スターリンの時代に行われた、モスクワ裁判をモデルにした本。
党の最高幹部であり英雄だったルバショフは、「党を裏切り、ナンバーワンの暗殺をもくろんだ」という嘘の自白をして処刑される。
ルバショフはなぜ、それまでの自分の名誉を踏みにじるようなでっち上げられた罪を認めたのか。
先日読んだ笠井潔の「テロルの現象学」で、「党派観念」の例示としてあげられていて興味を持った。
「党派観念」に基づいて生きている人間がどういう思考回路をしているか、ということが克明に語られている。
自分が一番、「こういう考え方をしているのか」とわかりやすかったのは、ルバショフがリチャードに「党」とは何かを説明するシーンだ。
党は誤謬を犯さない。(略)
私もきみも誤謬を犯すことはある。
党は違う。党はだね、同志、きみや私や、その他何千もの人々以上のものなのだ。
党は歴史における革命理念を体現したものなのだ。歴史は躊躇しない。逡巡しない。
ゆっくりではあるが過つことなくゴールへ向かって進んでいく。(略)
歴史は己れの道を知っている。けっして誤謬を犯さない。
歴史に絶対的信頼を置けぬ者は、党の戦列にはいられないのだ。
(引用元:「真昼の暗黒」アーサー・ケストラー/中島賢二訳 岩波書店 P70/太字は引用者)
この言葉で、この話のすべてが説明がつく。
「党派理念」を持つ党の構成員にとって「党とは革命理念そのもの」であり、自分たちが行っている運動の結末として、どれだけ「ゆっくりで」あろうとも必ず「革命は成就する」という結論は決定されているのだ。
「革命は必ず成就する=革命理念=党の存続」この結論は、決して動かない。
現在起こっている全てのことは、その結論に至る「過程」に過ぎない。「革命が成就する」という結論と矛盾するものは、すべて辻褄合わせのために流動的になる。
帝国主義の国の戦争のための物資の輸送を阻止する、という使命を末端の党員に与えておきながら、党の中央部が資金調達のために物資を輸出することを決めた。
「いま、ここ」だけを見ると、矛盾して見える。しかし「ゆっくりと過つことなくゴールへ向かって進んでいく歴史」の観点から見ると、矛盾していない。
末端に命令を出したときと、党中央部が決定したときでは、「革命の成就」のための最善の道が異なるからだ。
彼は、世界が新たな革命の波を迎えるべく成熟するまでに、十年、二十年、いや場合によっては五十年かかることも覚悟していた。
そのときまで、われわれは孤塁を守っていくのだ。
そのときまで、われわれはただひとつの義務を持つ。
すなわち、滅亡しないこと。(略)
党という堡塁を守るためなら、われわれは外国にあるわが組織を解体することも吝かではなかった。また間違ったタイミングで現れた革命運動を潰すためなら、反動国家の警察と手を組むことも吝かではなかった。
堡塁を守るためなら、友人を裏切り、敵と妥協することも吝かではなかった。
これが、最初に成功した革命の代表者であるわれわれに、歴史が課した使命なのである。
近視眼的な見方をする者や、審美主義者や道徳家にはこれが理解できなかった。
(引用元:「真昼の暗黒」アーサー・ケストラー/中島賢二訳 岩波書店 P356/太字は引用者)
何かの冗談かと思えるような主張だが、党員たちはこれを大真面目に信じ、自ら身をもって実践している。
彼らは「一人称単数」という概念を捨て、「何万人かの個が集合した場合は、個とは党の何万分の一を指し示すにすぎない」と考えている。
「真昼の暗黒」が語る「党派観念」の恐ろしさは、「個の軽視」や「党の絶対性」そのものではない。
どれほどそれが外側にいる人間が荒唐無稽だと指摘しても、そのシステムの内部にいる人間がそれを信じ生きられてしまう、継ぎ目のない完結性にある。
この話を読んで初めて、なぜこういった非人間的で馬鹿げているとさえ思える思考をそのまま受け入れて、その中で生きてしまう人がいるのかようやくわかった気がした。
外から見ればどれほど馬鹿馬鹿しく見えても、ひとつのものとして継ぎ目なく循環するようにできているシステムの内部で、自分自身がその一部になってしまっている場合、そこから自力で抜け出すのは不可能だ。
イワノフが「ルバショフが屈服するときは、臆病心からということはあり得ない。論理によってだよ」と看破した通り、ルバショフは自分が四十年、実際に生きてきた道筋の「論理的帰結」として、やってもいない罪を認め処刑される。
「民衆の眼から見て疑う余地のない極悪人、卑劣なわかりやすい裏切者、反革命の象徴」として処刑されることこそ、彼が「革命という堡塁を守る」ためにできる最も有効なことだからだ。
「テロルの現象学」で指摘された通り、彼らは「自分=党」であり、「世界=党」である。自分や世界からの逃げ場がどこにもないように、党から「逃げる」という発想自体がない。
それは自分や世界を捨てるのと同じことなのだ。
とは言っても、「個」という概念に基づいて生きている自分は、今までどうしてもこの考えがピンとこなかった。
「真昼の暗黒」を読んで、「党=自分=世界」以外の世界観を持たないということがどういうことなのかがようやくわかった気がする。
最後の「同志ルバショフ」に対するグレトキンの説得には、うっかり気持ちが高揚してしまったくらいだ。危ない。
ルバショフは自分が生きてきたことで作り、自分自身がその一部だった円環に閉じ込められ、最後にはその円環内部の「論理的帰結」として自白し処刑された。
イワノフの同じ道を辿って処刑され、ルバショフを追い詰めた側のグレトキンは、ルバショフの立場であればほとんど抗弁せずに、党のために死んだだろう。
外から見ると歪でグロテスクな円環は、内部から見ると案外、普通の輪にしか見えない、そういう恐ろしさが骨身に染みる話だった。
「1984年」を書くにあたって、参考にされたらしい。