うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

村上春樹「遠い太鼓」を読んで、まだ行ったことがないイタリアのことを思う。

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伊、新型コロナ死者4032人に急増 北部州は散歩やジョギング禁止 - ロイター

 

このニュースを目にして、最初は戸外で一人で行う散歩やジョギングを禁止することに疑問を感じた。

厚生労働省が発表している通り、現段階の見解では

1.換気の悪い密閉空間
2.多数が集まる密集場所
3.間近で会話や発生をする密接場面

この三つの条件を避けることが大事であり、人と接触しないのであればある程度、動いて健康を保っていたほうが重症化するリスクが少なくなるのでは、と思う。

 

だが、すぐに村上春樹が「遠い太鼓」で書いていたことを思い出した。

イタリアのジョガーの第二の特徴は一人で走っている人が極端に少ないということだ。大抵何人かでつるんで走っている。(略)

はじめのうちはこれが不思議でしょうがなかった。ランニングは孤独なスポーツだ、と気取るつもりはないし、べつにみんなと一緒に走ったって全然問題はないわけだけれど、しかしいかんせん一人で走っている人の数が少なすぎる。

よその国ではだいたい八割くらいまでが単身ランナーで残りの二割が団体・複数ランナーという感じだが、この国ではその比率が完全に逆転している。みんなでにこにこ・わいわいとお喋りしながら、なかなか楽しそうに走っている。(略)

たまに一人で走っている人だって見かける。(略)

しかし一人で走っているというのがすなわち黙々と走るということではない。

中には僕が走っているとそばに寄ってきて「ねえ、どのくらい走るの?」だとか「一緒に走ろうよ」とか話しかけてくる面倒臭い奴がいる。(略)

僕がイタリア語殆どできないと言っているのに、それでも隣に並んで走ってべらべら喋りかけてくる。(略)

ただ単に喋っていないと寂しいだけのことなのだ。

 (引用元:「遠い太鼓」村上春樹 講談社 P227-230)

 

自分の家の前は直線ののどかな川沿いの道で、走る人や散歩する人が多い。

自分も走ったり歩いたりすることが多いが、走っている人は一人の人ばかりだ。たまに二人で走っていても「喋りながら」ではない。ドラクエ並びが多い。

走りながらわいわい話すのはかなり大変では、少なくとも自分には無理だ、と初めて読んだとき思ったのを覚えている。

 

イタリア人全員がそういうわけではもちろんないだろうが、「遠い太鼓」を読むと村上春樹はイタリアの各地を回っている。他のエッセイを読んでもヨーロッパの他の国やアメリカやトルコにも足を運んでいる。

村上春樹は小説家にとって体力と持久力は大切な要素だと考えており、犬に追いかけられても、マフィアが紛争を起こしている危険地帯でも毎日ジョギングをしている……ので、観測範囲としてはまあまあ広いほうではと思う。

この文章の前後でも、アメリカでのジョガーの傾向、ドイツでのジョガーの傾向などを述べていて面白い。

 

「遠い太鼓」は「ノルウェイの森」と「ダンス・ダンス・ダンス」を執筆したときに滞在した、南ヨーロッパ(主にギリシャとイタリア)での生活を書いたエッセイだ。

その島の生活風景や出会った人々や習慣や食べ物のことなどが興味を惹くように面白く、愛情をもって描かれている。

 

村上春樹の小説は、すごく好きなものと余り興味を持てなかったものにはっきりと分かれるが(一番好きなのは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で、偏愛と言っていい感情を抱いている。)エッセイはだいたいどれを読んでも楽しくて、特に外国を訪れたときの様子を描いている「遠い太鼓」「雨天炎天」「辺境・近境」は繰り返し読んでいる。

スペッツェス島を紹介してくれた「地図を書けない女性」ヴァレンティナ、年金を受け取ることを夢見るヴァンゲリス、元警官のウビさん、ローマの元気な中高生たちと登場人物たちは個性的だし、オンシーズンとオフシーズンでガラリと顔を変えるエーゲ海周辺の島の様子なども読んでいると行ってみたくなる。

長期滞在しているので、旅行に行くというよりは「生活することで見えるもの」を見ている気持ちになれてすごく楽しい。

 

ギリシャやローマ、トスカナ地方は日々の暮らしが明るくユーモアたっぷりで語られているが、シチリア島のパレルモに滞在したときは一転して陰鬱で深刻なトーンになる。

パレルモはマフィアが取り仕切る地下経済と深く結びついて成り立っている街で、日常生活にもマフィアの影が色濃く染み込んでいる。

日本のそういう集団は表には出てこない、世界(縄張り)を分けることで共存している部分がある。(それがいいのか悪いのかはわからないけど)

マフィアが支配者になっている、日常生活や社会システムに深く入り込んでいる、父親がマフィアの幹部であるが自分は組織とは関わりがない同級生が、昼間に道を歩いているだけで殺されてしまうことが別に珍しいことではない、という世界には寒気を覚える。

そういう世界で生きざるえない絶望が、疑似的に体感できる。

自分のものではない、というより自分がまったく身も知らない遠い世界を、目の前に存在するかのように体感できる本はとても貴重だ。

 

トスカナ地方でおススメの個人旅館雉鳩亭の描写、特に朝ごはんは読んでいるだけで実際に食べたかのような幸せな気持ちになる。

村上春樹はご飯と買い物の描写がすごく上手い。

 

イタリアには行ったことがないが、「遠い太鼓」で知ったイタリアはそれぞれ異なる様々な顔を持つ地方で成り立つ、細かいことを気にしないおおらかで人なつっこく明るい人たちの生きる場所だ。

コロナ関連のニュースでイタリアの窮状を目にするたびに、「遠い太鼓」で知ったイタリアのことを思い浮かべる。

 

日本も今後どうなるかわからないけれど、自分にできることは政府の勧告や専門家の提言に従うことくらいだ。

いい機会だととらえて、今週末は家に引きこもって本を読んだりさぼりがちだった勉強をしたりしてゆっくり過ごそうと思う。(あとゲーム)

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 1993/04/05
  • メディア: 文庫
 

 

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)
 

 

辺境・近境 (新潮文庫)

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