫に食料を詰めなくなり、西崎は火を昔ほど怖がらなくなったことを確認する。

自己回復した二人は故郷に戻り、西崎は父親と、希美は母親と和解する。

 

希美は「罪の共有による自己回復」では母親から逃れきなかった。だから続く東京編で、もう一人の自己である西崎が再度成瀬に「罪の共有」を求める。

青景島編と東京編で、「罪の共有=究極の愛による自己回復」という同じことを違う人物が違う事象で繰り返しているのだ。

「Nのために」は、「他人との罪の共有による自己回復」を二回試み、その失敗により「葛藤は自分で乗り越えるしかない」ことに気づく話であり、自分の手で自己を回復させ生きていく話である。

 

分裂した自己は必ず一人に戻る

希美と西崎は「自己回復の方法の一環として分裂した自己」であり、ストーリー上は別人になっている。

何故分裂しなければならなかったか。

分裂しなければ「自分を虐げ閉じ込めるのは愛しているからだ、という母親を捨てる罪悪感」を振り切って外に出られないからだ。

希美は東京に出るために、「母親を振り切る罪悪感」をマイナス面として切り捨てた。その切り捨てたマイナス面が西崎だ。

自分の心を守り回復させるために一時的に分裂していても、自分はこの世にたった一人だ。だから最終的には一人に統合されなければならない。

希美が物語で死を宣告されるのは、このためだと思う。

自己回復が果たされ、二人に分裂する理由がなくなれば、希美と西崎のうちどちらかは消滅しなければならない。

西崎が安藤に希美のことを聞かれたときに、「あの日がなければ杉下は幸せになっていたんじゃないかと思うと胸が痛む」と答えたのは言いえて妙だ。あの殺人事件による自己回復がなければ、西崎がマイナス面を引き受け続けることになり、もう一人の自己である希美はそのまま自分の人生を歩み続けただろう。

マイナス面を引き受ける西崎が回復を果たしゼロになったことで、希美は消滅しなければならくなったのだ。

 

「無能な他人」成瀬のすごさ

希美が「罪の共有という自己回復」を求められるのは成瀬だけだが、成瀬とは「罪の共有はできない」。

「Nのために」のややこしくも面白い点はここにもある。

シャープペンの合図を「すごい」以外はわからない、奨学金は譲られたものではないのに譲られたものだと勘違いしていた、しかも「夢を譲られた」と思っていたのに進路変更してしまう(夢を共有しない)、成瀬が大切に思っていたひと言を希美は覚えていない。二人を結ぶ重要な要素のひとつである将棋でさえ、成瀬が教えた手で野口の勝利が確定し希美が追い詰められる。 

極めつけは希美が自己回復方法として考えていた「罪の共有」さえしていなかった。

希美は西崎とはすべてを共有できるのに、成瀬とは何ひとつ共有できない。

成瀬と希美は罪どころか、認識すらも共有できないようになっている。

成瀬は他人なので、「物事(罪)の共有はできない」のだ。

 

成瀬は、実際的な助けも何ひとつできない。

希美が両親との関係に苦しんでいたときも、希美の両親に働きかけることなどの実際的な援助はできない。N作戦Ⅱからは、最後の最後で外される。 

成瀬の一番の特徴は、希美(=西崎)との関係における「無能さ」「無力さ」にある。

成瀬は、希美(=西崎)の問題に干渉し、物事を動かす力はない。

成瀬にできることは「ただ一緒にいること」だ。

だから島にいたときの希美から成瀬への感謝の言葉が「一緒にいてくれてありがとう」であり、成瀬から希美への言葉が「ただ一緒にいよう」なのだ。

 

他人は自分の課題を解決することはできない。認識を共有することすら難しい。

しかし助けを求めることはできる。

助けることはできなくとも、「助けを求めること」「ただ一緒にいること」が支えや救いになる。

成瀬を自分のことを何でもわかってくれ、助けてくれるスーパーマンにしなかったところ、成瀬が「認識を共有することもできない、物事に干渉する力もない無能な他人」であるところにこの話のすごさがある。

 

「閉じ込めた代償を払う」安藤

一般的な恋愛ドラマとして「Nのために」を見ると、希美が安藤と成瀬、どちらを好きだったのかを判別するのは難しい。

タイトルにまでなっている「Nのために」の「N」は、普通に考えればその人物にとって最も大切な人が当てはまると考える。実際、希美以外の登場人物は全員そうだった。 

希美は自分にとってのNである安藤のために、自分も西崎も犠牲にした。

前述した通り、西崎はイコール自分である。希美は安藤の未来を守るために、自分を犠牲にしたのだ。

では、安藤は希美の最も大切な人なのか? というと自分は違うと思う。

このときの希美にとっての「N」は、安藤に仮託された「未来に向かう、上しかみない自分」である。

安藤は希美にとっては「上の世界、未来」の象徴であるが、西崎とは違い「自己」ではなくあくまで「他人」である。しかしこの時のみ、「下を見ない、上を向く自己」を仮託される。

なぜ仮託できたのかといえば、安藤は希美と西崎を「閉じ込めた」からだ。

チェーンをかけ、自分のマイナス面を閉じ込めた、「自己を閉じ込めた」ということを以って「下(マイナス)を向かず、未来(プラス)しか見ない自分」を安藤は希美(と西崎)から仮託されたのだ。

だから安藤は最後に「希望を持ち未来に向かう自分」として旅立つ。

安藤は「望」という名前が示す通り、希美(=西崎)の希望を託された存在なのだ。

 

以上を踏まえて、野口夫妻殺人事件の構図を見てみる

という考えを基にして、野口夫妻殺人事件を見てみる。

 

プラスしか見ずに未来に向かう自己(安藤)が、自己のマイナス面(希美と西崎)を親と共に閉じ込め置き去りにする。

自己(奈央子)が、抑圧し閉じ込める親(野口)を殴り殺す。

閉じ込められ「一人では生きていけない」自分(奈央子)が死ぬ。(消滅する)

自分を閉じ込め利用する母親(奈央子)が、自己(西崎)に謝罪して死ぬ。

希美(自分)と西崎(自分)が「罪を共有」する。

希美(自己)が唯一助けを求められる相手である成瀬(他人)に助けを求める。

自己回復が始まり、十年の月日を経て、マイナスからゼロになる(西崎)

自己回復したため(冷蔵庫に物を詰めなくなる、火を恐れなくなる)西崎と希美は「一人の自己」に戻る。(希美の死)

 

(野口)抑圧し閉じ込める親

(奈央子)抑圧し閉じ込め、すがりついてくる母親。抑圧され虐げられながら、「一人では生きていけない」とその関係にすがりつく自分。

(希美)自分

(西崎)マイナス面を引き受けてきたもう一人の自分

(安藤)自分のプラス面を仮託することができる他人

(成瀬)助けてと言える、そばにいてくれるだけの他人。

 

まとめ

ドラマ「Nのために」がすごいと思うのは、物語内で語られることに対して誠実なところだ。

成瀬が希美や西崎が抱えるものに対して無力で無能であるところ、西崎と希美が都合よく分裂したまま終わらないところ「こうしたほうが話が盛り上がるし、見ているほうも気持ちよく納得しやすいし、書き手も話が動かしやすいのでは」と思う箇所でも、それまでの物語が語って作り上げてきたものを裏切らない。

奈央子が自分を虐げる野口を愛して、西崎をただ利用していただけだという点も、現実的に考えれば納得しがたいし奈央子のそれまでの言動を見ると無理があるのではと思う。

しかし物語的には必ずそうでなければならない。何故なら希美が逃げてきた母親も、そういう人間だったからだ。

「罪の共有」は西崎と希美のあいだでされなければならないし、野口を殺したのは現実的には奈央子でも、真実では希美と西崎なのだ。正確には、奈央子=西崎=希美が共有する「虐げられ閉じ込められた自分」が「自分を虐げ閉じ込める親」を殺したのだ。

だから西崎は安藤との会話でも、

「旦那を殺したのは俺だよ。まさか殺すことになるとは思わなかった」

とはっきりと述べている。

西崎が「旦那を殺したのは俺だよ」と断言するところに、この話のすごさがある

 

「自己が希美と西崎に分裂したまま、両方とも幸せになる」という気持ちよい終わり方に安易に陥らず、「自己が分裂したのはあくまで生きるための時限的な措置であり、その必要がなくなれば解消される」ところも誠実だ。

希美と成瀬には幸せになって欲しいが、話的にはそれでは収まりが悪い。消滅することを示唆しつつも、「幸せに生きる可能性も残す」ところが絶妙だ。

 

ここまで複雑なひねり方をしていても、うまくまとまっていて面白い話はなかなか見ない。自分の中で間違いなく傑作と言える作品のひとつになった。

 

この記事に入らなかった余談。

www.saiusaruzzz.com

 

「無能(力)な男が相手役の『女攻めの恋愛モノ』はないのか?」→「『Nのために』を見て、成瀬に萌えろよ!」|うさる|note

 

 

小説は表紙を見ても、もう少し西崎よりの話なのだろうか。

Nのために (双葉文庫)

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  • 作者:湊かなえ
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