うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

伊藤昌亮「ひろゆき論ーなぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのかー」を読んだ感想。

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伊藤昌亮「ひろゆき論」を読んだ。

この記事で一番良かったところは、自分自身の感覚や感情はおいておいて、「ひろゆきの言動への支持が広がるのは何故か」という理由を解き明かすことを重視しているところだ。

記事を読もうと思ったきっかけも「『自分が理解しがたい言動が支持される構図』を考えようという姿勢がある」という紹介を読んだからだ。

 

自分がこの記事の要点だと思ったのは、この部分だ。

(リベラル派の「弱者リスト」の構成員に含まれない)人々は、リベラル派のプログラムで救済されることはない。

(引用元:「ひろゆき論ーなぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのかー」伊藤昌亮 世界2023年3月号 P186/太字・括弧内は引用者)

 

自分が読み取った限りだと、「ひろゆき論」の主旨はこうだ。

ひろゆきを支持しているのは、いわゆる「ダメな人」である。

「ダメな人」*1とは何か。

既存の社会では「損をする立場」にあり、ゆえに「自分は弱者である」と思っている。しかしリベラルが救済対象としている「弱者」の中には入らない。

「ダメな人」は既存の社会の中では、自分たちは割を喰い這い上がることも出来ない「弱者だ」という感覚がある。

しかしリベラルの思考の枠組みの中では、「弱者(救済の対象)ではない」どころか、時に「強者」としての責任を追及される。

そういう彼らに対して、「社会の仕組みを利用して、強者の側に回れる方法(プログラム)を提示する」だからひろゆきは支持される。

 

この話で「なるほど」と思った点が二点ある。

ひとつめは、他人からどう見えようともひろゆきを支持する人の中には、「自分は弱者である(損をし続けているし、今のままではこれからもそうだろう)」という感覚があるということ。

ふたつめは、ひろゆきを支持する人は「救済されたい」のではなく、「強者の側(得をする側)に回りたい」という気持ちが強いということ。

(リベラルによる)弱者とは搾取されるばかりの存在であり、したがって連帯し、運動し、集団としての権利を主張しなければならないとする見方だ。

こうした見方は、しかし「ダメな人」を力づけるものではない。そこでは弱者が、搾り取られる側の存在として規定されてしまっているからだ。(略)

こうしたことから「ダメな人」たちは(略)、リベラル派の見方を拒否することになる。その「弱者観」は彼らを救済するものではなく、力づけるものでもないからだ。

(引用元:「ひろゆき論ーなぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのかー」伊藤昌亮 世界2023年3月号 P187/太字・括弧内は引用者)

 

彼らは今現在は自分たちは「弱者」である、と思っている。

その理由を「社会の仕組み(プログラム)を利用できる立場にない」ということに見出している。つまり既存の「弱者」のように「社会の構造を変革しよう」というのではなく(そこに関心はなく)「それを利用できるか、できないか」に関心がある。

それを知り、利用することが出来さえすれば、自分は(既存の社会でも)強者の側に立てる人間である。

そういう自己像を保証してくれる言動を、支持している。

根底にあるのは不遇感や不全感であり、やるべきことは団結することではなく、自分の能力を発揮する環境を与えてもらう、仕組み(プログラム)を教えてもらうことだ。

「自分たちは弱者であるが、『救ってもらう』存在ではない」

リベラルと彼らの対立は、「弱者像」を巡る対立である。

 

この記事では、ひろゆきの言動への支持とポピュリズムへの類似、違いを指摘している箇所がある。

ひろゆきの振る舞い方は、弱者の味方をして権威に反発することで喝采を得ようとする点で、多分にポピュリズム的な性格を持つものだ。(略)

一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱」に類する存在のように位置づける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特の優越感に満ちた態度が示され、それが彼の信者をさらに熱狂させることになる。

(引用元:「ひろゆき論ーなぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのかー」伊藤昌亮 世界2023年3月号 P188/太字・括弧内は引用者)

この「旧来の権威」は、保守もリベラルも全て入れられる。

ポピュリズムとは違い、彼らは「既存の社会の枠組み」全てをカリカチュアライズすることで、自分の世界観に取り込んでしまう。ネット文化はこういう手法と、すこぶる相性がいい。

自分もネットが大好きだし、「自分の世界観で対象をカリカチュアライズすること」は短文メディアを使っている時点でやっている。だから人のことは余り言えない。一概に良くないことだとも思わない。

ただ「既存の社会、自分以外のものすべてを単純化して自分の世界観に包摂する」のは危うい、ということは忘れてはいけないと思う。

 

ひろゆきの言動を支持する人がどういう人かはわからないが、仮によく言われるような「若い人」ならば、「既存の社会以外の価値観で以て既存社会を叩く、揶揄する」のはさほど特異な現象とは思えない。

ただ「他人(ひろゆき)が提示した世界観*2を無批判に受け入れ、それによって既存社会を単純化する」だけならば、「自分も他人の世界観に包摂されるだけの存在になるのではないか」と疑うことは必要だと思う。

 

自分もこの件については「ポピュリズムと似たようなものでは」と思うだけで、それ以上は特に考えていなかった。

「似ているようで違うところも多い」と指摘されると、なるほどと思える。

賛否はともかく、違う角度からこの話を考えられたので読んで良かった。

 

余談

「ポピュリズムとの違い」については、同じ雑誌に「ミニトランプと評されるボルソナーロ氏の支持層の一部が暴動を起こしたブラジル」と「極右政党が政権に返り咲いたイスラエル」の現状の記事も掲載されているので比較しやすかった。

イスラエルのような国だと、国(属性)の存在不安が大きく、個人の存在不安とダイレクトに結びついて主張が尖鋭化しがち、そしてその「尖鋭化した主張」に存在を託すことでしか不安を解消できないため、凄く難しい構図になる。

既存の社会の構図(保守対リベラル)に対して「自分だけがうまくやる方法」が対立軸として機能するところは、世界的に見ればイスラエルよりも日本のほうが特異なのかもしれない。

 

*1:この記事では「社会の中で得をするポジションにつけず、不遇感を抱えている層」くらいの意。

*2:「単純化すること自体が目的」というところが既存の社会とは違う危うさがあると思う。