うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

天城一の密室分類で「かまいたちの夜」を考えてみた&雑談

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*本記事には「かまいたちの夜」の重要なネタバレが含まれています。 

かまいたちの夜

かまいたちの夜

  • 発売日: 1994/11/25
  • メディア: Video Game
 

 

天城一の密室犯罪学教程 (宝島社文庫)

天城一の密室犯罪学教程 (宝島社文庫)

  • 作者:天城 一
  • 発売日: 2020/07/04
  • メディア: 文庫
 

 「天城一の密室犯罪学教程」を読んでいる。

「実践編」が分類ごとの密室を取り入れた短編で、そこで使われた密室の分類を「理論編」で語るという仕様になっている。

 

フェル博士が「密室講義」で排除した「抜け穴密室」が第一分類にきている。

「抜け穴密室」はトリック単体だけを見るとなんだかなと思うが、クリスティの「メソポタミヤの殺人」我孫子武丸の「8の殺人」(*ネタバレ反転)のように、演出次第では面白いと思うものもある。

「時間差密室」や「逆密室」がいわゆる「密室もの」では多いと思うけれど、「プラスよりもマイナスのほうがずっと難しい」などの蘊蓄が読んでいて面白い。

 

先日、久しぶりに「かまいたちの夜」を思い出したので、「かまいたちの夜」は密室分類のどれに当てはまるか考えてみた。

 

「かまいたちの夜」の事件は厳密には密室ではなくアリバイトリックだ。

「密室犯罪学教程」でも密室とアリバイトリックはわけて考えているが、事件の謎の焦点が「犯人はいつ田中さんを殺しバラバラにしたのか?」なので、「(表面上)犯行が可能な約一時間」(下記)を疑似密室と仮定して考えてみた。

 

19時55分 夕食終了 田中が二階にあがる

21時すぎ 田中の部屋のガラスが割れる。→遺体発見

 

分類としては

第五分類 時間差密室(+)

第七分類 逆密室(+)

を掛け合わせたものだと思う。

 

ある領域Dが、密室となる最初の時刻をA、最後の時刻をBとします。

数学的な記号を使って表せば

密室=D×(A、B)

です。(略)

時間差密室犯罪の特色は、実際に殺人が行われた実犯行時刻Rが、上記の(A、B)の中に入らないように工面することにつきます。

時間差密室犯罪構成原理 いかにもSがAとBの間にあるかのように偽装する。時間差密室犯罪が俗に「心理的」と言われる理由は、偽装によって読者が錯覚を起こすところを表現したものです。

(引用元:「天城一の密室犯罪学教程」天城一 宝島社 P250-P252)

 

A:19時55分 夕食終了 田中が二階にあがる

B:21時すぎ 田中の部屋のガラスが割れる。→遺体発見

のあいだに「田中が殺害され、バラバラにされた」と錯覚させる。 

 

AB間という密室に「田中(仮)の遺体」と「生きてる田中(仮)」という観念を持ち込むことで、「(A,B)でのみ、田中さんが殺されることが可能」と他の登場人物や読者に錯覚させている」というのがトリックの肝だ。

 

第五分類「時間差密室(+)」にも「犯人が被害者に変装し、被害者が生きている時間を錯覚させることで、犯行時刻を錯覚させる」という例示が載っているように、古典的なトリックだ。

トリックが古典的でありがちでも「かまいたちの夜」が面白く再読に耐えるのは、ストーリーや演出の力が強いからだと思う。

 

本書で天城一が主張する「一言に要約して、密室犯罪はメルヘンです」というのはその通りだと思う。

「魔眼の匣の殺人」で書かれたクローズド・サークルへの言及と重なるが、本来、犯人にとって疑惑は分散すればするほど有利になる。「この状況だったら、必然的に犯罪可能な人物が特定されてしまう」ような、容疑者を絞りこむ手がかりになるような限定された条件は作らないほうがいい。(特定の人に疑惑を向けさせるためにやるのは、リスクが大きすぎる。)

ミステリーで「謎や状況が限定されたもの」なのは、それが「解かせるための謎」だからだ。本来の犯罪とは目的が相反しているから、密室も含めて「本格」はメルヘンなんだなあ、ということをツラツラ考えた。

「犯人はそうするつもりがなかったのに、結果的に密室になった」話が意外と多いのは、そのためだと思う。

 

その荒唐無稽で語りつくされたおとぎ話にいかに読者を引き込み、夢中にさせるかに本格ミステリーの見せどころがあるのではないかと思う。

 

なので自分も天城一が本書を記した動機である、乱歩への反論として書かれた

「トリックというものは、探偵小説にとってそれほど尊いものか?」

「探偵小説の本場の海の彼方でもないものを、なぜ先生は探偵小説の一番肝心なものに据えてしまったのでしょうか。

先生のレジームの下に、トリックが探偵小説の基本ではないという自由は失われてしまっていなかったでしょうか。

という言葉には、深くうなずくものがある。

素晴らしいトリックを見ると感動するけれど、トリックを生かすのも殺すのもストーリーの力だと思っている。だからこそこれだけミステリーが書かれても、まだこの先も新しく夢中になるものが読めるはずだという希望が持てる。

 

「トリックが推理小説の肝ではなく、大したものでもない」ということを乱歩一人に訴えるために、こういうもの一冊まとめてしまうのは控え目に言っておかしい(誉め言葉)

この教程自体が、乱歩への愛憎が混じったファンレターにも見える。その愛憎が濃縮され爆発した献辞は、本編と同じくらい、というよりそれ以上の読み応えがあった。

この時代の推理小説界(?)について詳しいことはわからないけれど、「推理小説とは何ぞや」という論争もあったようだし、色々とあったのだろうなと思う。

 

「青空エール」の山田が「一生懸命やっているとさ、もめるんだよね」と言っていた通り、これだけ熱い本が書かれるくらい、推理小説に情熱を向けていた人たちがいたんだろうな。

山田はマジでできた奴。