*二章までの感想。
木村汎の「プーチンとロシア人」を読み終えた。
「国民性」という曖昧なものについて述べるに際して、著者は「おわりに」でこのような注意書きを寄せている。
また「国民的性格」という概念はきわめてとらえどころない、あいまい模糊とした概念であるために、学問的な精密な議論になじまないという欠陥も、指摘されるだろう。(略)
同じロシア人といってもモスクワ、サンクト・ペテルブルグなどの大都会に住む知識人や中流階層と、地方に住む年金生活者たちとのあいだでのさまざまな格差は実に大きいだろう。それにもまして、ソ連期にはエリート(選良)と大衆の差は実に大きい。
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P327)
ひと口に「ロシア人」と言っても、その性格、境遇、物の見方は千差万別だ。
人間の属性は国籍だけで構成されるわけではないので、性別や年代、住居、教育環境、職業など様々なものに左右されし、ここに上げた全ての属性が重なるような近い環境で育ったとしても、個人個人でグラデーションは出る。
しかしそういうことを踏まえてなお、「ロシアという歴史と国土を持つ国で生まれ育った人たちの共通点を考えることは、有意ではないか」という前提の下に本書は書かれている。
著者はもうひとつ、国民的性格からその国についてアプローチする「人間学の難しさ」についてこう書いている。
「人間学的」アプローチには、人間が人間を取り扱うむずかしさもつきまとう。研究の主体も研究の対象も、ともに人間だからである。
研究主体自身が、特定の文化の影響や束縛から逃れえない文化的な存在である。当然、偏見や歪みを持つ。
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P328/太字は引用者)
自分がこの本を手に取ったのは、現在、国際的な無法を犯しているプーチンがどういう人間か、プーチンが大統領として巨大な権限を持つ国がどういう国で、その国に住む人がどんな価値観を持って生きているかを知りたかったからだ。
本書で書かれていることは、事象だけを聞くと「え?」と思い、「何故そうなのか」という理由を聞くと、自分が「日本人として生きてきた、この国特有の考え方をしていること」に気付かされることが多かった。
まさに「あなたが深淵をのぞくとき、深淵もまたあなたをのぞいているのだ」だ。
最初に驚いたのは、ロシアでは「スターリンが人気」ということだ。
中国も毛沢東を公で批判する人は未だにいないらしいが、それにしても「人気」というのは解せない。
フルシチョフは、レーニンやスターリンのエリート(前衛や幹部)偏重主義を改め、わずかとはいえ、『人民参加』の原理を導入しようとした政治家だった。それゆえにロシア人民に感謝され、人気が高まって当然ではないか。
私がそう考えたのは、どうやら浅薄な素人考えのようだ。(略)
ロシア人のあいだで圧倒的に人気が高いのは、スターリンに他ならない。(略)
その理由は次のようなものだった。
「スターリンは、仮にどのような誤りを犯したにせよ、彼が第二次世界大戦でヒトラーに対するソビエトの勝利を導いた偉業は大きい」
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P80-82/太字は引用者)
ロシアは天然の要害、国境を持たないために他国や他民族からの侵入を受けやすい。タタール人やナポレオン、ヒトラーなどから歴史上、数々の侵略を受けてきた。タタールに至っては、二百年ほど支配もされた。
海に囲まれていたために、三百年も鎖国が出来た日本とは地理的環境が違う。
外部からの侵入者が多いため、ロシア人は強い強権的な支配者を望む。ドイツから来たエカテリーナ二世のように時には国や血縁も関係なく、その時に一番強い人間を皇帝とし、権限を与えた。
スターリンが大粛清をしようが、というよりむしろその苛烈さこそ強さの証、のようにとらえる節すらある。
ロシアは帝政ロシア、ソ連時代、現代ロシアと通じて、支配者層と被支配者層が大きく分断している。
第一章でも書かれていたが、ロシア人にとっては支配者はイメージとして「神」に近い。ロシアの過酷な環境のような、自分たちには制御不能な苛烈な神なのだ。
その苛烈さは強さの証でもあり、外部からの侵略者から守ってくれる。
「神」は自分たちの存在とは関わりあいなく、荒れ狂うもの、そういう心象が政治への無関心さにつながっている。
ロシアのある女性言語学者は、ロシア人の(政治への)無関心についてつぎのように説明したという。
「アメリカでは、人々が自分たちの政府を恥じることがあるでしょう。たとえばベトナム戦争のときのように。でも、私たちの政府がチェコスロバキアや他の国に対して一体何をしようと、私が恥じることは一切ありません。……政府は、私とはまったく別の存在だからです。私と政府とは無関係だと感じています」
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P106ー107/太字は引用者)
ウクライナ侵攻が続いている現在において、「ロシア人であることを恥じなくてはならない日が来るとは」と嘆いている人、反戦運動に参加する人もいる。
だからロシア人が全員、こういう考えであるわけではもちろんないと思う。
しかし学者という知識層でもこう考えるのか、と衝撃を受けた。
「銀河英雄伝説」でヤンが「専制政治の問題点は、民衆が政治に対して責任を取らないことだ」と言っていたが、それがまさにこの状況だ。
第四章「外交」と第五章「軍事」では、ロシアの領土観について語られている。
ここも日本人の感覚で読むと「え?」と思うことが多い。
ロシアは領土を常に拡張させたいと望んでいる。
「支配者から逃れた民衆が定住した土地を支配者が支配し、そこから逃れた民衆がまた土地を開拓し、それをまた支配者が追いかけてきて支配して」ということが、ロシアの国土を築いてきたという歴史があるからだ。
そうして領土を拡張する(自国が増える)ことで、自国の安心を常に図る。
国境は固定的なものではない、自国の「安心や安全?」によって流動的に動くものだ、という発想がロシアの領土観の根底にある。
「国境は流動的なもの」という考えは(膨張しようとは考えていないものも)ヨーロッパでは比較的当たり前の前提のようだ。日本ほど字義通りに「固有の領土」とは考えてはいない。
北方領土も国際法上は日本に理があることは百も承知だが、ロシアはそもそも「国際法の理」をそれほど重視していない。
第二次世界大戦後に定まった秩序が現実として安定して存在するのだから、その秩序を優先しよう、というのがロシアの考えの根本にある。
「ロシア側が、いわば『戦争結果不動論』を説くことの背後には、『領土は戦争によって決められるもの』こうみなす基本的な前提がある」(P165)
平たく言えば「既成事実」だ。
これが事実だとすれば、武力を放棄した日本が領土を要求すること自体、ロシアにとっては訳がわからないだろう。武力を放棄したということは、領土を放棄したと同義くらいに思っていそうだ。
ここまででも「なるほど、日本とは根底にある認識自体がまったく違う」とわかるが、第六章「交渉」へ進むとさらにその差が大きくなる。
「交渉」の章で語られることは、ロシアは自分たちが強気で出来うる限りの要求を通そうとするがゆえに、相手もそうした態度を取ったときに初めて「対等の交渉相手」として一目置くということだ。
相手の「戦う姿勢、断固たる反撃と抵抗」に合うと、「相手と交渉しなければならない」と考え出す。
「ギブ・アンド・テイクはなく、テイク・アンド・テイクしか考えていない」「譲歩は弱さの証明」(この言葉凄いな)などなかなか強烈な言葉が並ぶ。
彼らは善意によって差し伸べられる友好の手というものを信じようとしない。そこには、何か巧妙な落とし穴のようなものが隠されているのではないか、と疑う。
この世に純粋な好意など存在するはずがなく、あるのは戦いのみだ。頭からこう信じ込んでいる。
だから、闘いの姿勢を示すと、彼らはかえって安心することになる。
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P187/太字は引用者)
断固たる反撃と抵抗に出会ってはじめて、ロシア側は己の強硬姿勢を改め、交渉を始める気になるだろう。
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P192/太字は引用者)
前回の記事で紹介した通り、この本が書かれたのは2017年で著者である木村汎は2019年に亡くなっている。
現在行われているウクライナ侵攻よりも前に書かれた本だが、これを読んで、ウクライナの人はロシアのことをよく知っている、だからあれほど不利な状況でも屈さずに戦い続けているのだと思った。
本書でも指摘されているが、他国に占領された経験が太平洋戦争後のアメリカしかない、しかもそれは歴史上、類をみないほど寛容な占領だった日本で生きている感覚だと、それは何故なのかは分かりづらいのだろう。
自国の歴史の経過や結果を普遍的な定理だと思い、バイアスをかけて他国の歴史を見る、ということはやりがちではあるが、特に戦争や交渉は相手国の性質や状況によって千差万別に変化するのだ、ということは考えた方が良さそうだ。
プーチンがウクライナ侵攻に踏み切った要因のひとつも、アメリカがアフガンから撤退するという決断を弱腰、他国への介入の意思なしと見たからだと言われている。
相手が戦う意思があるかどうか、強硬な姿勢でギリギリまで問い続け、相手が根負けすればすかさず膨張していく、そして設けた緩衝地帯も自国の安全のために支配し、その支配地域と他国の間に緩衝地帯を設け、さらに膨張していく。
そうすることで「自国の安心」を確保する。
それがロシアという国の安全保障の考え方のようだ。
第七章は主にソ連時代からの全体主義の話である。
革命には「政治や経済など社会の仕組みを変えるだけの制限革命」と「社会を構成する人間の中身を変化させる無制限革命」がある。「制限革命」「無制限革命」この言い方は初めて知った。
「社会主義への移行のためには、完全な変革、すなわち、すべての人民大衆のあらゆる領域にわたる文化的な発展が、必要、不可欠である」
なぜならば「人間の行動様式の型たその活動の動機が根本的に変革されることなしには、社会主義から共産主義への移行はありえないからである。(下線は、いずれも木村)
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P212)
「理想の社会」に合わせて人間の中身を「より良きもの」にしようとするこの発想を聞いて、個人主義を重んじる欧米の人間は震撼したらしいが、確かに震撼する。
この無制限革命を行ったのが、文化大革命であるが、結果は惨憺たるものだった。
ハンナ・アーレントは(略)ボリシェビズム、ナチズム、ファシズムを全体主義の典型とみなし(略)
「全体主義イデオロギーの本来の狙いは、外部世界の変形でもなく、社会の革命的変更でもなく、人間の本性そのものの変形である」と。(言った)
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P218/太字、括弧内は引用者)
共産主義関連の話を読むと、「社会の変革のために自己の変革をまずしなければならない」という話が多い。
ハーレントが喝破した枠組が正しいとすると、ボリシェビズムの下で工作員として国家に忠誠を捧げて生きてきたプーチンが、他国のナチズムの可能性を指摘して侵略を起こしている現在の構図は、全体主義が全体主義の危険性を指摘し、他国を侵略しているのか。何ともやりきれない話だ。
第八章「労働」と第九章「技術」では、主にロシアで経済や技術進歩がどのように考えられているかということが語られている。
「オブローモフ気質」という言葉もあるように、ロシア人の労働に対する印象はかなりネガティブだ。
これはロシアが資源大国であることとも関係がある。
資源を切り売りするだけで生きていけてしまうために、技術革新が大幅に遅れてしまう。
自分も最近の世界情勢を見ると、「資源がある、自給率が高い」というのは強みだなと思っていたが、そういう国にはそういう国で悩みがある。
また、技術革新に力を入れなければ、優秀な人材はよりよい環境を求めて国外に去ってしまう。
今回のウクライナ侵攻で、裕福な人々は国外に次々と脱出しているというニュースを見たが、そもそもロシアは移住者が他の国に比べて多いようだ。
2016年七月時点で、一体どのくらいのロシア人が国外脱出を欲しているか?(略)
もっとも控え目に見積もっても22%、すなわちロシア市民の五人に一人が国外移住を考慮中と見るべきだろう。これは10年前に比べて三倍増である。
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P278)
さすがに五人に一人はないのでは、と思うが、それはともかく特に近年、ロシアの高学歴知識層のあいだでは国外に移住する傾向が強い。
日本も中国の千人計画による人材の流出が問題になっているので、他人事ではない。
前首相のメドベージェフはかなり強力にロシアの近代化を進めようとしたが、支配層からも知識層からも国民からも反対を受けた。
支配層にとっては欧米の技術を輸入する「近代化」は、彼らが癒着して作り上げた「レント・シェアリング・システム」の優位性を壊すものだった。
『レント・シェアリング・システム』とは、さきに説明したように、プーチンならびに彼の側近たちが主として『(資源)レント』を独占する体制を指す。(略)
プーチン政権とは、レントの「シェアリング(共有・分配)」で結びついた利益集団なのであり、プーチンは同集団の「総支配人」(略)に他ならない。
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P284/太字は引用者)
プーチンと最も関係が深いオリガルヒはプーチンと一連托生だから、何があっても決して離反しないだろうと言われるのは、この利権構造があるからなのだろう。
ロシアの資源はプーチンを中心とした集団に独占されているのだ。
国民は「近代化」の負担は国民にのみ一方的に押し付けられることを知っているために、醒めた目で見ている。
一般論としていうならば、ロシアではほとんどつねに指導者の意向と国民の意識のあいだに大きな乖離がある。
(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱ 湖書房光人新社 P292)
ソ連の時代のイデオロギーで言えば、「指導者層」と「指導されるべき民衆」で意識が完全に分かれている。
二章で出てきた
「……政府は、私とはまったく別の存在だからです。私と政府とは無関係だと感じています」(P107)
も、支配者と被支配者の間の大きな断絶を示す言葉なのだろう。
ロシア人にとって「国」や「指導者」は、自分たちとは無関係な絶対的なものであり、いざという時に外敵から自分たちを守ってくれればいい。だから強ければ強いほどいい。
そうしてそういう苛烈で強いものであるために、時に理不尽であったり、自分たちの身体の自由を奪うものであってもそれは仕方がない。
自分たちはその庇護の下、内心の自由だけを確保し、お上から搾取されながらも、従うふりをして適当にうまいことやって生きて行く。
自分が読んだ限りだと、おおよそこういう心性のようだ。
プーチンが側近を強く批判する場面が公開された時に、これを公開したら側近のメンツは丸つぶれな上に、人の話を聞かず、強引にワンマンで政策を進めるプーチンに批判が集まるのではと思ったが、それこそがまさに著者も自嘲していた「浅薄な素人考えのようだ」(P82 )
ロシア人は多少理不尽でも強権的でタフな指導者にこそ信頼を抱くのだ。(そういうことを見越したパフォーマンスだったのだろう)
無賃乗車など当たり前で、無賃乗車をした人間を捕まえようとする検閲官が注意をすると、それを恥と感じるどころか周囲の人が検閲官をやじり倒す、という話を聞くと、良くも悪くも日本人はまったく違うと感じる。
「国家という強大なものに首根っこを抑えつけられ従順なふりをしながら、その範囲で好き勝手に生きて行く」
そういう図太さと逞しさを感じた。
でも出来れば、プーチンの横暴にはNOと言って欲しい。