昨日、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回を見た。久しぶりに大河ドラマを完走した。
最初に感想を言うと「イマイチだった」
自分が「このドラマはここがいいな」と思う部分と「そこはどうだろう?」と思う部分の力点の置かれ方が、特に後半は真逆だったところが「イマイチ」という感想になったポイントだ。
最も「どうだろう?」と思った部分は、話の動きが少なすぎるところだ。
後半は「光秀が誰かと話して、その話の内容が今後の展開をそのまま説明していてその通りにストーリーが動く」ほぼこの作りだった。
これには二つ問題があって
①会話のみの劇である。
②ストーリーを見せるのではなく、説明してしまっている。
どちらもストーリー性を重視するドラマでは致命的だと思うけれど(①は、例えば日常生活を見せるドラマなど、ジャンルによってはいいと思う)そのどちらもやってしまっている。
それ以前に、いくら何でも色々な人に気軽に会えすぎでは、という突っ込みもあるが、それはまあ「主人公だから」(本当はこの部分も、うまく騙して欲しいが)でおいておいても、その相手との会話が「メタ視点で見た時の、ドラマの今後のストーリー展開を説明する以上の意味がない(ストーリー内での意味がなさすぎる)」のが気になって仕方がなかった。
後半はほぼ「出来レース」を見せられているようで、面白くなかった。
これは視聴者から見たときの「歴史がわかっているから、最初から出来レースだろう」という意味ではなく、「ドラマの登場人物たちも先のことがわかっているかのような言動をするので、ストーリー内だけで見ても出来レースに見えてしまう」ということだ。
自分の中の「そういうもんだライン」を常に意識させるドラマだった。
後半は「登場人物が入れ替わり立ち替わり光秀に絡むことで、ストーリーを説明しながら尺を埋めている」ようにしか見えなかった。
コロナの影響でそうせざるえなかったのか(←ドラマを見ているあいだ、こういう風に考えてしまうところが何とも)と思っていたが、ラストに雑踏のシーンが出てきたのでそういうわけではなかったようだ。
家康の「三河にも誇りがございます」からの「実は妻子が武田と通じていることがわかった」は、何だったのだろう。いくら何でもエピソードとして意味がなさすぎる。「歴史上あったことだから仕方なく描いている」としか思えなかった。
前半はそれなりに楽しめたが、後半はまったく面白くなかったというのが最終回まで見た感想だ。
「ここは良かった」と思った部分は、ある程度固定的なイメージがあった歴史上の人物の新たな人物像に挑戦したことと、その人物像が最終回まで一貫していたところだ。
「横暴で世の平和を乱す信長を生み出したのは自分だから、その始末を自分自身でつけるために本能寺の変を起こした」
というのは、確かに斬新だ。(賛否はともかく)
「麒麟がくる」の信長は大局観がなく、個人的な承認欲求によって動いている子供のような人物、ということは最初からずっと描かれていた。
母親から疎まれて育ったため、「褒めて欲しい」という欲求が全ての行動のモチベーションになっている。
最初のうちはそんなアホな、と思っていたが、見ていくうちに「これはこれで面白い」と思うようになった。
主人公の十兵衛が個人的な欲望がなく大局のためにのみ動く人物像なので、対比がはっきりしている。
「信長は十兵衛から世界観を与えられ、その世界観を叶えることでみんなが褒めてくれることがモチベーションだった。しかしその世界観が自分のものとして身についていないため、強い力が根なし草のように暴発していまった。十兵衛は自分の理想(麒麟がくる世の中)を叶えるために生み出した『信長』を、自分自身の手で葬るのが責任だと感じ、本能寺の変を起こした」
というのが、自分が考える「麒麟がくる」の骨子だ。
歴史上どうかということは抜きにして創作としてのみ見た場合、今までにない面白い見方だ。
信長と十兵衛の人物像、二人の関係性はこの骨子に基づいて終始一貫しており、信長が「十兵衛、十兵衛」と言い続けるのも、些細なことで裏切られたと疑い激高するのも、自分を討ちにきたのが十兵衛だとわかって顔を輝かせて笑う(すごく良かった)執着ぶりも納得がいく。
十兵衛は信長の創造主であり、特に信長は強い絆を感じている。表向きの関係と内実の関係が転倒しているねじれ構造が二人の関係の難しさであり、こじれた要因というのも見ていて面白かった。
信長はこの人物像と染谷将太の力演が掛け算のような相乗効果を生み出し、今までの信長とは一味違う魅力を持った人物像に仕上がっていた。
普段ドラマをほとんど観ない相方が、染谷信長を見るためだけに「麒麟がくる」を見ていたくらいだ。
「二人の何十年にわたる濃密な関係性」に収れんする話なので、「大河ドラマだから」と余り考えず、ここに全力を注入したほうが良かったのではと思ってしまう。
「麒麟がくる」の面白いところは、世の中(ストーリー)を動かせる力を持つ登場人物はほぼ全員「大局観(こういう世の中にしたいという野望なり理想)を持たず、個人的な体験や感情を基盤とした物の見方のみで動いている」ところだ。
「俯瞰的な世界観を持っているのは光秀だけ」ということは前にも書いた。
「鳥の目と魚の目」は、光秀以外ほぼ誰も持っていない。(正親町天皇など「持っている風」の人はいるが、そういう人物はストーリーを動かす力は持たない)
最初のころは違和感があったけれど、続いていくうちに「むしろ面白いのではないか」と思うようになった。
個人的には「歴史上の登場人物が、ごく個人的な体験からの物の見方のみで世の中を見て動かしてしまう」のが「麒麟がくる」の今までにない斬新さで、ここがもっと突き抜ければ「歴史ものとしてトンデモすぎないか」という意見はありつつもドラマとしては面白くなったのでは、と思う。
「麒麟がくる」は秀吉像も面白かった。
最初のころの無邪気に「出世すれば飯が食える」と思っていたころから「やればやるほど報酬が返ってくるという奇跡が起こったから頑張る」に変化し、そのあとの出世すればするほど猜疑心や虚勢が強くなり卑屈になっていく感じが「こういう人いるなあ」と思えて良かった。
このあたりもブツ切りで描かず、一貫して描こうと思えばもっと面白い人物になっていたと思う。
自分は「麒麟がくる」の秀吉像が好きなので、「秀吉という人物像」ではなく「十兵衛との対比」としてしか描かれなかったのがものすごく残念だった。
佐々木蔵之介だったら「のし上がってきた人間のエリートへのコンプレックスと憎悪、その裏返しの卑屈さとへつらいっぷり」をうまく演じてくれただろうに。
「信長さまは結局、家柄を重視する」とか太夫が「あの人は武士を憎んでいる」とか描こうとする姿勢は見えるのに、それがこういうひと言説明だけで終わってしまうのがもったいない。
前半でいえば道三はもちろんだが、伊藤英明が演じた義龍も好きだった。父親への複雑な愛憎が言葉にできず、何周もひねって表に出ている感じがいい。伊藤英明は今までそれほど好きな俳優ではなかったけれど、義龍はハマり役だった。
帝王教育を受け、武士の棟梁にふさわしい風格を身に着けていた義輝も良かったし、義輝との対比で、庶民的な物の見方と性格、時にそこに引け目を感じる義昭像も良かった。
義昭役の滝藤賢一は間違いなしだったが、意外と良かったのが義輝役の向井理だ。
十兵衛の理屈抜きの「武家の棟梁として尊ぶべき存在」という崇拝に、一瞬で共鳴できるような悲哀と気高さを兼ね備えていて、それでいながらちゃんと人間臭さもある。「無力で滅びゆくものの美しさ」が伝わってきた。
向井理は出始めのころはイマイチだと思ったけれど、見れば見るほどいい俳優になっていく。
悪く描かれがちな松永久秀も狡猾な部分もあるが憎めない快男児として描かれ、吉田鋼太郎がその魅力を余すことなく演じ切っていた。出てくるだけで楽しい気分になれた。
「麒麟がくる」は、俳優陣の力演もあり人物像だけを見ると面白い要素がたくさんあったが、ストーリーを動かすのが余り上手くなかった。
後半は「結論に向かってストーリーを説明している感じ」に見えてしまった。
「説明する創作」ほどつまらないものはない。
リアルタイムで見ているときは、「『十兵衛が誰かに会って思わせぶりに話すだけの話』になってしまったなあ」と思っていたが、観終わったあとにこうやって思い返すといいところがたくさんあったし、色々と考えられていたドラマだった。
「十兵衛による信長育成の失敗譚」を全面に押し出しても良かったんじゃないか、と思うけれど、それでは大河ドラマではなくなってしまう、など葛藤があったのかもしれない。