「文化大革命 人民の歴史 1926-1976」を読み終わった。
この本の特徴は、参考文献の膨大さだ。
引用箇所の注記が40ページ超に及び、参考文献のタイトルの紹介も18ページに及ぶ。
公式の文章から当時の学生や民間の人が残した文章、インタビューなどによって、この時代がどういう時代だったのか、何が起こっていて、その中で人々がどう生きたかをリアルに描いている。
状況がコロコロ変化する当時の状況や、複雑な権力闘争は何故起きたのか、広い中国の各箇所で何が起こっていたのかなどが比較的わかりやすいので、この時代のことをざっくりとしか知らない人でも読みやすいと思う。
自分も読む前は、文化大革命について「毛沢東の権力下で四人組が主導して、既存の文化や権威を破壊するように民衆を扇動した」これくらいしか知らなかった。
本書を読むと、情勢が二転三転どころか四転も五転もする。
つい先日「正しい」と太鼓判を押された思想が、次の日には「反革命的」という烙印を押され吊るし上げられる。今日話したことが、後になって問題になり徹底的に批判される。
そのために人々は、お互いに不信と猜疑の目を向け、外では一切本音を出せなくなる。(家族内でも密告する家もあった)
こんな社会に生まれたらどうしよう、という恐怖を読んでいる間、味わえる。
本書で「紅色の時代」とされる文化大革命初期(1966‐1968)は、非常に自殺者が多い。価値観が一元化された社会では内心にすら逃げ場がなくなる、ということがよく分かる。
毛沢東の取り巻きの一人だった羅瑞卿は、林彪との権力争いに負けた後、つるし上げを喰らうことを畏れて飛び降り自殺するが、失敗して両足が動かなくなる重傷を負う。
しかしその体で引きずり出されて大勢から批判を受ける場面など、読んでいて気分が悪くなってくる。
その林彪も、結局は毛沢東に疑われたために海外に脱出しようとして謎の死を遂げる。
毛沢東の意を汲んで、最初に文化大革命を主導した劉少奇は、後にその行動を批判され責任を全て押し付けられ失脚する。(最初から劉少奇を失脚させるための目論見だった)
失脚するだけならまだいいが、その後は軟禁生活を送り、最後は不衛生な環境でろくに誰からも面倒を見られずにほっとかれて死ぬ。
周恩来は癌が発見された時、主治医が毛沢東の威光を恐れて、本人ではなく毛沢東に病状を伝えたため、手術できずに最後は衰弱して死ぬ。
四人組も、最終的には、毛沢東の威光を否定しきれない民衆によって、文化大革命の責任を押し付けられて失脚する。
四人組のやったことも罪は罪だが、毛沢東を礼賛して盲従していた過去を否定しきれないために、四人組をスケープゴートに仕立て上げて終わりにしようとする姿勢には、文化大革命が終わってもなお、その「論理の枠」からは逃れられないんだなあと思ってしまう。
かつての信奉者が語るように、「自分の信念や幻想を捨て去るのはなかなか難しく、江青らに責任を押し付けるほうが何かと楽だった」からだ。
(引用元:「文化大革命 人民の歴史 1926‐1976」P172 フランク・ディケーター/谷川真一監役/今西康子訳 人文書院)
「私は毛主席の犬だったのよ。主席に噛みつけと言われれば、誰にだって噛みつくわ」(P175)と言って自殺した(この人も自殺する)江青の気持ちも少しだけ分かる。
結局、文化大革命とは何だったのか。
毛沢東が自らの権力の維持のために、自分を脅かす勢力同士の均衡を常に図るための方法論だった、という結論になってしまうところがキツい。
それだけのために、これほど多くの人が心身を踏みにじられて傷つけられて死んだのだ。
一党独裁の社会では、国=党=社会であるため、党の論理が社会全体を支配する。価値観の基軸が「革命か反革命か」しかない。
だからその基軸「革命か反革命か」を判断できる人間が、全てを動かすことが出来る。
毛沢東は「革命か反革命か」の価値観以外のものを排除し、価値観を一元化するために、旧来の価値観を破壊した。
紅衛兵に参加した女子学生が、当時の心境をこう話している。
友人が自分のベルトを外して、相手の男の服が血でぐしょぐしょになるまで叩くのを初めて見たときは、ぎょっとして後ずさりした。けれども、友人に遅れを取りたくなかったので、何とかがんばった。
最初は、相手と目を合わせないようにしながら、こいつは旧社会の復活をたくらんでいる悪党なのだから殴ることは正しいことなのだと、懸命に自分に言い聞かせた。
ところが、二、三回叩くうちに、慣れっこになっていった。
「感情が鈍磨して、血を見ても何ともなくなった。私は機械仕掛けの人形になったように、ただひたすらベルトを振り回した」
(引用元:「文化大革命 人民の歴史 1926‐1976」上巻P126 フランク・ディケーター/谷川真一監役/今西康子訳 人文書院/太字は引用者)
価値観が一元化した世界は、こういうことが有り得る。
倫理観や道徳感、人間らしい哀れみなどの感情も、反革命を撲滅するという価値観の前では消滅するからだ。
たったひとつの価値観がひとつの輪の中でエコーチェンバーし続ければ、他の感覚が死んでいき非人間的になっていくのはどの時代のどの社会でも変わらない。
上巻の巻頭にのせられたジェット式縛り上げをされた人間が大勢の前でつるし上げられている写真は、何度見ても心が暗くなる。
多様な価値観を破壊するために狙われるのは、多くの場合、知識、宗教、創作が多い。知識、宗教については、個人が権力に対抗するときに強力な武器や拠り所になるために標的になる。
ポル=ポトも知識階級の人間を標的にしている。
創作は読み手によって解釈が多様なために(個人の価値観、世界観の生息地であるために)「社会の価値観を一元化したい」時に標的になる。
こういった環境下であっても、禁じられた書籍を(スタンダールの「赤と黒」も好色という理由で闇市で出回っていたらしい)隠れて読み漁ったり、写本したり、闇市場で取引したりする様子を読むと、人の想像力は本当にたくましいなと感動する。
本書で一番、感動した場面はここだった。
前半はとにかく気が滅入るような陰惨な描写が多いので、後半部分の市井で生きる人たちの逞しさにはかなり励まされた。
「人間は、自分を取り囲む輪の論理には逆らえない(ごくごく一部の超人的な人を除いて)」
他の数多の出来事を見てもそう思うが、だからこそ自分を囲む「輪」を狂わせないことが凄く大事だと思っている。
「どんなに正しく見える考えでさえ、その考えに基づいて動く人間のほうは誤ることがある。だからその考えが『正しい』と言えることを以て、その考えは人にとっては正しくないと思えることが大切」
「輪」を狂わせないためにはこういう考えが大事ではないかと、自分は思っている。
人間は、「正しさ」に耐えられるほど強くも潔癖でもないから、「正しさ」によって簡単に狂う。
こういう本を読むと特にそう思う。
社会という大きな輪は簡単に狂うし、簡単に二転三転する。
その時に「個人の価値観(世界観)」という武器を奪われていると、内心にすら逃げ場がなくなりなす術がない、残酷なやり方で踏みつぶされるか死を選ぶしかない、とよくわかる。
この本の結論である、「民衆は服従しているように見えて、水面下で『静かなる革命』を行っていた」は、前半部分で、人は、社会によって踏みつぶされる脆弱な個人であると同時に、人を踏みつぶす社会の一部にもなりうる(それが状況によって目まぐるしく変わる)ことをさんざん読まされるので、余りに楽観的に感じてしまう。
ただそういうことを差し引いても、「文化大革命」とは一体何だったのか、その恐ろしさがわかりやすく伝わってくる本だった。
「出典があいまいな箇所がある」という批判もあったらしいが、「八九六四」を読んでも、「インタビューに応じてもいいが、名前を出さないで欲しい」という人が多数なようなので、この国においてはまだまだ過去の出来事を忌憚なく話すことは難しいのではないか、と思った。