うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「私説三国志 天の華・地の風」全10巻の感想。「物語のアイデンティティが失われる」とはどういうことか。

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江森備「私説三国志 天の華・地の風」を読み終わった。

「三国志」の流れをしっかり辿っているのはもちろん、政治や戦だけではなく、この時代の習俗や文化が詳しく描かれている。

諸葛喬が死んだときの葬式の様子など、どの立場の人間がどのような服装をして実際の式はどのように行われるかなど読んでいて面白かった。

BL要素がどうしても気になるなら、そこはすっ飛ばしても構わないので読んで欲しい、と読む前の自分に言いたい。

 

最終的な感想としては「面白かった。読んでよかった」なのだが、そうは思いつつどうしても引っかかる部分がある。

この話は細部は素晴らしいのだが、その細部同士が上手くつながっていない、つながりかたがぎごちないために全体像が分かりづらい話だったことが、凄く気になった。

 

以下はその「引っかかり」について自分の頭を整理するためだけに書くので、「特に引っかかりはなかった」と思うかたは読まないほうがいいかもしれない。

 

*未読のかたは記事を読む前に、本作を読んで欲しい。

 

 

①ストーリーの外枠が巻ごとにブレている問題。

「天の華・地の風」のストーリーは二つの軸から成り立っている。

ひとつは「三国志」で歴史的に起こった(そしてそれを脚色した演義に描かれた)出来事に、別の解釈を与えること。

この記事ではこれを「歴史軸」と呼ぶ。

 

もうひとつは、幼少時代に大きな傷を負った主人公・孔明が内部に抱えた葛藤を描くストーリーだ。

この記事では「個人軸」と呼ぶ。

 

孔明が劉備に仕えた後は、蜀漢の歴史と孔明の個人史はほぼ重なるので、表向きの出来事しか書かないのであればこの二つの軸はそもそも分離していない。

だが「天華」は、幼少時代から始まる孔明個人の人生と内面を描くことに大きく比重を置いている。

そして、この孔明の内面の葛藤に基づいて、実際の歴史(というより通説)にも改変が加えられている。

 

孔明は、劉備も関羽も張飛も劉封も謀殺するが、孔明が主君である劉備を殺してまで国を守ろうとしたのは、「自分の人生を生きるため」だ。

 

孔明は(孔明いわく)劉備の下で「一度も人としてあつかわれたことがな」「窒息しかけ」ていた。劉備を「手に入れ」よう、「支配」しようとしたが、それが出来なかったために殺した。

私はあなたの影だった。これからは違うぞ。

(引用元:「私説三国志 天の華・地の風4」江守備 復刊ドットコム)

 

孔明の認識によると、孔明と劉備はお互いに理解し合えず、苦しい思いを抱き続け、その思いによって孔明は縛られていた。

その思いから解き放たれるために劉備を殺したのだ。

 

5巻までの展開は、この劉備の死に代表されるように、「個人軸」によって「歴史軸」が動かされている。

1巻から5巻までは「孔明という個人を描くために、三国志という背景を用いている物語」なのだ。

 

ストーリーは、この外枠の内部で描かれることによって一貫性を持つものなので、この外枠は壊すことは出来ない。(仮に「何でもあり」であれば、「何でもあり」という構造を持つという風になる)

 

上記に上げた二軸の話で言えば、

「独自に解釈した三国志を語りたいのか」

「孔明という個人を語るために三国志を背景に用いているのか」

どちらが外枠なのかという問題になる。

 

この外枠が巻ごとにブレている。

上記に上げた通り、1巻から5巻までは「孔明という個人を描くために、三国志という背景を用いている物語」だった。

だが六巻からは突然、内部に葛藤を抱えた強烈なキャラクターである「天華の孔明」が、「三国志という歴史の登場人物の一人」になってしまう。

 

劉備、関羽、張飛、龐統、周瑜という通説の三国志では物語の中核を担う登場人物たちを殺す、という歴史軸に強い干渉力を持つ「孔明という個人軸」が六巻以降に急に弱まる。

6巻から9巻までは歴史軸に個人軸が埋もれている。ひいき目に見ても同じくらいの強さである。

メタ視点で言えば、「五巻までは、劉備を殺せるほどの(歴史軸への干渉)力を持っていた孔明が、六巻以降はその力を突然失っている」のだ。(これは十回は繰り返して書きたいくらい、この話では重要なことだ)

 

noteの感想記事で、「六巻から孔明の中身が入れ替わって見える」と書いたが、それはこのためではないかと思っている。

 

「個人軸によって歴史軸が動かされる」=「孔明という個人が、三国志の物語に強い干渉力を持つことによって何かを語る」

という構造こそが「天華」という物語に一貫性を与えている。

この構造が変わると、ストーリーの軸が失われ同一性がなくなる。別の言い方をすると「物語のアイデンティティが失われる」

 

この「歴史軸」「個人軸」の軸足で全10巻の構成を見ると、

1巻~5巻(個人軸)

6巻~9巻(歴史軸)

10巻(個人軸)

となっている。

5巻までは神のように人の心や言動を操れた孔明が、6巻以降は周りに振り回されるただの人(通説以上の力を発揮できない)になってしまっている。

 

始まりと終わりが「個人軸」であるので、この話が「暗い過去によって深い傷を持つ孔明という人間の生きざま」を描く話であることは間違いないと思うが、それにしては「普通の孔明」であった6巻から9巻が長すぎた。

「天華」全10巻の全体像の見えなさの原因は、ひとつはこの点にあると思う。

 

ただとりあえず「個人軸」で始まり「個人軸」で終わっているので、「この話は、三国時代を背景に孔明という人物像を描いた話」であるとする。

だが実は一番問題だと感じたのは、この「個人軸」の捻じれだ。

 

②個人軸で描いていることの矛盾

「天華」は、三国志はモチーフ・背景にすぎず、本来は「自己回復の物語」だと自分は思っている。

「暗い過去に深く傷つけられたがゆえに、他人に対する不信と恐怖を持ち、そこから生まれる加虐と自罰の合間で激しく揺れ動き苦しむ人間が、周りから畏れられるがゆえに抑えつけていた『龍』としての力を使うことで自己回復していく」

こういうストーリーだと思って読んでいた。

 

一般的には自己回復の物語は、理解者となる他者が出現し、その愛情と支えによって回復することが多い。

ところが「天華」の序盤は、孔明が「理解者」として選んだ他者を、ことごとく殺していく展開だった。

周瑜、劉備、関羽(はなりかけだったが)と殺したので、自分は四巻の段階でこの話は「他者による救済」を求めない話なのではないかと考えていた。

 

「深い傷」が人に受け入れられることによって癒されるというのはある意味きれいごとで、その傷を抉り続け、周りにいる人間全員に同じ痛みを味合わせ続けることでしか、その傷を受けた肉体と魂で生きることが出来ない、そういうことを描いているなら「三国志」という枠を超えた凄い話だ、と思っていた。

 

「不信と猜疑を捨て去ることが出来ず、他人と支配ー被支配の関係でしか関われない」のは本人にとっては苦しいことではあるし、大抵の場合は「間違った生き方」として描かれがちだ。

だからこそ、「そういう風にしか生きられない人間もいるのだ、そういう主人公を描く」なら凄いことになりそうだ、と期待が高まった。

 

結果的には魏延と愛情を育むことによって、孔明の個人軸は「他者による救済」の結末を迎える。

まあまあよくあると言えばよくある話になったが、「みんなそれぞれの地獄を生きている」ように「人にはそれぞれ固有の救済がある」ので、これ自体はまったく問題がない。*1

生き方は本人の自由であるものの、やはり回復を拒否して傷をなぞり続けるような生き方よりは、子供のとき傷ついたぶん、救われて良かったと思う。

 

ただ問題は、その相手が魏延であることだ。

なぜ孔明を救済する人間が魏延では駄目なのか。

魏延との関係は孔明にとって当初は強いられたもの……つまり、「支配ー被支配の関係」で始まっているからだ。

始まりがそうであっても、長く年月を過ごすうちに愛情が育まれることもあるのではないか、というのであれば、同じような条件で始まった董卓や叔父にも年月が重なればそういう可能性はあったのではないか、ということになる。(書くのも嫌だが)

 

孔明にとって魏延と董卓の違いは何なのか?

この二人は二人とも「自分に不本意な関係を強いた加害者」として孔明の人生に現れた。一方は、その後、四十年以上も癒されない恐怖を与え続ける自分の尊厳を傷つけた人間になり、もう一方はその傷を癒した人間になった。

 

もし「過ごした年月の長さだけ」で二人の違いが生じたならば、その年月を董卓や叔父と過ごしたらその二人が魏延になることもあり得たのではないか。

 

董卓(に代表される自分の人生の加害者、破壊者)と魏延(救済者)の出現条件がまったく同じでありながら、それ以外の違いを条件の差が明確でないため、「加虐者と救済者が表裏一体に見えてしまう」。

 

もっと話を詰めると、話の文脈上は「無力だった幼いころの自分の尊厳を傷つけた過去が、実は救済だった」ということになってしまうのだ。

この可能性を残してしまったことが、自分はこの話の最大の問題点だと感じている。

 

董卓が孔明にした虐待の描写やその後の孔明のトラウマのひどさを見ると、あれが「救済である」とは考えたくはないし、そういう話だとも思っていない。

ただ物語の構造上、そういう文脈が残ってしまっている。

 

燕郎を殺したのも良くなかった。

「支配ー被支配の関係」から始まったことは、まあ始まりはともかく二十年かけて育んだ愛情は真実のものだ、と思えるが、二人の関係の土台にはそもそも「罪」があるのだ。(この「罪」も孔明と魏延を陥れる「道具」として使われてしまっている)

この「罪の禊」があれば、それをもって董卓と魏延の差異が明確になった。

 

それをせずに行為の最中に「燕郎」のことを気軽に持ち出しているのでは、董卓と魏延にさほど違いを感じない。

もっと言うと燕郎にとっての魏延が孔明にとっての董卓だった、と見ることも出来る。そうすると話が一気にグロテスクになってしまう。

 

さらに魏延の孔明への信頼と愛情の根拠となる「二十年の年月」も、この話においては根拠とはなりえない。

 

「天華」は色々な矛盾が詰まった物語で、中でも登場人物の表記揺れがひどく、9巻から姜維や楊儀が豹変した理由も、物語内の描写では納得しがたい。

だがそれよりも問題なのは、魏延と同じくらい孔明と長く付き合い信頼関係を築いてきた楊儀の信頼関係があれほどあっけなく崩れるなら、魏延と孔明の間で築かれた「二十年間の信頼関係」も同じものである可能性があるところだ。

 

まとめ:と、色々な矛盾があるのだが……。

この話の全体像が見えにくくなっているのは、

①「個人軸」によって始まり「個人軸」で終わる話であるのに、後半(6巻~9巻)は「歴史軸」によってストーリーが作られている。

②「個人軸」=「自己救済の物語」に「加害者=救済者」という矛盾が生じる可能性を残してしまっている。

この二点が原因だと考えている。

 

ここまで書いた①「二軸の話」②「個人軸が自己回復だったときの矛盾」この二つが矛盾しなくなるルールはある。(それが何かという話はけっこうぶっ飛んだ話(自分の中では)になるので、そちらはnoteで。) 

 

「天の華・地の風」を全10巻読む間、ずっとこういう色々な矛盾は感じていた。

だがそれでも読むことを止めようとは思わず、むしろこういう矛盾があるからこそ面白く、読むことが止められない希有な話だった

 

 

「裏面」はnoteに書いた。

note.com

 

 

*1:本当はあるが、話が終わらなくなるので割愛