*ネタバレがあります。「刻刻」を未読・未視聴のかたはご注意ください。
堀尾省太原作「刻刻」のアニメを見た。
同じ作者の「ゴールデン・ゴールド」が好きなので、アニメを見てみた。
無茶苦茶面白かった。
アニメは原作とはかなり絵柄やキャラデザインが違う。原作のシンプルな絵柄もいいけど、どちらかと言えばアニメのカラフルなデザインのほうが好きだ。
樹里が滅茶苦茶美人で大人っぽくなっている。
「刻刻」には他の作品にはない、いくつか好きなポイントがあるのでそれを述べていきたい。
「誰も止界の全体像が分からず、手探りで止界のことを知っていくしかない」
一番面白いなと思ったのは、この点だ。
佑河一家はもちろん、佑河一家を罠にはめた佐河も間島も、止界のことをよくわかっていない。
戦いながら、止界の中で実際に色々なことを試して自分たちの考えが正しいかを確かめ、止界のルールや成り立ち、神ノ離忍の習性を知っていく。これがすごく面白い。
原作の八巻で間島が「でも結局、私達は、何がどう作用するのかあれこれ試してみて、帰納的に推測することしかできない」と言っている通りだ。
多くの場合、主人公サイドが世界の検証をすることで話が進んでいくことが多い。
「刻刻」では主人公サイドは何が何だかわからないうちに事態に巻き込まれる。「家族との元の生活」以外望むものがないため、止界の検証をほとんど行わない。「止界が何であるか」という興味もない。
敵である佐河が止界の検証を積極的に行っているが、結局最後まで止界が何であるかは「そういうものだ」ということ以外よくわからない。
そこから想像できる止界の広大さと、実際に物語の舞台となるのが佑河家の近所の止まった時間内という狭さの対比が、主人公である佑河家と佐河の世界観の対比にもなっている。
「登場人物が少しずつ減っていく、クローズド・サークルの面白さ」
「刻刻」は止界の中で物語が終始するため、止界に入った限られた人数のみで話が進行していく。
一度止界から出されたら戻れないし、人がどんどん死んでいくため、登場人物は一人ずつ減っていく。新たな登場人物は基本補充されず、話の範囲はどんどん狭まっていく。
まるでクローズド・サークルを舞台にしたミステリーのようだ。
多くの話が、物語開始地点から遠くにある終幕に向かって進んでいくのに対して、「刻刻」は最初に佑河家の周りに円が描かれ、それがどんどん狭まっていくイメージだ。
「登場人物たちの言動や運命が、予測から少しずつずれている」
「刻刻」は「お約束的な展開」から、少しずつずれた展開をしていく。
「少しずつ」がポイントだ。
「予想通りの展開」だが、それが起こるタイミングや起こすキャラが少しずれている。
この「少しずつのずれ」の積み重ねによって、予想の範囲内の展開なのに、まったく予想しない結果につながったりする。
例えば長男の翼は誘拐されたあと、自力で逃げ出したため主筋に絡むのかと思いきや、止界のことは何ひとつわからず、真以外の家族とはほとんど顔も合わせずに止界から出される。
佐河の右腕だった柴田は、最後まで佐河と共に佑河家の前に立ちはだかるのかと思ったが、中盤であっさり死ぬ。しかも、そのパターンは既に何回も行って検証済みのことだから死なないだろうという場面で死ぬ。
雇われ組の中でもリーダーの加藤が止界からすぐに出され、それまでほとんど目立たなかった迫が、最後まで樹里たちに協力する。
「このパターンはこのキャラの役割になりそうなところを、他のキャラが請け負う」など少しずつパターンからずらしている。
「お約束の展開のはずなのに、まったく見たことがない展開」という不思議さがある。
「登場人物たちの『噛み合ってなさ』がリアル」
登場人物は佑河一家、佐河たち真純実愛会、佐河に雇われた者たちと三グループに分かれている。
この三グループはそれぞれ目的が違ううえに、グループ内でもお互いに思惑や認識が噛み合っていない。
この「噛み合ってなさ具合」がすごくリアルだ。
樹里やじいさんは、よく知っているからこそ貴文の言動を余り信用していない。時にお荷物扱いする。
貴文は家族を思っている部分はあるものの、樹里やじいさんと認識や情報を共有せず、二人を出し抜こうとする。
にも関わらず、佑河家は固い絆と気持ちで結ばれた家族なのだ。
お互いの関係性の中で歴史を築いてきた家族は、外から見るとよくわからない不思議な成り立ちをしている。しかしちゃんと家族として成り立っている。
こういう曖昧な部分、白黒がつかない関係性にリアルさを感じる。
「説明しすぎず余白が広大なので、想像する楽しさがある」
「刻刻」は「止界で起こっている『いまここ』の出来事」以外は、ほとんど説明されない。
登場人物の背景も、翼はなぜ引きこもりになったのか、貴文はなぜ家族ですら引くような側面を持つのか、真の父親は誰なのか、そういう「止界の出来事」に関わりない部分はほとんど触れられない。
発端となる佐河の生い立ちもそうだ。
佐河が止界で行ったことと望んだことと、語られた生い立ちのトラウマの落差が大きいため、語られなかった何かがあるのだろうと想像が膨らむ。
自分がこの話で一番興味をそそられたのは、七話で佐河が語った「大円行記」への考察だ。
「宗教の経典は思想体系や価値観を、神話や史実になぞらえたものが少なくない。だが『大円行記』は全て逆のものだ。思想を語るように装いながら、創始者がその目で見た事実及び止界内での実験と考察の克明な記録だ」
余りに荒唐無稽な記述なので何かのメタファーとしか思えずその前提で考えていたら、目で見たままの事実でした。このパターンは「魍魎の匣」(*ネタバレ反転)を思い出す。
「書いてある内容が荒唐無稽だから、思想を象徴的暗喩的に語ったものだ」と決めつけず、「200年にわたる記述が筆跡鑑定で同一人物もの。ということは、ここに書いてあることは事実なのかもしれない」と考えられる佐河はすごい奴だなと思う。
最後に創始者がマリヤに連れられて止界に来た時の記録だ、と明かされるが、この辺りの謎がもう少し前面に押し出されていたほうが自分の好みだ。
ただ人間の感覚ではわからない深遠な世界の、ほんの片隅の小さな出来事、という切り取られ方自体がとても好き。
登場人物ではじいさんが好き。あんなおじいちゃんにいて欲しい。