うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】村上春樹「女のいない男たち」 自分の特異性をどうやりくりしていくか。

【スポンサーリンク】

 

公開された「ドライブ・マイ・カー」のPVが良かったので、久しぶりに読んでみた。

女のいない男たち (文春文庫)

女のいない男たち (文春文庫)

  • 作者:村上春樹
  • 発売日: 2016/10/07
  • メディア: Kindle版
 

 映画はコロナが治まっていたら見に行きたいけれど……どうかな。

 

ひとつひとつの話を読み解けば、「ドライブ・マイ・カー」で出てくる車の運転は人生を表すとか、「独立器官」の渡会は恋した相手=消化器系と呼吸器系を失ったから拒食症になったとか、木野は傷つべきときに傷つかなかったから護符的な意味の妻と猫を失い、火傷の女を家に招き入れたために蛇に囲まれたのだろう、とか暗喩や比喩を連結して読むことが出来る。

けれども、この本は余りそういう読み方に興味を覚えなかった。

村上春樹の小説の中でもその部分が特に出来過ぎていて、たぶん何か別のことを描くためにこんなにテクニカルな部分を前面に押し出しているのかな、と感じた。

それくらい「出来過ぎ感」が鼻についた。

 

この連作は作品の中で何度か出てきている通り、「部分ではなく総体」で見る(読むではなく)本なのだと思う。

「この登場人物をどう思うか」「この文章の意味は」「この言動は何を言いたいのか」という寄りで見ると、話がぼやけてしまう。

 

自分がこの短編集の総体として見て取ったことは、「自分だけの特異性とどう付き合っていくか」だ。

「自分だけの特異性」は、「人は一人一人違う」「他の人と違う部分、個性」という意味ではない。「自分以外の世界全体との調節が、自分でも不可能なもの」くらいが近いと思う。

具体的に言えば、「ドライブ・マイ・カー」に出てきた盲点、「イエスタディ」の木樽の色々な変わったところ、木野と火傷の女との関わり、シェヘラザードの前世がやつめうなぎだったことなどだ。

「周りとうまく合わせてやっていくために行ったこと」や「誰でも経験する普通のこと」でも、その特異性が浮かびあがってしまうことがある。

「イエスタディ」の木樽が完璧な関西弁を身につけたのは阪神ファンに馴染むためだったし、「独立器官」の渡会が拒食症に陥ったのは恋をしたためだ。

「よくある何ということもないこと」で結果的に、自分の特異性が発現したり発見してしまっている。

 

「特異性」とは何か。

それは癖や信条や趣味や性格などではなく、自分という人間のある種の方向性みたいなものだ。

一度定まると突き進んでしまう「方向性」がいつどこで、何で、どういう形で発現するかはわからない。一回発現してしまうと自分ではコントロールが効かない。その方向性に進んでいくしかない。

車の運転はしているとき、駆動系がいま実際にどう動いているかは見えない。

自分の中の駆動系をどうにかするには、死んだ妻の心を執拗に知ろうとする家福に高槻が言ったように、「自分自身を深く真っすぐに見つめるしかない」のかなと思う。

自己啓発の文言みたいだが、車ならボンネットを開ければ見えるが、自分の体は開けるわけにもいかないし、開けても見えない。

「まっすぐに見つめる」くらいしか出来ることはない。

そうして仕組みや構造がわかったとしても、それは自分の手から離れた場所にいる自分みたいなものなので、ただ動いているのを見ているしかない。

 

そのコントロール出来なさ加減みたいなものが凄く嫌で、どうにか出来ないかとけっこう考えてきた。

でも結局、どうにも出来なさそうなだなと感じている。

この短編集を読むと、その「どうにも出来なさ加減」が身に染みる。