前回。
(考察の条件)
①現在、「悪夢の主ミクローシュ」を撃破したところまでプレイした。
②他の人の考察や制作者のインタビューなどはまったく読んでいない(ので、あくまで自分の個人的な考えや推測です)
③参考にしたのは、プレイしたところまでのアイテムフレーバーテキストとストーリー内テキスト、「ブラッドボーンオフィシャルアートワークス」。
- 「知識を求める人間の葛藤を暗喩している」と考えると比較的わかりやすい
- 「メンシス学派」と「聖歌隊」は、今日の思想の二つの流れを表しているのではないか。
- 「獣」とは「高次の思考に耐えきれず狂ってしまう人知」。
- 「穢れ」とは何なのか。
- まとめ:物語独自のルールが細部まで徹底している美しい世界観。
「知識を求める人間の葛藤を暗喩している」と考えると比較的わかりやすい
「形而上的な認識と思考を極めたい人の葛藤を、具現化したストーリー」と考えるとわかりやすいのでは、と思った。
現代までの哲学の流れの大枠をまとめると、
「認識主体と認識対象のいずれに優位性をおくか」という古くて新しい哲学上の二律背反たる主観ー客観の対立
(引用元:「ソシュールの思想/前書きより」丸山圭三郎 岩波書店)
が軸になっている。
この「形而上学的な考えの探求」が、学長ウィレームが「彼(ウィレーム)は人の思考の在り方に絶望し高次元の思考者たるを目指した」(「カレル文字『瞳』)ものではないか。
ゲーム内ストーリーでは「上位者」の存在を視認できるが、本来はテキストで繰り返し言われている通り、これらは「声」、「ひらめき」に近いものだとと思う。
「悪夢に住まう上位者の声を表音したもの」「悪夢の上位者はいわば感応する精神」(カレル文字『月』)
「見捨てられた上位者の声を表音したもの」(カレル文字『瞳』)
「上位者オドンは、姿なき声のみの存在」(カレル文字『姿なきオドン』)
この「上位者=声」が、ウィレームの目指した「高次元の思考」だ。
ゲーム内ストーリーで上位者が形あるものとして具現化しているのは、「夢」の中だから便宜的に上位者と出会えることを表している。
「これを強く思うことで、血の遺志を捨て、狩人は目覚めをやり直す。全ての出来事が悪夢であったかのように」(狩人の徴)
「高次元の思考者たることを目指していた」ビルゲンワースの学長ウィレームは、ヤーナムの地下墓地で聖杯を発見する。
「イズの大聖杯」がエーブリエータスと聖歌隊を出会わせたように、聖杯を手にしたウィレームは上位者と邂逅することが出来た。
だが「上位者たちの思索」=「神秘」は人には耐えられない。
ウィレームに従って地下遺跡で神秘を見たドレースたちは、「共に正気を失った」(墓守のローブ)
ウィレームを始めとするビルゲンワースの学者たちは、それでも「拝領の探求」を続ける。続けるうちにその探求の方法によって
①血一元論(メンシス学派)
②聖歌隊
二派にわかれた。
「メンシス学派」と「聖歌隊」は、今日の思想の二つの流れを表しているのではないか。
この二派の思想はテキストを追うと分かるが、現代の考えかたに合わせると、
メンシス学派→万物の根源は「血」である。(認識対象優位)
聖歌隊→自分の脳内(瞳)にこそ宇宙はある。(認識主体優位)
だったのではないかと思う。
結果的にメンシス学派の考えが主流になり、聖歌隊の「人の脳(瞳)こそ宇宙である」という考えは「見捨てられた」。
聖歌隊が付き従った「見捨てられた上位者」は、メタ視点で見た時は「認識主体優位の思想」のことではないか。
そう考えると「なぜ、嘆きの祭壇に女王の肉片を捧げるとアンナリーゼが復活するのか(再び見ることが出来るのか)」ということもしっくりくる。
「カレル文字を脳裏に焼き、その神秘の力を得ることが出来る。血によらぬそれは、学長ウィレームの理想に近いものだ」(秘文字の工房道具)
を読んでも、最初は聖歌隊の考え方のほうが優位だったのかもしれない。
教室棟に出てくる学生がなめくじを思わせるところも「特にナメクジは、見捨てられた上位者の痕跡である」(真珠ナメクジ)からではないか。
また聖堂街上層(聖歌隊)周辺の敵は、斬っても血ではなく体液が出るものが多い。
エーブリエータスも(口から赤いものは吐くが)攻撃したときに出すのは、血ではない。
ヤハグルの敵が大量に出血するのとは対照的だ。
これも「思考の方法」が具現化しているため視認できると考えた。
なぜ聖歌隊の考えが「見捨てられた」のか。
「精霊を媒介に高次元暗黒に接触し、遥か彼方への星界への交信を試み、しかし全てが徒労に終わった。すなわちこれは失敗作」(彼方への呼びかけ)
とあるように、この方法は行き詰まったのではないか。
そのために「血を媒介として夢の中で上位者と接触する」メンシス学派の考えが主流になった。
「ブラッドボーン」の世界は、このメンシス学派の「万物の根源は血である」いわば「血一元論」の考えに支配されている。
全ては血から出来ているから、血があれば何でもできる、という考え方だ。
「血は全てを溶かし、すべてそこから生まれる」(儀式の血)
「血晶の強化は、また武器の性質を変化させる。それは、血そのものが生き物を規定するように」(血晶石の工房道具)
「血の発見は、彼らに進化の夢をもたらした」(右回りの変態)
「右回りの変態」で書かれている「血の発見」も、普通に読めば「なぜ、今さら『血』を発見?」と思うが、これは「血こそが上位者との接触を図るための触媒たりうる」という思想を発見した、という意味ではないか。
「神秘の研究者にとって、気の狂いはありふれた症状であり、濃厚な人血の類はそうした気の乱れを鎮めてくれる。それはやがて血の医療(=拝領の探求)へつながる萌芽であった」(鎮静剤)
「人であるなしに関わらず、にじむ血は上質の触媒であり、それこそが姿なき上位者オドンの本質である」(姿なきオドン)
ビルゲンワースから「拝領の探求」を続ける医療教会の中で主流となった「メンシス学派」は、この「血=触媒の発想」に基づいて血を集め出した。
人血という触媒があれば、神秘に触れても気が狂わず探求を続け、ついには神秘を拝領することが出来るためだ。
「獣」とは「高次の思考に耐えきれず狂ってしまう人知」。
だがこの考えには、副作用があった。
「血の発見とは、すなわち望まれぬ獣の発見であった」(獣)
「つんざくその悲鳴は、しかし使用者の声帯が出しているものだ。人の内に一体何者が潜むのか」(獣の咆哮)
人の身の内に獣も発見してしまった。
前述した通り、「上位者=声」である。
血液を触媒にして上位者=高次元の声と接触するはずが、獣も発見してしまいその声に邪魔されるようになってしまった。
この「獣」は「人の愚かさ」や「人知」を指している。
ミクローシュが「獣の愚かさを克させたまえ」と言っているのは「上位者の思考に耐えられるようにして欲しい」という意味であり、ヨセフカ夫人は「自分は上位者の思想を見ることが出来るようになっても狂わない。ゆえに獣ではない」ということが言いたいのだと思う。
「メンシス学派」は血という触媒を用いて「悪夢に住まう上位者」(カレル文字『月』)「夢の上位者」(メンシスの檻)と接触しようとした。
彼らの考えによると夢の中でのみ上位者と会え、「悪夢の辺境」にはアメンドーズが出現し、ミクローシュが見る悪夢「メンシスの悪夢」では「月の悪魔」が出現する。
「メンシスの檻」も「俗世に対する客観を得る装置であり」、「認識する側の主観が世界を創る(自分の脳や瞳こそ宇宙である)」と考える聖歌隊とは反対の考えだ。
前回書いた通り、「狩り」とはこの世界では医療であり、医療は治療ではなく探求である。(「血の医療」は治療ではなく、「拝領の探求」である)
「狩り」がなぜ「拝領の探求」になるかというと、「高次の知識を認識しようとすると狂う人間=人知=獣」を殺す暗喩だからではないか。
「大量の水は眠りを守る断絶であり、故に神秘の前触れである。求める者よ、その先を目指したまえ」(カレル文字『湖』)
湖は、上位者が住まう夢に入り神秘の探求を妨げる物だ。
上位者がいる夢を守るために、「白痴」であるロマが湖の封印を守っている。
上位者の神秘に触れるためには、「白痴=人知の愚かさ」を乗り越えなければならない。
カレル文字「月」は、「悪夢に住まう上位者の声を表音したもの」なので、湖の封印が破れると同時に血を触媒として(赤い月となって)「悪夢」の中に入れる。
「穢れ」とは何なのか。
「血の意味が与えられたカレル文字はいくつか存在する。『穢れ』もそのひとつであり、特に契約の意味を持つ。この契約にある者は、カインハーストの血族、血の狩人であり、死血の女王のために『穢れ』を見出す。特に狩人の死血の中に。だが穢れは同時に医療教会の仇でもある。処刑隊に気を付けることだ」(カレル文字『穢れ』)
カインハーストの血族であることを示す「穢れ」。
この穢れはもう一か所、重要なところで出てくる。
「(前略)全ての上位者は赤子を失い、そして求めている。姿なきオドンもまた、その例外ではなく、穢れた血が神秘的な交わりをもたらしたのだろう」(三本目のへその緒)
この二つのテキストを並べると不思議だ。
「穢れ」である血族は、医療教会の仇でありながら、「穢れた血」は医療教会が追い求める「神秘」をもたらす。全ての上位者が求める赤子をもたらすものでもある。
「上質の血の触媒」という本質を持つ上位者オドンは(そしてその信徒であるメンシス学派は)「血」を求めるが、血には優劣がある。
「医療教会の尼僧たちは、優れた血を宿すべく選ばれ調整された『血の聖女』である」(アデーラの血)
「特に血の性質に優れぬ狩人」(骨髄の灰)
アデーラたち尼僧の血は「優れた血」であり、「穢れた血」は「神秘的な交わり」をもたらす。
「穢れ」とは肉欲、もしくは性的接触のことではないかと推測できる。
ヨセフカ夫人が「私はついにここまで来たの。見えているのよ。やっぱり私だけは違う。獣じゃないのよ」と言っているのは、穢れ(性的接触)を背負いその結果として上位者たる赤子を身に宿しながら、獣にならない(狂わない)ということだ。
「穢れ」=肉欲は、人を獣(狂ったもの=人間)にしてしまう。
ガスコイン神父が「神父」でありながら何故妻子がいるのか(凄く不思議だった)、何故獣になってしまったのかにつながる。
「聖職者が最も狂暴な獣になりやすい」という言葉と合わせて考えると、ローゲリウスがなぜ、アンナリーゼに囚われてしまったのか、アルフレートがしきりに「師であるローゲリウスの名誉を回復したい」と言い、アンナリーゼのことを「売女」と罵るのは何故なのかということもわかりやすい。
「かつて幻を視ると言われた古い王冠は、また秘密を隠す幻を破る鍵でもある。故にローゲリウスは自らこれをかぶった。もはや誰一人、穢れた秘密に触れぬように。寒々とした玉座から、果たして何が視えたのだろうか」(幻視の王冠)
「穢れた秘密」を一人で見たが、それは幻であり現実は寒々しい、と考えると切なくなる。ただそれが「幻」であった(穢れに触れなかった)がゆえに、ローゲリウスは「殉教者」になった。
完全に根拠のない想像(妄想)だが、血、出産、性行為などは女性を想起させるものは「月」と結びつきやすい。生理も「月経」と呼ばれる。
ロマの封印が破れたあと赤い月が出現するが、再誕者を倒し、上位者が住まうメンシスの悪夢ではなぜ月は赤くないのかなど女性の生態的な要素が凄く絡んでいるように思える。
「究極の知識の探求」には肉欲など現世的なものは無用だと思い切り捨てようとしたが、結局は囚われてしまい、結果として生まれたものこそが上位者であると考えると人がどれほど高次の思考を得ようとしても虚しい、という皮肉を感じる。
まとめ:物語独自のルールが細部まで徹底している美しい世界観。
「究極の智恵を得ようとする人間の葛藤を暗喩的に描いた話」と考えたが、仮にそうだとしても「ブラッドボーン」の凄いところは、「そういうものを暗喩していることそのもの」ではなく、その暗喩によって構築された世界が独創的で完璧に組み立てられているところだ。
聖堂街上層になぜ脳喰らいがいるのか、学徒たちはなぜ軟体生物なのか、ガスコイン神父はなぜ牧師ではなく神父なのか、穢れとは何なのか、血とは何なのかということがすべて世界観というルールに則って配置されている。
単なる「怖さや気持ち悪さ、暗さを演出するため」ではない。
全ての事象に「世界」という根拠があるから、ひとつひとつの要素はどれほど狂気的に見えても、全体として見ると美しくすら見えてしまう。
(こう言っては何だか)ゲームの背景に過ぎない世界観にここまで細部までこだわっている、だから薄暗く気持ち悪い要素を集めて出来上がった世界が美しく見えてしまうというのは驚異的なことだと思う。
こんな風に色々と考えなくても、ただただ世界を見て、敵を見て、展開を見るだけでも楽しい。
それでいながら世界観云々を考えなくとも、ゲームとしても無茶苦茶面白い。
ミクローシュも戦っているときはやたら煽ってくるところがムカついたが、ただ話を聞いてるだけなら本当に面白いキャラだと思う。
テキストも読んでいるだけでも楽しい。
特に好きなのは「星の瞳の狩人証」のテキストだ。
「その瞳は宇宙を象っている。『聖歌隊』の気付きは、かつて突然訪れたという。地上にある我々の頭上にこそ、まさに宇宙があるのではないか」
このテキスト、滅茶苦茶好きだ。
「ブラッドボーン」の世界に行ったら聖歌隊に入って、エーブリエータスを祀って生きたい。
(引用元:「Bloodbone Official Artworks」(株)KADOKAWA)
エーブリエータスを始め、巨大敵の全景や武器などの原画も載っている。
本編クリア後やDLコンテンツをプレイして思いついたことがあれば、その都度また考えて追記したい。